自遊日記

定年後の備忘録

萩・津和野・岩国の旅(伊藤博文の旧宅と別邸)

2014-10-31 17:51:40 | 国内旅行

松陰神社境内には、「薩長土連合密議之処」と刻まれた

大きな碑がありました。 

坂本龍馬(土佐) 久坂玄瑞(長州) 田上藤七(薩摩)の3名が相寄り

ここで密議をこらしたようです。

幕末の雰囲気に包まれる感じです。

 

 

松陰神社から少し南に歩くと、吉田稔麿 誕生地の碑がありました。

吉田稔麿は、京都三条の池田屋で新撰組に襲われ(所謂 池田屋事件で)

24歳の若さで亡くなった志士です。

 

 

 更に南に歩いた所に伊藤博文 の旧宅がありました。

旧宅の入口。

 

 

 

 

旧宅は茅葺きのこじんまりした家です。

内部は公開されてません。

14歳から14年間この家に住み、ここから松下村塾に通っていたそうです。

その伊藤博文が、遂には日本の初代総理大臣にまで上りつめていきます。

 

 

 

 

伊藤博文の旧宅の隣には、博文が東京で建てた大きな屋敷の一部が ここに

移築されています。

写真は玄関の間です。

 

 

玄関から書院へ続く廊下の天井です。

この天井板は、厚さ3cm、幅145cm、長さ366cm、無節無傷の貴重なものだそうです 。

樹齢約1000年の吉野杉からとったもだそうです。

 

 

 

 離れ座敷の天井板は逆に節だらけのものが使われています。

節が抜け落ちないよう工夫されているようです。

これを建てた宮大工の遊び心があらわれている、との説明を聞きました。

 

 

 

こちらは書院の間の欄間です。

「月の字くずし」の欄間だそうです。

博文がこの欄間 をいつも眺めたいたのだと思うと感慨無量です。

 

 

 

こちらは離れ座敷の袋床です。

 

 

 

庭には、博文が明治天皇から拝領したという灯篭が ありました。

珍しい紋が入っています。

右半分は菊の紋、左半分は桐の紋です。

初めて見る紋です。

 

 

生家の横には伊藤博文公の像がありました。

像の足元には

慎ましやかな茅葺の生家と、功成り名を遂げた後の豪華な別邸が並んで建っています。

農家の子が苦学して総理大臣にまで駆け昇っていった

波乱万丈の人生を物語っているようです。

 

 

 


萩・津和野・岩国の旅(松陰神社 & 松下村塾)

2014-10-28 16:41:09 | 国内旅行

明神池を後にして、松陰神社にやってきました。

吉田松陰が祀られています。

 

 

境内には、松下村塾他 松陰ゆかりの建物がいくつかあります 

写真は「史跡 松下村塾」の碑と案内板です。

 

 

 

 

松下村塾の入口と額。

松陰が身分や階級にとらわれずに教育を行った場所です。

右手に見えている部屋は、講義室です。

 

 

 こちらが講義室です。

高杉晋作や伊藤博文など、維新の原動力になった多くの逸材が

ここで学んでいたかと考えると感慨無量です。

 

 

 

こちらの建物は、松陰の父 杉百合之助の旧宅です

 

 

 

 玄関

 

 

玄関から裏手に回ると、「幽囚室」と書かれた部屋がありました。 

正面の小さな部屋です。

 

 

松陰は、伊豆下田で 海外渡航に失敗し、江戸の獄につながれ、ついで萩の野山獄に移されました。

安政2年に許されて実家預けとなり、この狭い部屋で幽囚の身となったようです。

 

 

旧宅全体はかなり大きく、お茶室等もありました。 

 

 

 

境内に松陰の歌が掲げられていました。

「親思ふ こころにまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」 

 

松陰は安政の大獄で29歳の若さで処刑されましたが、この歌は

処刑の1週間ほど前に詠まれたものだそうです。

 

息子の死を聞いた親はどう思うか・・・

両親のとりわけ深い愛情により育てられた松陰の心情を考えると

 胸がつまる思いです。

 

 

 

近くに「孝行竹」という名の竹が植えてありました。

この竹は日本の真竹のように、横に地下茎が伸びるのではなく、

親の元に集まるような形で根を張るそうです。

それが親を守っている姿に見え、孝行竹という名前がついているようです。

親孝行の松陰にちなんで、この境内に植えられているようです。

 

次は伊藤博文旧宅を訪れました。

(詳しくは次項にて)

 

 

 

 


萩・津和野・岩国の旅(萩観光ホテル&明神池)

2014-10-26 15:03:25 | 国内旅行

 

 

夕刻萩観光ホテルに到着。 

 

 

ひと風呂浴びてから夕食・・・

風呂場の写真が撮れないので、ホテルのHPから露天風呂の画像をお借りしました。

笠山の中腹に建っているホテルなので眺望抜群でした。 

 

 

 

漁港も近く、新鮮な海の幸(フグさし、フグちり、刺身・・・)が美味でした。 

 

 

 

朝のロビー

麓に漁港が見えました。 

 

 

 

朝食会場からの眺望もよかったです。 

天気はイマイチでしたが・・・

 

 

ホテル前の絶景スポット。

この額縁のような景観を背景にして、記念写真を撮っている人が何人かいました。 

 

 

 

 

ホテルを出てすぐのところに、明神池があります。

何の変哲もないようにみえる池ですが、ちょっと不思議な池です・・・ 

 

 

この池には、海の生き物 タイやヒラメがすんでいます。

国指定天然記念物の海跡湖で、ナニコレ珍百景にもとりあげられたれたそうです。

溶岩の隙間から海とつながっており、潮の干満も見られるようです。

 

 

 

対岸には厳島明神と弁財天が祀られています。

 

 

扁額には、厳島大明神 と書かれています。

萩藩2代藩主綱広が安芸の厳島明神を勧請して分岐、

貞享3年に創建された神社だそうです。 

明神池という名前もここから来ているようです。

 

 

 

右の石段のところで魚にエサをやっている人がいました。

エサを投げると魚の口に入る前に、トンビにさらわれることも多い由。

池のほとりにいた地元のひとから、いろいろ教えてもらいました。

今回は好きな場所に、好きなだけ居られる手造り旅行です。

のんびりと地元の人との交流も楽しめました。

 

 

 

魚の姿はどれも黒っぽくて、うまく撮れませんでした。 

厳島大明神は、漁業の神様として信仰され

漁師さんが奉納した魚が増殖し、この池には魚がいっぱいいるようです。

 

この後、松下村塾に向かいました。

(次項に続く・・・)

 

 

 

 


萩・津和野・岩国の旅(志士達が駆けた道~萩往還)

2014-10-25 17:51:02 | 国内旅行

秋吉台から萩をめざしていると、途中 「萩往還」という変わった名の道の駅があり

ちょっと一服させてもらいました。

吉田松陰を中心に高杉晋作、久坂玄瑞の像がありました。

「萩往還」は萩から防府までの約53kmの道で、もともと参勤交代のための「お成道」として

開設されたものだそうですが

幕末には、京へ向かう志士たちも、この古道を駆け抜けていったそうです。

(道の駅の近くに古道があったそうです)

今私たちは、京都から萩をめざしてここにいますが・・・

ちょっと感慨深いものがありました。

 

 

 

 

 

来年のNHKの大河ドラマは「花燃ゆ」で、

吉田松陰の妹 文(ふみ)の生涯を描いたものだそうです。

文の夫 久坂玄瑞は、写真の経歴を読むと25歳の若さで亡くなったようです。

来年の大河ドラマ、登場人物がちょっと地味すぎて、視聴率があがるか心配ですが

私はしっかり観させていただくつもりです。

 

 

 

こちらには、伊藤博文、木戸孝允、山形有朋の像がありました。

奇兵隊の中心人物で後に総理大臣にもなった、山形有朋

明治維新三傑のひとり、木戸孝允

日本最初の総理大臣、伊藤博文

それにしても、よくぞここまですごい人材を輩出したものだと、改めて長州に感服しました。

この道の駅「萩往還」には松陰記念館も併設されており、近くにある

涙松跡といった松陰ゆかりのスポットなども丁寧に教えてくれました。

 

 

 

 道の駅「萩往還」を後にして、夕刻萩の東にある笠山に到着。

山の頂上にある火口と展望台を訪れました。

左の階段を降りたところは、火口のど真ん中です。

 

 

 

火口を見下ろした図。口径30m、深さ30m の噴火口跡です。

噴火口のど真ん中まで階段で降りていけるところは、珍しいようです。

 

 

 

御嶽山の噴火のことがちょっと頭をよぎりましたが、下まで降りました。 

ちょっと不気味な感じでした。

 

 

 

 

こちらは笠山の展望台です。 

 

 

 

沖に浮かぶ島はどれも平たいホットケーキのような形をしていますが

いずれも笠山の噴火で出来たものだそうです。

展望台と火口の見学を終え、笠山の中腹にある「萩観光ホテル」 に向かいました。

(次項に続く・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


萩・津和野・岩国の旅(秋芳洞&秋吉台)

2014-10-24 16:26:57 | 国内旅行

 

先日、2泊3日で萩・津和野・岩国方面を巡りました。

京都から新山口までは新幹線、そこから先は駅レンタカーを利用しました。

 

 

新山口駅前には、放浪の歌人「種田山頭火」の像がありました。

山口県防府の大地主の家に生まれたが、その後の人生は波乱万丈だったようです。

台座には、「まったく雲がない 笠をぬぎ」という句が刻まれていました。

5・7・5という俳句の約束事にこだわらない、山頭火ならではの句です。

 

 

 

昼前に新山口をレンタカーで出発。

昼食は、新山口駅で買った駅弁です。質素倹約を旨としています。

家内はふく寿司、私はSL弁当。それなりに美味でした。

 

 

 

30分ほど走って秋芳洞に到着。

昔、会社の慰安旅行で訪れて以来の2度目の訪問ですが

昔の記憶はほとんど雲散霧消、はじめての訪問と変わり無い状況です。

 

 

 

洞内から入口を見る。

 

 

 

日本3大鍾乳洞に数えられる巨大な空間。

川沿いに遊歩道があります。

 

 

百枚皿。

皿状の岩が斜面に重なるようにして連なっています。

その規模は世界屈指だそうです。

 

 

垂れ下がる、鍾乳石。

 

 

これは「巌窟王」と呼ばれている部分です。

言われてみれば巌窟王に見えなくもありませんが。

 

 

 

約2時間ばかり洞内をウオーキングした後、地上へ。

土産物店の前に、石の水車小屋がありました。

売り物ではないようですが・・・

 

 

駐車場近くの立派なお宅。

山口では、赤茶色の瓦をたくさん見ました。

 

 

洞窟散策の後は、地上の秋吉台へ。

 

 

 

 

大草原に白い石灰岩が映える、カルスト台地です。

昔、慰安旅行でこのあたりを訪れた際、馬に乗ったような記憶がかすかにありますが

定かではありません。

何十年も前の話で、記憶も薄れつつあります。困ったものです。

 

 

 

カルストロードのドライブは快適そのものでした。

私が運転中の写真係りは家内です。

 

 

 

長者ケ森。

カルストロード沿いにある長者ケ森は、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の武将が

隠れ住んでいた、と伝えられている森です。

時間が無いので遠くから眺めるだけで、萩に向かいました。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


本「下天を謀る」

2014-10-22 15:11:36 | 読書

 このほど、安部竜太郎著「下天を謀る」上下巻を読了しました。

「その日を死に番と心得るべし」との覚悟で合戦を生き抜いた、藤堂高虎の物語です。

身長190cm、体重100kg超、戦国一の偉丈夫。

堂々たる体格に似あわず、緻密で冷静な判断力で難しい時代を生き抜く・・・

司馬文学では藤堂は俗物武将として描かれているようですが

この本では傑物として描かれています。

実像はどっちなのでしょうか?

私的には、安部氏描く藤堂を信じたい気分です。

 

 


「エンパイアステートビル」からの眺望

2014-10-08 18:25:25 | その他

先日、あべのハルカスを訪れ、眺望を満喫しました。

煙と何とかは高いところへ登りたがる、と言われていますが

私も高いビルを見ると、たちまち登りたくなる方です。

30数年前、4度ばかり仕事で米国を訪れました。

その際は、ヒマをみつけては高いビルに登りました。

ハルカスに触発されて、昔の古い写真を並べてみました。

 

 

 

上の写真2枚は、 エンパイアステートビルの展望フロアから撮った写真と

入場チケットです。

エンパイアステートビルは102階 380m。かっては世界一の高さを誇った

ニューヨークのシンボルですが、今や多くのビルに抜かれつつあります。

あべのハルカスは60階 300mですので、まだエンパイアステートビルには及びません。

 

 

 

 こちらは、シカゴのシアーズタワーの入場チケットと眺望です。

シアーズタワーは110階 433mでエンパイアステートビルより高いビルです。

眺望は、あべのハルカスからの眺めとあまり変わらない感じで

それほど高さを感じませんが・・・

 

 

 

 

 

こちらは、ニューヨークの貿易センタービルと入場券です。

残念ながら、2001年9月11日の 同時多発テロで崩壊しましたが

110階 411mのツインタワーは、私の訪れた30数年前は、まだまぶしく輝いていました。

 

 

 

ツインタワー107階の展望デッキからの眺望です。 

 

  

 

こちらは先日訪れた、あべのハルカス 60階 300mからの眺望です。

アメリカの100階建 400mクラスのビルとは、高さでは敵いませんが

窓から見下ろした景観では、あまり遜色がないように見えます。

 

米国に追いつき追い越せを合言葉に、米国詣でを繰り返していた

現役時代が懐かしく思い出されます。 

 

 

 

 

 


大阪夏の陣の激戦地「茶臼山」

2014-10-04 17:56:14 | 国内旅行

茶臼山にやってきました。

お濠に架かる橋を渡っていきます。

こんもりとした丘が茶臼山です。

 

 

 

あべのハルカスから見下ろした「茶臼山」です。

右上に橋が小さく見えています。

 

 

 

「茶臼山」には「大阪の陣400年」の、のぼりが立っていました。

豊臣家の家紋 桐、徳川家の家紋 葵が相対しています。

 

 

 

ここ茶臼山は真田幸村が陣を敷き、徳川勢と激戦を繰り広げたところです。

両軍の布陣の絵と解説がありました。

 

 

お馴染みの六文銭の、幟のもと、3500の真田隊は15000の越前勢に

突進していったそうです。

数に劣る真田隊だったが、一時は家康の本陣近くまで攻めこんだようです。

しかし、勢いを盛り返した越前勢の反撃にあい、結局幸村は討ち取られました。

 

 

 

お濠では、亀がのんびり日向ぼっこをしていました。

昔ここでが激しい戦闘があったとは思えない、のどかな光景でした。

 

 

 

茶臼山を後にして、すぐ近くの通天閣にやってきました。

ごちゃごちゃした大阪らしい感じが何ともgoodです。

 

 

 

 

家内のリクエストで串カツ屋に入りました。

帆立、うずら、牛、玉ねぎ 、アスパラ・・・

アツアツで美味でした。

メニューをみるとゲテモノのコーナーもありました。

カエル、コオロギ、ワニ、カンガルーetc

勇気のない私達には、とても手がでませんでしたが・・・。