神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

高田稲荷

2018-05-14 06:08:31 | 神田川5

 「高田稲荷明神社 同所八幡宮より右の方、道路を隔てあり。戸塚村の産神と称す、故に戸塚稲荷とも呼べり。・・・・元禄十五年壬午四月、霊告ありて榎の椌より霊泉湧出す、眼疾を患ふる者此霊水を以て洗ふに、はたして奇験あり、仍土俗当社をさして水稲荷とも称せり。・・・・船繋松は同じ堂後山の中腹にありしが、是も今は枯たり。・・・・守宮池も同じ山下にあり。水中蜥蜴多し、故に此名あり」(「江戸名所図会」)

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 宝泉寺」(図中の文字は活字に置き換えています。)

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    ・ 宝泉寺  「禅英山宝泉寺 稲荷と毘沙門両社の別当寺にして、天台宗東叡山に属す」(「江戸名所図会」) 背景の建物が早稲田大学9号館で、高田稲荷(水稲荷)の旧社地です。 

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    ・ 富塚跡  「このあたりは、昭和41年(1966年)甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷地であった。神社の境内には、富塚(円墳)があった。・・・・」(新宿区教育委員会の解説プレート)

 <高田富士>  「高田富士山 稲荷宮の後にあり。岩石を畳むで其容を模擬す。安永九年庚子に至り成就せしとなり。此地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者、これを企てたりといふ。毎歳六月十五日より同十八日まで山を開きて参詣をゆるす」(「江戸名所図会」) その後一大ブームとなった富士塚の第一号で、その規模は「東京府志料」の数字で「高五丈周囲三十間」です。なお、高田富士の見取り図が「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」に掲載されています。円形と楕円形が結合した形で、円形部には狐穴があり、楕円形の方に富士が築かれています。元は前方後円墳だったように見え、あるいは、戸塚の地名由来となった富塚(狐塚)の前方部分に富士塚を築造したのでしょうか。

 

 

高田馬場

2018-05-12 06:01:08 | 神田川5

 「高田馬場 同じ北の方にあり。追廻しと称して二筋あり。竪は東西へ六町に、横の幅は南北へ三十余間あり。相伝ふ。昔右大将頼朝卿隅田川より此地に至り、軍の勢揃ありし旧跡なりといへり。土人の説に、慶長年間越後少将(忠輝卿)の御母堂高田の君、遊望の設として開かせらるゝ所の芝生なりしが、寛永十三年に至り今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり」(「江戸名所図会」) 大きさに関する「新編武蔵風土記稿」の数字は、東西180間(≒327m)、南北26間余(≒47.3m)です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田馬場」  「北の方の松の列樹は、享保の頃台命によりて風除のために是を植えらるゝといへり」 その手前には茶屋が立ち並び、雑司ヶ谷鬼子母神への参詣客で賑わったとか。

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    ・ 高田馬場跡  早稲田通り西早稲田交差点の北西角です。正面の建物には、新宿区教育委員会の解説プレートが貼られ、「八軒の茶屋があった」などとあります。 

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    ・ 堀部安兵衛之碑  水稲荷神社の境内です。元禄7年(1694年)、堀部安兵衛の助太刀の舞台となったのは、早稲田通りの一つ北側にあった茶屋町通りに面した一角でした。 

 「江戸名所図会」には高田馬場だけでなく、高田八幡宮(穴八幡)、高田稲荷明神社(水稲荷)、高田富士、高田七面堂(亮朝院)など、高田を冠する周辺の名所が掲載されています。うち、最初に出てくる高田八幡宮の項で、「牛込の総鎮守にして高田にあり。世に穴八幡とよべり。此地を戸塚と云」とあり、戸塚と同義でより普及していた地名なのがうかがえます。その高田の地名由来ですが、引用文では家康の六男、松平忠輝(越後高田藩主)の生母、茶阿局との関係を指摘していますが、中野区の上高田や豊島区の(下)高田に及ぶ広域地名として、古くから存在したとの説もあり、こちらは高台にある畑地の意の地名で、「小田原衆所領役帳」に太田新六郎康資の所領として、「江戸高田内赤澤分」、「江戸高田添田分」などと記載されています。

 


甘泉園

2018-05-11 06:12:48 | 神田川5

 面影橋下流の右岸段丘にある甘泉園公園は、元は徳川御三卿の一つ、清水家下屋敷の庭園でした。大名庭園のお約束通り、池を中心に築山を配した回遊式で、庭内の湧水がお茶を入れるのにかなっているというので、「甘泉園」の名が付けられました。明治後半から昭和にかけて、相馬家、早稲田大学の所有を経て、昭和36年(1961年)、早稲田大学、水稲荷神社間の所有地の交換によって、水稲荷神社の社地となります。その後庭園の大半を東京都が取得し、現在は新宿区立の公園として公開されています。

 

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    ・ 甘泉園前  新目白通りから(地名ではなく、本来の)高田馬場方向のショットです。坂の中腹右手の茂みは手前の低いところが甘泉園、奥は水稲荷神社境内の高田富士のものです。  

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    ・ 甘泉園公園  昭和44年(1969年)開園、公園面積14235平方メートル、開園時間は午前7時から午後7時(11月から2月は午前7時から午後5時)、入場料は無料です。 

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    ・ 甘泉園公園  段丘斜面中腹に水源が設けられ、池に流れ落ちる構造になっています。かってはここから水が湧き出していたのでしょうか。 

 <山吹の井>  「江戸名所図会」は「七重八重花は咲けども・・・・」の古歌にまつわる、太田道灌の伝説の地、「山吹の里」を「高田の馬場より北の方民家の辺をしか唱ふ」としたうえで、その付近の「三島山」に言及しています。「同所民家の後園にあり。古松四五株繁茂せる樹蔭に三島明神の禿倉あり、・・・・此山岸に少しばかりの甘泉あり。是を山吹の井と呼べり」 三島神社は水稲荷が移転する以前から当地にあり、「新編武蔵風土記稿」の収録する下戸塚村の字、三島上、三島上の由来となった神社で、現在は水稲荷神社の境内社となっています。その三島神社の祀られた山岸にあった甘泉は、→ 「江戸名所図会 / 山吹の井」にも描かれていますが、近所の洗い場となっていた風なので、大名庭園に取り込まれる以前の様子なのでしょう。

 


下戸塚村用水

2018-05-10 06:23:39 | 神田川5

 「新編武蔵風土記稿」に「戸山屋敷より出る小流を用水とす」とあるように、下戸塚村は蟹川の流末を田用水としていました。その灌漑面積は「東京府志料」の数字で8町3反8畝18歩、田圃の大半は神田川沿いの三島下(現甘泉園下)、石田前(都交通局など)そして蟹川沿いの稲荷前(早稲田中・高キャンパス)にありました。ところが、→ 「東京近傍図」を見ると、早稲田通りを越えた蟹川は、途中右カーブで早稲田村の方に向かっており、北側にある神田川沿いの田圃を灌漑できるとは思えません。そのかわりに、田圃の中央から発して、神田川本流と並行して東に向かうもう一流を描いており、こちらの方が灌漑用水としては適しているように見えます。

 

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    ・ 「下戸塚村絵図」  「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」(昭和60年 新宿区教育委員会)に収録された、嘉永5年(1852年)の「御府内場末往還其外沿革図書」附図をもとにイラスト化したものです。  

 彦根藩35万石井伊家の抱屋敷が蟹川流域を占め、その中の流路が明示されていないのは残念ですが、「近傍図」やその後の地形図からみて、途中右折して早稲田村に抜けているのは間違いありません。問題は抱屋敷の上端から流れ出、右カーブで東に向かう流れとの関係で、抱屋敷と抱地を分ける点線から、こちらも蟹川の分流ようで、「東京府志料」はこれを中川と呼んでいます。「中川 早稲田村ニテ本流ヨリ分レ西北ニ向ヒ又東ニ折レテ江戸川ノ上流ト加ニ川トノ間ヲ流レ、小日向松ヶ枝町ニテ本流ニ合ス」 ただ、中川は周辺の雨水、湧水も集めていたようで、「近傍図」の描くのよりさらに西側や北側を起点に、水路を描いているものもあります

 

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    ・ 字三島下  甘泉園前から新目白通りを挟んで神田川方向です。「村絵図」の左手に切れますが、清水家や水戸家の抱え屋敷だったこの一帯も田圃でした。   

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    ・ 字石田前  同じく新目白通り越しですが、神田川と反対方向です。右手前は都交通局早稲田営業所、奥はリーガロイヤルホテルや大隈会館です。この付近に中川の先端がありました。 

下戸塚村

2018-05-09 06:05:05 | 神田川5

 「下戸塚村は江戸より行程一里半、家数五十一、東は早稲田村及関口町耕地、南は尾張殿戸山屋敷、及牛込馬場下町、西は源兵衛村、北は神田上水堀を隔て下高田村、東西六町、南北九町、当村正保三年牛込済松寺領に賜り、今に然り、戸山屋敷より出る小流を用水とす、村の西に係る往還は、牛込辺より雑司ヶ谷への道にて、道の北界を奥州の古道と云」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は戸塚村当時の大字境です。

 中央やや左上の長方形の枠が高田馬場、そこから北に向い面影橋を渡る道が、引用文中の「西に係る往還」で、下戸塚と源兵衛村の村境となっている古道です。一方、戸山学校(旧尾張藩戸山屋敷)から流れ出、穴八幡下で早稲田通りを越えているのが、同じく引用文中の「戸山屋敷より出る小流」(通称蟹川)で、こちらは東隣りの早稲田村との境を画していました。こうした下戸塚村の範囲ですが、新住居表示の実施に伴い、西の境は明治通りにシフトし、名称も西早稲田(1~3丁目)となりました。これに対し、東の境はおおむね維持されていて、大隈講堂、大隈庭園のある一角などが戸塚町1丁目を名乗っています。

 

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    ・ 水稲荷神社  「村ノ鎮守ナリ・・・・元禄十五年社傍ニアル榎ノ椌ヨリ清水噴出ス故ニ土人称シテ水稲荷ト云ナリ」(「東京府志料」)

 「新編武蔵風土記稿」は下戸塚村の鎮守について触れていません。あるいは「諏訪社 当村(諏訪村)及戸塚村、大久保百人町、西大久保村等の鎮守なり」に、下戸塚村も含まれているのかもしれません。もう一つ有力な鎮守候補としては、将軍家の庇護もあった穴八幡があります。「近傍図」中央の早稲田通りと諏訪通りの合流する三角コーナーにある神社です。ただ、こちらは「牛込の総鎮守」と目され、明治に入り牛込高田町となって牛込区に編入されました。なお、水稲荷の社地は早稲田通りを挟んで穴八幡と向かい合っていましたが、昭和36年(1961年)、早稲田大学、水稲荷神社間の所有地の交換によって、500mほど北東にある現在地に移転しています。

 


鎌倉古道、亮朝院

2018-05-08 06:54:34 | 神田川5

 面影橋と(地名ではなく本来の)高田馬場を結ぶ道は、鎌倉街道といわれる古道で、→ 「戸塚村絵図」の右上隅にあって、源兵衛村(及び戸塚村の枝郷大久保新田)と、下戸塚村の村境でもありました。その古道が神田川の段丘斜面に差し掛かる半ばに、赤い門がひときわ目立つお寺が建っています。亮朝院(りょうちょういん)という日蓮宗のお寺で、江戸時代、法華経の守護神、七面明神を祀る霊場として栄えました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田七面堂 朝日桜」  門前の道を右手に下ると面影橋、逆に左手に上ると高田馬場です。また、境内の裏は崖面になっていて、その下が前回までのテーマの字バッケ下です。

 明暦元年(1655年)幕府の祈祷所となり、同3年に五明村に寺地を拝領し創建、その後、寛文11年(1671年)に当地に移転してきました。そのいきさつを「新編武蔵風土記稿」は次のように述べています。「当村(大久保新田)民家九軒寺院共に古は今の尾張殿戸山屋敷の内五明と云る所に住せしか、寛文十一年彼構内に入し時、替地を給はり、民家及寺院も爰に移り住し、田甫は元の如く戸塚村の内に入合ひたれば詳には弁明し難し」 

 

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    ・ 鎌倉古道  高田馬場から面影橋に下る古道の左手に亮朝院があります。さらに下ると100mほどで→ 面影橋です。

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    ・ 七面堂と朝日堂  正面に七面堂、その前に七面堂を守護する仁王像、右手に朝日堂という位置関係は「図会」の描くのと同じです。

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2018-05-07 06:42:30 | 神田川5

 大字源兵衛字バッケ下の二回目で、源兵衛村の鎮守だった天祖神社の境内を回り込み、亮朝院の下を南に向かいます。200mほどで、早稲田通りに突き当たって終了ですが、谷筋はその先から続いており、 → 「段彩陰影図」で見ると、諏訪通りあたりが谷頭のようです。ただ、早稲田通り以南に水路を書き込んだ地図類は未見で、実際に歩いてみてもそれらしい痕跡はありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 天祖神社を過ぎた先で、細い路地が蛇行しています。

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    2. 左手台上は大字戸塚の飛地で字馬場崎でした。高田馬場の先端の意です。 

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    3. 右折、左折のクランクで若干西側に寄ります。 

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    4. 最後の直線の先は階段に突き当たって終了です。 

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    5. 谷筋は早稲田通りを越え、→ 諏訪通りまで達していますが、その間の水路の痕跡はありません。

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2018-05-02 06:38:58 | 神田川5

 神田川の本流沿いの、旧源兵衛村の範囲に戻ります。同村は元々戸塚村の字から発した小村だったため、「新編武蔵風土記稿」には小名は収録されていません。明治に入り大字源兵衛となっていくつかの小字に細分されますが、うち神田川に沿っていたのは、秣川の合流地点の秣川と、その東側にあって面影橋の手前にあたるバッケ下でした。バッケ、ハケはこれまでも度々登場しており、(湧水がつきものの)崖線を意味する言葉ですが、ここも東隣りの甘泉園へと続くミニ崖線を形成していました。→ 「段彩陰影図」で、明治通りの東側に谷筋がありますが、その合流地点がバッケ下で、その東隣りの池のあるのが甘泉園です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 都電荒川線の面影橋駅の南西に、新目白通りに面して路地が顔をのぞかせています。

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    2. 突き当りを左折します。右手は源兵衛村鎮守だった→ 天祖神社です。 

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    3. 次の突き当りを右折し、天祖神社境内を回り込みます。 

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    4. 左折して天祖神社を離れます。左手の崖上は幕府祈祷所だった亮朝院です。

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    5. 亮朝院のある左手台上は、→ 「戸塚村絵図」にあるように、戸塚村の枝郷、大久保新田に属していました。

高田橋、高戸橋

2018-05-01 06:40:48 | 神田川5

 神田川本流に戻ります。秣川の合流地点から300m弱で新目白通り、次いでそれと直交する明治通りを越え、その後は新目白通りと並行して東に向かいます。新目白通りには高田橋、明治通りには高戸橋が架かっています。共に昭和に入ってからの架橋ですが、高戸橋の方が早く昭和7、8年ころ、高田橋は昭和40年代の初めでした。高戸は左岸の高田、右岸の戸塚の合成ですが、高田のほうは高田馬場なのか、高田なのか定かではありません。なお、新目白通下に開設された高田馬場分水路は、妙正寺川と合流した後高田橋下で本流に戻っていて、その分ここだけ川幅が広くなっています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  現在の神田川をブルーで、新目白通りと明治通りをグレーで重ねています。

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    ・ 神田川  源水橋から下流方向で、次の高田橋が見えています。なお、この区間の元の流路は右手にズレる豊島、新宿の→ 区境に跡を留めています。

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    ・ 神田川  → 高田馬場分水吐口の上からのショットで、神田川は右カーブで東に向きを転じます。右手が本流に架かる高田橋、正面が高戸橋です。

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    ・ 高戸橋  高戸橋の下流側は都電荒川線の鉄橋になっています。通過中なのは早稲田行で、通過後左カーブで次の面影橋駅に向かいます。