神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

三村境

2018-05-16 06:16:59 | 神田川5

 神田川本流に戻ります。面影橋から駒塚橋にかけて、神田川は右岸の下戸塚村、左岸の(下)高田村の境となっていました。昭和に入り直線的な改修がなされましたが、元の蛇行の様子が新宿区と豊島区の区境となって残っています。これに対し、駒塚橋前後の本流の流域は、両岸とも関口村に属しており、現在は文京区の一部となっています。結局、駒塚橋手前に三村境があり、現在は三区の境となっているわけです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  現行の神田川をブルーで、新目白通りをグレーで重ねています。オレンジ線は区境で、右上隅から時計回りに豊島、文京、新宿です。

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    ・ 左岸の区境  神田川と並行する左手文京区、右手豊島区の道路です。左手の塀は熊本藩細川家の庭園を公園にした→ 細川庭園、右手のフェンスは神田川です。 

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    ・ 右岸の区境  神田川の右岸から離れるこの路地が、右手新宿区、左手文京区の境になっています。すぐに左折して神田川と並行、中川の流域とほぼ重なります。

 <駒塚橋>  「神田上水堀に架せり、長九間駒塚橋と号す、相伝ふ古へ橋北に老松一株あり、行客常に駒を繋しゆへ駒繋橋と称せしか、後松も枯しより駒塚橋と呼誤れりと云」(「新編武蔵風土記稿」) これに対し「江戸名所図会」は橋名を駒留橋とし、「駒とめて猶水かはん山吹の花の露そふ井出の玉川」という古歌によっているとか、あるいは、源頼朝がここで駒を引き返した、といった伝承を収録しています。「若葉の梢」によると、古来丸木橋が架かっているだけだったが、御成り道となったため板橋に架け替えたとあります。いずれにしても、江戸時代には面影橋の次の橋は、この→ 駒塚(駒留)橋でした。なお、大正末の神田川の直線化に際し、橋の位置は100m強上流に移動しました。上掲「地形図」の白く抜いたところが現在位置です。