京都大原紫葉工房便り

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岩村城登城口~一の門~土岐門まで。

2010-11-19 17:35:20 | 石垣のある風景(大原以外の!)
去る9月22日

岐阜県恵那市岩村町
岩村藩・藩主邸跡



岩村のシンボル・太鼓櫓と表御門

子どもの建っているところが大手筋になっていて
そこから真っ直ぐに岩村城に上がる道があります。

門の奥が、旧藩主邸の敷地・・・


(城下町を一望できます)

今は、岩村歴史資料館となっています。

関ヶ原合戦後の戦後処理
岩村城は廃城を免れたのですが

1601年に大給松平家の家乗が二万石で入封して
岩村藩が成立した後は

山上の生活は不便として
岩村城の北西山麓に藩主邸を構え
そこを居館としました。

(恵那市発行・資料館で購入したパンフレット参照)



歴史資料館の裏手には、民俗資料館とお稲荷さんがあります。

さて
歴史資料館・元藩主邸の敷地に車を置いて
そこから、岩村城への登城をしました。



今宵のお宿
岩村山荘

登城口にあります。



しばらく歩くと
すぐに、それらしくなってきました。



石畳と土壁・石垣



復元された下田歌子勉学所



下田歌子女史は、明治の人
実践女子大学の創始者です。

藩士の娘であったが、藩校の知新館は男子しか入門を許されなかったため
祖母から学問の手ほどきを受けたそうです。

宮中の女官となったが、ある時詠んだ歌が
「万葉時代の歌と遜色ない」と評価を受け
歌子の名を賜ったそうです。



さて
登城口・石畳の道を登っていきますと



ひたすら真っ直ぐ石畳
「藤坂の険」と呼ばれる個所です。

途中で、ぐっと左折する場所がありまして



戦になると、ここに初門が構えられ、
攻防の第一とされました。

初門の急カーブの後
再び、ひたすら真っ直ぐの石畳



よくもまあ、こんなに沢山石を運んだものだと思います。

真っ直ぐの石畳の先に
石垣が見えてきたと思ったら



ここが、一の門



ここから先が城内とされました。



ポイントごとにある看板は、イラスト入りでとても親切
往時の姿を想像しやすいです



一の門の先
次の土岐門まで、逆くの字に続く坂を
土岐坂と言います。

ここの石垣が
岩村城の中で一番古いらしく
中世末期のものと言われています。



この湾曲が時代を感じさせます



いったい
木が先に生えていたのものか?
後から生えてきたものか?




上から見たところ





この逆くの字の坂を上がると
土岐門跡に着きます。



門から、九十九折になって
追手門に続きます。


(一の門

(追手門方向)

土岐門の由来
初期の城主の遠山氏が、土岐氏に侵攻した際
その居城の城門を奪い、ここに移した、という伝承があるそうです。

現在も、唯一残存する城郭建造物として
岩村町飯羽間の徳祥寺に移築されています。



さて
土岐門の先は
わりと平坦な道



進行方向のちょっと先に
空堀があって
岩村城の見どころの一つである
畳橋の遺構が見えてきます。


~~~~~ つ づ く ~~~~~


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