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マルクス/レーニン小伝(連載第47回)

2013-01-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第2部 略

第3章 亡命と運動

(4)レーニン主義政党の構築

新たな党内抗争
 第一次ロシア革命の挫折後に持ち上がった新たな党内抗争は、従来のボリシェヴィキvs.メンシェヴィキの対立軸がややずれた形のいささか錯綜したものであった。
 それは当時のストルイピン政権下での激しい弾圧を伴う政治反動に対する党の方針をめぐる争いであって、一方に革命的政党組織の解体を主張する「解党派」があり、もう一方には反動化した国会から党所属議員を引き上げさせることを主張する「召還派」があった。
 このうち前者の「解党派」はプレハーノフを除くメンシェヴィキの新たな衣替えであったが、「召還派」にはボグダーノフのようなボリシェヴィキ中の極左派が加わっていた。
 レーニンは弾圧に怯えて党組織の解体を結果する敗北主義的な「解党派」にも、また一見強硬に見えながらせっかく獲得した国会議席を自ら放棄して党の活動能力を弱める「召還派」にも反対であったが、メンシェヴィキの隠れ蓑である「解党派」よりも、理論的にはボグダーノフらの「召還派」を脅威と感じたことが、ボグダーノフに代表される経験批判論に反駁する哲学書の執筆に走らせたものと思われる。
 こうした対立とは別に、党の統一を守るためにボリシェヴィキとメンシェヴィキの間を仲介するという名目で局外中立に立つトロツキーがいた。
 ユダヤ系の富農の家庭に生まれ、ナロードニキからマルクス主義に転向したトロツキーは、元来はメンシェヴィキに属し、レーニンと対立したこともあったが、この頃には内心ではなおメンシェヴィキの新たな衣である「解党派」をかばいつつ、一種の調停を買って出ていたのである。
 レーニンは一時トロツキーの提案に乗って、1910年1月にパリで開かれた党中央委員会総会ではメンシェヴィキが自らの分派を解散し、解党派や召還派と対決するとの条件で自派ボリシェヴィキをも解散するという決断をすら下した。しかし、こうした形式的なトレードオフの常として、対立はかえって激化するようになり、ついに喧嘩闘争のような稚拙ないさかいさえ生じる始末であった。
 この期に及んで、それまで表面上は党の統一を重視する態度を示していたレーニンも、自らの党を独立させる方向に針路をとるようになる。

ボリシェヴィキ党の独立
 ボリシェヴィキを独立させるレーニンの試みの手始めは1910年、ボリシェヴィキ系の新機関紙や雑誌を立て続けに創刊したことであった。この頃、正規の党機関紙『フペリョート』はメンシェヴィキの手に渡っていたのである。
 次いで翌年、パリ近郊に党学校を設立する。これにはボグダーノフら召還主義者がイタリアのカプリ島に滞在していたゴーリキーを囲んで分派の学校を設立したことへの対抗という意味もあったようだ。
 ちょうどその年の9月、政治反動の象徴ストルイピンが帝政ロシア秘密警察のエージェントであったユダヤ系青年によって暗殺されるという事件があった。これで政治反動が直ちに終わったわけではないとしても、帝政が強力な支配人を失ったことは、革命派にとっては僥倖であった。
 ちなみに、ストルイピンは1906年の農業改革法でロシア農村の旧制ミールを解体して農民が土地を所有し独立の農民経営を行い得るようにする自作農育成政策を開始していたが、農民層の反発が強く、進捗していなかった。
 レーニンはストルイピン暗殺という新しい状況をも利用しつつ、1912年1月、プラハで党第六回協議会を指導した。これは正式の党大会ではなかったが、20以上の地方組織が代表を送ってきたことから、事実上の党大会に等しかった。
 この協議会では解党派を非難し、同派が党を最終的に脱退したものとみなす旨の決議を採択した。解党派≒メンシェヴィキであったから、この決議はレーニンが事実上メンシェヴィキを切ったことを意味する。この時から、レーニンは自らの党を正式に持ったことになる。
 同時に、また新しい党機関紙『プラウダ』が創刊された。ロシア語で真実・正義を意味するタイトルを冠されたこの新聞は、後にソ連共産党機関紙として定着し、タイトルとは裏腹の虚偽宣伝の場ともなる。
 それにしても、正式の党大会を開かずに一種の非常措置で反対派を追放し、自派だけで党を固めたレーニン流のクーデター的手法は、いずれ来たる新たな革命の中で、彼とボリシェヴィキが権力を掌握する際の予行演習と言ってもよいものであったが、それは彼自身、この時点ではまだ予想もしていなかったことであった。

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