彦根城と庭園の玄宮園を見学してから。
内堀の周りを歩いて、大手門(反対側!)の駐車場まで帰る途中・・・
代々彦根藩の家老を勤めた、脇家屋敷跡・長屋門がありました。
家老屋敷跡だというのに、ついこないだまで人が住んでたみたいに、赤いポストがあるのが面白くて、カメラに収めたのですが。
ちょっと調べてみると、面白いことが分かりました。
まずは・・・
ご家老のお屋敷だというのに、ちょっと小さいよね、というのが、第一印象でしたが。
ウイキペディアで調べてみると・・・
(長屋門とは)
どうも、この建物はあくまで門らしくて、この奥に大きな?お屋敷があっただろうことが解せました。
*どうも、家老屋敷の庭園は、現在、天理教の彦根分教会に移築されているようです。
ある資料で、「その庭園・・・もともとは彦根東高校のあたりにあった、家老脇家の下屋敷を移転したといわれている。この茶室は、日本で2つしかない内の1つの武家式茶室といわれている」とあるから、この長屋門のある場所のことについて書いてあるのだと思います。
まあ、これだけでは下に解せぬから、もっと詳しく調べてみたいものです。
(いったい何のために?)
やっぱり、お屋敷は大きかったのね・・・
そういえば。
写真をよく見ると、この建物には窓がない!
少なくとも、要人が住むための快適な住居ではなかったようですね。
さて。
代々彦根藩家老を勤めた脇家の・・・
初代の脇豊久は元々武田家に仕えていた武士でしたが。
武田家滅亡後に徳川家康に仕え・・・
そして井伊直政(関が原の戦いでは、徳川四天王と呼ばれ、その戦功として、彦根・佐和山城が与えられる)に預けられました。
(主君・直政は、関が原の戦いで負った傷が悪化して、1602年に亡くなったが)
井伊家に仕えて、その活躍から2000石の知行を得て、家老職に就きました。
戦国武将らしい、激動の人生です。
最後は地に足をつけて、安定。
以後~ん百年、子孫安泰とあいなりました。
さてさて。
写真でお分かりの通り、この脇家長屋門の右手には、案内の碑が立っていました。
(後ろに居たカップルが、「家老屋敷だってよ~、キャハハ」と言いながら、通り過ぎて行きました。
ああ、こんなに念入りに記事を投稿することになるなんて)
「脇家は代々井伊家の家老にして後裔に脇光三あり
明治36年4月10日蒙古にて死去行年25才」
(碑文より)
と書かれてありました。
なんで蒙古(モンゴル?)に居たのだろう?、若くして病没されたのね・・・と勝手に解釈していたのですが。
調べてみると・・・
この脇光三という人物は、明治の日露戦争において、日本軍の隠密作戦に参加。
ロシア軍背後の交通・通信線を破壊するために、満州へと向かったのだが・・・
目的を果たす前に捕まり、殺された人なのでした。
が、敵に真っ向から立ち向かう姿は、勇気ある志士として、大変インパクトがあったようで。
また、この事件以後、ロシア軍は鉄道警備に相当な軍事力をつぎ込まねばならなくなり・・・
彼らの行動は、烈士として高く評価されたそうです。
代々彦根藩家老を務めた脇氏の末裔であり、烈士の・・・脇光三氏。
彼は、もともとは教育者として名高い浅岡一の三男として東京で生まれ、後に脇家に養子に入り、脇姓を名乗るようになりました。
医師を目指して第二高等学校に進みましたが・・・
「大陸熱に憑依かれた」彼は、軍人志望!
しかし、体格検査の結果、夢破れ、軍医となって大陸を目指すことにしました。
その頃、日露戦争の開戦。
戦場である支那語の通訳が不足しており、陸軍省はこれを外国語学校に求め・・・
その流れを受けるべく、脇光三は、二高を中退して、拓殖大学の前身である「台湾協会学校」に入学しました。
(拓大の第一期生だそうです。)
念願としていた大陸での隠密作戦への参加も、迷うことなく突き進んで行ったようです。
彼の軍事行動への賞賛として、戦前には、彦根市からも『烈士脇光三伝』が出版されました。
そして、昭和6年には拓殖大学のキャンパス内に「烈士脇光三碑」が建立されるに至りました。
この碑は、現在は八王子キャンパス管理棟前に移されているそうです。
なんでもない、建物の撮影のつもりでしたが・・・
調べてみると、素人の私にも、コレだけのことが分かりました。
じつに奥深い・・・
かつ、なんと層の厚い嗜好であろうか。
ウエにはウエの、先輩方が沢山おられますね。
諸先輩がたのページのおかげで、今回もまた、コレだけのことを調べることが出来ました。
内堀の周りを歩いて、大手門(反対側!)の駐車場まで帰る途中・・・
代々彦根藩の家老を勤めた、脇家屋敷跡・長屋門がありました。
家老屋敷跡だというのに、ついこないだまで人が住んでたみたいに、赤いポストがあるのが面白くて、カメラに収めたのですが。
ちょっと調べてみると、面白いことが分かりました。
まずは・・・
ご家老のお屋敷だというのに、ちょっと小さいよね、というのが、第一印象でしたが。
ウイキペディアで調べてみると・・・
(長屋門とは)
どうも、この建物はあくまで門らしくて、この奥に大きな?お屋敷があっただろうことが解せました。
*どうも、家老屋敷の庭園は、現在、天理教の彦根分教会に移築されているようです。
ある資料で、「その庭園・・・もともとは彦根東高校のあたりにあった、家老脇家の下屋敷を移転したといわれている。この茶室は、日本で2つしかない内の1つの武家式茶室といわれている」とあるから、この長屋門のある場所のことについて書いてあるのだと思います。
まあ、これだけでは下に解せぬから、もっと詳しく調べてみたいものです。
(いったい何のために?)
やっぱり、お屋敷は大きかったのね・・・
そういえば。
写真をよく見ると、この建物には窓がない!
少なくとも、要人が住むための快適な住居ではなかったようですね。
さて。
代々彦根藩家老を勤めた脇家の・・・
初代の脇豊久は元々武田家に仕えていた武士でしたが。
武田家滅亡後に徳川家康に仕え・・・
そして井伊直政(関が原の戦いでは、徳川四天王と呼ばれ、その戦功として、彦根・佐和山城が与えられる)に預けられました。
(主君・直政は、関が原の戦いで負った傷が悪化して、1602年に亡くなったが)
井伊家に仕えて、その活躍から2000石の知行を得て、家老職に就きました。
戦国武将らしい、激動の人生です。
最後は地に足をつけて、安定。
以後~ん百年、子孫安泰とあいなりました。
さてさて。
写真でお分かりの通り、この脇家長屋門の右手には、案内の碑が立っていました。
(後ろに居たカップルが、「家老屋敷だってよ~、キャハハ」と言いながら、通り過ぎて行きました。
ああ、こんなに念入りに記事を投稿することになるなんて)
「脇家は代々井伊家の家老にして後裔に脇光三あり
明治36年4月10日蒙古にて死去行年25才」
(碑文より)
と書かれてありました。
なんで蒙古(モンゴル?)に居たのだろう?、若くして病没されたのね・・・と勝手に解釈していたのですが。
調べてみると・・・
この脇光三という人物は、明治の日露戦争において、日本軍の隠密作戦に参加。
ロシア軍背後の交通・通信線を破壊するために、満州へと向かったのだが・・・
目的を果たす前に捕まり、殺された人なのでした。
が、敵に真っ向から立ち向かう姿は、勇気ある志士として、大変インパクトがあったようで。
また、この事件以後、ロシア軍は鉄道警備に相当な軍事力をつぎ込まねばならなくなり・・・
彼らの行動は、烈士として高く評価されたそうです。
代々彦根藩家老を務めた脇氏の末裔であり、烈士の・・・脇光三氏。
彼は、もともとは教育者として名高い浅岡一の三男として東京で生まれ、後に脇家に養子に入り、脇姓を名乗るようになりました。
医師を目指して第二高等学校に進みましたが・・・
「大陸熱に憑依かれた」彼は、軍人志望!
しかし、体格検査の結果、夢破れ、軍医となって大陸を目指すことにしました。
その頃、日露戦争の開戦。
戦場である支那語の通訳が不足しており、陸軍省はこれを外国語学校に求め・・・
その流れを受けるべく、脇光三は、二高を中退して、拓殖大学の前身である「台湾協会学校」に入学しました。
(拓大の第一期生だそうです。)
念願としていた大陸での隠密作戦への参加も、迷うことなく突き進んで行ったようです。
彼の軍事行動への賞賛として、戦前には、彦根市からも『烈士脇光三伝』が出版されました。
そして、昭和6年には拓殖大学のキャンパス内に「烈士脇光三碑」が建立されるに至りました。
この碑は、現在は八王子キャンパス管理棟前に移されているそうです。
なんでもない、建物の撮影のつもりでしたが・・・
調べてみると、素人の私にも、コレだけのことが分かりました。
じつに奥深い・・・
かつ、なんと層の厚い嗜好であろうか。
ウエにはウエの、先輩方が沢山おられますね。
諸先輩がたのページのおかげで、今回もまた、コレだけのことを調べることが出来ました。
懐かしく思いながら写真を見ました。
ここのお城は石垣に風情がありよかったね~ と主人と今でも話しています。
あの苔むした感じが 歴史を感じさせ
天守閣は思ったより小さく・・・
行ったときは平日で人がほとんど居ませんでしたので
静かで雰囲気もあり良かったです。
子達を連れてると、ハイキングさながらでした。
どこまでも立派な石垣でしたが、以前来た時の記憶は全然残ってません。
特に興味なかったからな~・・・
雨がしとしと降っていたことだけ覚えてます。
天守閣の中の急な階段。
そこも、「急」ということしか記憶に残ってませんでしたが。
子供たちにとっては、かなり危険かも・・・
長男は一人で上がりましたが。
次男は、登りで既に半泣き。
上に上がっても、元気が無くなってしまい。
下りは、「怖くて降りれないよう」と言い出しました。
まあ、無理ないですね。
抱っこして、降り・・・
外に出たら、泣き出してしまいました。
(でも、涙は出ていない)
「もう行かない!」と言ってました。
夏休み最後の日曜日で、結構込み合っていました。
いかにもな観光日和で、誰も天守閣で写真を撮っていないし・・・
誰も、そこまで(記念写真以外に)写真を撮ろうとしないのか・・・
写真撮れなかったのが、ちょっと残念です。