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マルクス/レーニン小伝(連載第48回)

2013-01-09 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 ウラジーミル・レーニン

第4章 革命から権力へ

ああいうパン粉からロベスピエールみたいな人物が作られるのです。
―師プレハーノフ


(1)第二次革命の渦中へ

第一次世界大戦と「帝国主義論」
 レーニンは、1912年1月のプラハ協議会を通じてボリシェヴィキ党を自立化させた後、同年6月に妻とともにオーストリア領のクラカウへ移った。当時中・東欧にまたがる多民族帝国であったこの地で、レーニンは民族自決権をめぐって、またしてもローザと論争を展開することになった。
 ローザが民族自決という考え方はブルジョワ的であって、プロレタリア革命抜きの「独立」は民族ブルジョワジーを利するだけだとみなし、自身の祖国ポーランドの早期独立にも反対するのに対し、レーニンは被支配民族のブルジョワジーが支配民族から国家的独立を目指す限り、社会民主党はそれを支援すべきだとしてローザに反駁するのである。
 レーニンはそうした観点から、当時アジアで活発化していた多くは民族ブルジョワジー主導の独立運動を高く評価したのである。そのことを主題的に論じた彼の論文「後進的ヨーロッパと先進的アジア」には、ある意味でマルクスよりも進んだレーニンのアジア観がよく表わされている。
 こうしてレーニンは、今日では重要な国際法原則として確立を見ている民族自決権の先駆的擁護者としての栄誉に浴している。もっとも、彼が権力掌握後にソヴィエト連邦を構築した際に示した態度は、ロシア国内及びその周辺諸民族の自決権を十分に尊重するものとは言い難かったのであるが。
 ともあれ、レーニンとローザが民族自決論争を戦わせた直後に、まさに民族自決をも重要な争点の一つとする第一次世界大戦が勃発したのだった。
 この時期の大戦勃発はレーニンにとっても予想外であったようだが、彼の得意技は臨機応変にあった。不測の事態に直面すると直ちに新たな方針を立てて行動に出るのである。彼が独立したばかりのボリシェヴィキをスイスのベルンの森の中に招集して示した方針は、後に彼が簡潔にまとめたスローガンで表現すれば、「帝国主義戦争を内乱へ!」であった。
 その際、彼はまず表向きは「反戦」の立場をとる。しかしこの「反戦」とは、平和主義からの単純な「戦争反対」とは異なり、大戦によって生じるであろう国内の混乱と窮乏を利用して、それを内発的な革命に転化しようという戦略であった。
 これに対して、マルトフを除くメンシェヴィキやプレハーノフ、さらには1889年以来社会主義インターナショナル(第二インター)を主導してきたドイツ社民党もローザらを除く主流派は開戦後、社会主義者の立場から祖国防衛戦争を支持する左翼愛国主義に流れていった。
 レーニンはこうした流れに反対し、戦争を機に事実上崩壊した第二インターに代わって18年8月、ベルン近郊のツィマーヴァルトで開かれた反戦社会主義者の大会に出席し、反戦運動の国際的連帯を推進した。
 その一方で、彼は重要著作の執筆にとりかかった。今日『資本主義の最高段階としての帝国主義』という表題で知られるこの著作は小著ながら、マルクス没後に進展してきた帝国主義という新たな政治経済的現象をマルクス主義的に分析したものとして、マルクス『資本論』を補充するレーニンの代表的な著作とみなされている。
 この著作で彼が示した帝国主義の定義「独占体と全資本家の支配が成立し、資本輸出が顕著な重要性を獲得し、国際トラストによる世界分割が開始され、最強の資本主義諸国による一切の領土の分割が完了した、そうした発展段階の資本主義」は、長きにわたりレーニンの権威とともに帝国主義の定番的公理とされてきたが、今日ではほぼ否定されていると言って過言でない。
 特に帝国主義を独占資本と直結させるのは後発帝国主義国であったドイツ、米国、日本などには妥当するとしても、先発帝国主義国の英国やフランスにはほとんど妥当しない点で、一面的な定義であった。
 そればかりでなく、表題にあるように帝国主義をもって「資本主義の最高段階」ととらえ、著作の最終章で「死滅しつつある資本主義」と結論づけるのは、資本主義が第一次世界大戦をはるかに越えてまさに今日まで持続してきたことを見れば、早まった予測であったとしか言いようがない。むしろ当局の検閲を考慮して彼が当初与えた表題『資本主義の最新段階としての帝国主義』のほうがまだ堅実であっただろう。実際、帝国主義は当時における資本主義の新たな化身であったからである。
 マルクス理論による限り、資本主義はそれ自身の高度な発達によって共産主義を孵化させ産み出すのであって、「死滅」するようなものではない。この点で、レーニンはまたしてもマルクスから離反するのである。
 しかし、こうしたレーニンの早まった予測も、先に見たスローガンのとおり、戦争を革命に転化させるという彼の革命戦略に照応したものであり、要するにこれも彼の「早まった革命」(=労農革命)の正当性を裏づけるための理論にほかならなかったのである。

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