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貨幣経済史黒書(連載第18回)

2018-10-28 | 〆貨幣経済史黒書

File17:明治初期の貨幣禍

 明治維新はいわゆる鎖国政策のゆえに中世的な旧制が維持されていた諸制度の急速な刷新を導いたが、通貨制度の近代化もそうした急務の一つであった。当時の欧米通貨制度の基本スキームは金本位制であったから、明治政府としてもさしあたり金本位制を導入することが合理的と思われた。
 ところが、幕末開国期の通貨交渉の失敗によって相当量の金が海外流出し、金準備が不足していたこともあり、明治四年の新貨条例は、名目上金貨を本位貨幣としながらも、実質上は銀貨を本位貨幣とする銀本位制でしのぐしかなかった。同時に今日に至る通貨単位・円が採用され、一円銀貨が貿易取引専用通貨となった。
 これは、事実上の金銀複本位制という苦肉策であったが、市場での銀貨流通量が増加するとともに、銀価格の下落により金の海外流出がさらに亢進すると、実質上も金銀複本位制へと移行せざるを得なくなった。その間、新貨条例は幾度も改正を繰り返し、通貨制度はなかなか安定しなかった。
 こうして、不安定・不完全な形ながら近代的通貨制度の導入に向かった日本であったが、近代的通貨の流通場となる近代資本主義は未だ育っていなかった。加えて、政府自身も幕末から明治初頭にかけての財政難を解決する安易な便法として太政官札なる不換紙幣を濫発し、通貨の信用性を支える政府貨幣の信用性自体が低下していた。
 そうしたところへ、西南戦争の勃発が追い打ちをかける。政府は従来の士族反乱を越えた内戦の戦費調達のため、すでに弊害を露呈していた太政官札の増札という便法にまたしても走った。これにより当然にも、戦後、大規模なインフレーションに見舞われた。
 時の大蔵卿・大隈重信は、積極財政による外債の発行を通じて銀貨の市場供給を増やし、だぶついた太政官札を回収するというある意味では後年日本の財政政策の常套となる国債依存策による解決法を主張した。これに対し、大蔵大輔(次官)の松方正義は、緊縮財政でデフレーションを誘導してインフレーションを沈静するという真逆の提案をして上司の大隈と対立した。
 この大隈vs松方論争は、インフレーションが実体経済に見合っているのかどうかという経済分析の対立にあったのだが、大隈がいわゆる明治十四年の政変により地位を追われ、代わって松方が大蔵卿に就任したことで、政治的に決着させられることになった。
 松方は就任早々、自論を実行に移した。しばしば「松方財政」の名で知られる彼の政策は、民営化に政府予算の縮小や増税など、典型的な緊縮財政のアジェンダであった。従って、その結果も教科書どおりであった。最も打撃を受けたのは、当時の庶民階級の大多数を占めていた農民である。
 米を中心とする農産物価格の急落は、明治維新で農奴的な隷属状態から解放されたばかりの貧農の生活を直撃した。結果として、かれらは新たに小作人となるか、都市労働者となるかの選択を強いられた。この時代、都市の労働需要はまだ高くなかったため、多くは小作人を選び、戦前日本の農村経済を特徴付ける地主‐小作人制度が形成された。
 一方では、大地主階級の形成に加え、近代日本初の民営化政策とも言えるいわゆる官営工場払い下げによって政治と結びついた政商資本家層が強固に形成されて財閥企業を創立、ここに近代資本主義経済への道が開かれたのである。新支配層は、明治初期の貨幣禍を福と成したと言えるだろう。


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