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晩期資本論(連載第46回)

2015-06-01 | 〆晩期資本論

十 剰余価値から利潤へ(5)

別々の部面にある同じ大きさの諸投資にとっては、たとえ生産される価値や剰余価値がいかに違っていようとも、費用価格は同じである。このように費用価格は同じだということが諸投資の競争の基礎をなすのであり、この競争によって平均利潤が形成される。

 利潤率は個別資本によって、また産業部門によって異なり得るが、そうした個別的利潤率に対して、マルクスは平均利潤率(一般的利潤率)なる概念を定立する。その前提として、「生産部面の違う生産物でも、その生産に同じ大きさの資本部分が前貸しされていれば、これらの資本の有機的構成がどんなに違っていようとも、それらの生産物の費用価格は同じである」という費用価格同等法則から、諸投資(諸資本)の競争の基礎となる平均利潤を導出する。

・・・各々生産部面の異なる資本家たちは、自分の商品を売ることによってその商品の生産に消費された資本価値を回収するのではあるが、彼らは、彼ら自身の部面でこれらの商品の生産にさいして生産された剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるのではなく、ただ、すべての生産部面をひっくるめて社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値を、したがってまた利潤を手に入れるだけである。

 この「社会の総資本によって一定の期間に生産される総剰余価値または総利潤のうちから均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」が平均利潤であり、さらに「均等な分配によって総資本の各可除部分に割り当たるだけの剰余価値」の比率が平均利潤率(一般的利潤率)である。より公式的には、一般的利潤率とは、資本が総体として年間に算出する総剰余価値を、総体として投資される総資本価値で割って得られる平均率とされる。

・・・・いろいろな部面の資本家たちは、利潤が問題となるかぎりでは、一つの株式会社の単なる株主のようなものであって、この会社では利潤の分けまえが100ずつにたいして均等に分配されるのであり、したがって、それぞれの資本家にとってこの分けまえが違ってくるのは、ただ、各人がこの総企業に投じた資本の大きさに応じて、つまり総企業への彼の参加の割合、彼の持ち株数に応じて、違ってくるだけである。

 ここで、マルクスは資本制企業総体を一個の会社に見立てて、平均利潤(率)の概念を説明しようとしている。別の箇所では、より縮約して「それぞれの特定資本はただ総資本の一片とみなされるべきであり、それぞれの資本家は事実上総企業の株主とみなされるべきであって、この株主は自分の資本持ち分の大きさに比例して総利潤に参加する」とも言い換えている。
 このようにマルクスの「総利潤理論」は資本主義を総体的に把握・分析するには適しているが、無数の個別資本が錯綜する巨大なシステムと化した晩期資本主義の現状では、いささか木目の粗い視座となっている。現代では、この理論は「各生産部面の資本は、それぞれの大きさに比例して、社会的総資本によって労働者から搾り取られる総剰余価値の分けまえにあずからなければならない」という、より政治的に言い換えられた「総搾取」の理論に置換されて理解されるべきかもしれない。

与えられた労働搾取度のもとでは、今では、ある一つの特定生産部面で生産される剰余価値の量は、直接にそれぞれの特定生産部門のなかの資本家にとってよりも、社会的資本の総平均利潤にとってのほうが、したがって資本家階級一般にとってのほうが、より重要なのである。

 個々の資本制企業や業界での剰余価値量は、個々の企業や業界にとってよりも、資本家階級一般にとっての利害関係となるというわけである。ここで、マルクスは平均利潤の概念を通じて、明らかに階級闘争の背後にあるものを提示しようとしている。ところが―

いまや特定の諸生産部面のなかでの利潤と剰余価値とのあいだの―単に利潤率と剰余価値率とのあいだだけのではなく―現実の量的相違は、ここで自分を欺くことに特別な関心をもっている資本家にとってだけでなく、労働者にとっても、利潤の本性と源泉とをすっかり覆い隠してしまう。

 特定の生産部門での剰余価値量は平均利潤の規制に共同規定的に関与するが、その関与は個々の資本家の背後で進行するため、資本家の目には見えない。そればかりか、労働者の目にも見えない。その理論的な理由として、マルクスは「価値が生産価格に転化すれば、価値規定そのものの基礎は目に見えなくなってしまう」ことを指摘する。

いろいろな生産部面のいろいろな利潤率が平均されてこの平均がいろいろな生産部面の費用価格に加えられることによって成立する価格、これが生産価格である。

 すなわち、「商品の生産価格は、商品の費用価格・プラス・一般的利潤率にしたがって百分比的に費用価格に付け加えられる利潤、言い換えれば、商品の費用価格・プラス・平均利潤に等しい」。
 マルクスによれば、このように費用価格(c+v)の付加価値たる生産価格こそが商品生産物の現実の価格の基準となるのであるが、これによって生産物の等労働量交換を軸とする価値法則が隠蔽されてしまうことが説かれている。マルクスは、この生産価格論をさらに現実的・動態的な市場価値論を通じて練り上げていくが、これについては次回に回される。


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