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近代科学の政治経済史(連載第5回)

2022-02-12 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ裁判の展開②
 ガリレオが前回裁判から17年も経た1633年に再び告発された理由としては、前年に公刊した『天文対話』が大きく関わっていた。前回見たとおり、この書は地動説を直接に講術しない対話の形式を取り、かつ事前に教皇庁の許可も得ていたにもかかわらず、告発されたのは、地動説を放棄し、今後論じないとした1616年の免責条項に違反したからというのであった。
 しかし、おそらく教皇庁にはめられたと感じたガリレオは、地動説を放棄するという誓約はしていない旨の反論を行ったが、このような弁明はかえって教皇庁の心証を悪くしたようであった。当時すでに前回裁判時の裁判官ベラルミーノ枢機卿は世を去っており、裁判官が入れ替わっていたことも事情を複雑にした。
 頼みは時の教皇ウルバヌス8世がガリレオのパトロンでもあったことであるが、期待に反し、ウルバヌスはガリレオを擁護しようとしなかった。その背景として、『天文対話』で天動説論者として登場する架空人物がイタリア語で「頭の鈍い者」を意味する名前を与えられていたことを自身への風刺とみなした教皇が憤慨したためとする説もある。
 それは穿った見方だとしても、『天文対話』が対話形式を取りつつも、実質上は地動説を正当とするニュアンスで書かれていることは否めないところであり、その点で、前回裁判当時の免責条件に違反したとみなした教皇庁側の立場にも一理はある。
 もう一人の頼みは、ガリレオのパトロンでもあったメディチ家のトスカーナ大公フェルディナンド2世の存在であった。実は『天文対話』もトスカーナの首府フィレンツェで出版され、好学のフェルディナンドに献呈されたものであった。
 しかし、当時のトスカーナ大公国はすでに衰退期にあり、往時の権勢を失い、教皇庁にも押されて北イタリアの小国に落ちていたため、教皇に対して何らの影響力も発揮できなかった。
 こうした不利な情勢の中、ガリレオは異端の有罪宣告を受け、明示的に地動説の放棄を誓約する文書を強制されることとなった。当初の刑は死刑を免れたものの、無期監禁刑であったが、直後に軟禁刑に減刑されたのは、教皇庁としてガリレオの学者としての名声に最大限配慮した結果かもしれない。
 とはいえ、終生にわたる軟禁であり(後にフィレンツェでの自宅軟禁が許される)、全役職を剥奪されたうえ、キリスト教徒としての埋葬も許されないという完全な社会的抹殺が強制されたことに変わりない。当然、ガリレオ著『天文対話』も禁書目録に搭載された。 
 ガリレオ裁判はすべての異端審問と同様、不公正な一方的糾問裁判であったが、それが科学者とその科学学説を対象としたという点で、特異なものであった。これにより、教皇庁は科学学説であっても、教理違反とみなす限り抑圧できるという先例を作ったことになる。このような先例の存在は、来たる近代科学の発展において、大きな制約となるであろうことは確実であった。


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