ザ・コミュニスト

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玉砕体制は不変

2017-03-11 | 時評

当ブログは東日本大震災・原発事故の同年に開始したため、震災と同じく満6年を迎える。すでに満5年の節目は昨年通過し、次の節目である満10年へ向けた5年間が始まっている。

この間、政権交代をはさみ原発固執政策は変わらず、さらに続くだろう。ほんのわずかの僥倖で日本の半分が汚染し、大量避難民が生じることを免れたにすぎない大事故を経験し、なおかつ今後も大地震の予測がいくつもスケジュールされている中で、なお原発固執を続けるやり方は敗色濃厚な戦争を継続した70年前のやり方と同じである。

原発固執政策を正当化する際には、必ず日本のエネルギー自給率の低さが持ち出されるが、そのような目先の経済的利益と人間の生命や環境の価値とを比較考量するという発想が全く欠けている。これは国土の狭隘さを持ち出して、「大東亜共栄圏」の名の下に日本領土を飛躍的に拡張しようとした侵略の論理と類似の発想である。そうした視野の狭い国家プロジェクトが破綻した場合の損害の測り知れなさはまさに視野に入らないのだ。

一度始めた大国家プロジェクトは止める勇気も知恵もない―。これが、戦前・戦後を通じた日本支配層の体質のようである。破局の予感を持たないわけではないが、その時は国民総玉砕すればよいという安易な終末論があるとしか思えない。不変の玉砕体制である。なぜそのような発想になるのか、単に無責任なのか、それとも玉砕を美風とする観念によるのか。

おそらく両方なのだろう。個が弱く、互いに持たれ合う体質のため責任を持って決断する主体も存在しない一方、いよいよ最期という時にみんなで玉砕することは日本人らしい終わり方だ、と。

そんな玉砕体制はご免こうむりたいと思う者にとっては、今後このまま日本に居続けるべきか、それとも海外に移住すべきかという至難の人生決断を迫られる5年間になりそうである。

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