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沖縄/北海道小史(連載第12回)

2014-02-26 | 〆沖縄/北海道小史

第五章 軍国期の両辺境(続)

【14】戦時下の北海道
 北海道は、明治維新後早くから国土防衛の要地として軍事化されてきたが、日中戦争勃発以降、戦争が長期化すると、この傾向は一段と強まった。それに伴い、大資本が進出していた北海道では、軍需経済が発展した。
 民生部門でも労働者不足を補うため、日本の支配下で朝鮮人・中国人労働者の徴用が大々的に行われ、炭鉱や土木などの分野で重労働に投入された。とりわけ広大な北海道では朝鮮人労働者をもってしてもカバーし切れないところを中国人労働者で補充したため、中国人労働者の動員は全国でも最多となった。こうした植民地人の重労働では、明治期の開拓時代に展開されたタコ部屋労働が応用された。
 一方、明治以降の開発の結果、有数の穀倉地に発展していた北海道は、戦時農業政策の拠点ともなった。その一環として、1938年から39年にかけて、北海道庁は「戦時農業生産拡充計画」を策定し、農業の計画生産体制を整備した。戦況が悪化し、徴兵動員が増加したことに伴い、男子農業者が決定的に不足した44年になると、学徒動員の形で「北海道援農部隊」が組織され、農村労働力不足を補う非常手段が採られた。
 ところで、明治以来北海道を拠点としてきた陸軍第七師団は、日本陸軍の主力部隊の一つとして日中戦争勃発後は関東軍の指揮下に編入され、39年のノモンハン事件でも出動し、ソ連軍と交戦した。日米開戦後は南洋にも転戦したが、その後は北海道に帰還、司令部を帯広に移し、北方守備に専従するようになる。
 しかし日本が制海権を喪失した終戦間際になると、北上した米海軍による室蘭、釧路、根室の主要軍需産業都市を中心とした空襲作戦にさらされ、計3000人近くの死者を出したが、最大都市札幌の被害は小規模で、日本本土主要都市の中では京都と並び壊滅を免れた。
 45年8月、通説によれば日本のポツダム宣言受諾・降伏の引き金となったソ連の対日参戦が始まると、ヤルタ会談に基づき、ソ連軍は当時日本が実効支配していた南樺太、千島列島に進攻、日本の無条件降伏後もなお択捉、国後、色丹、歯舞などを次々と占領していった。
 想定されていたソ連軍の北海道侵攻は、無条件降伏直後の千島列島占守島での激戦の末、停戦・武装解除が成立し、回避し得たことが、敗北の中での日本軍最後の「戦果」となった。
 とはいえ、公式の終戦日8月15日以降に行われた樺太の戦いでは、軍部が本土決戦用の玉砕人海戦力として組織していた国民義勇戦闘隊が唯一実戦投入されたほか、沖縄戦同様の集団自決も見られた。さらには住民の疎開の遅れや疎開船へのソ連軍の攻撃により、民間人の犠牲も甚大であった。

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