神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

高田馬場

2018-05-12 06:01:08 | 神田川5

 「高田馬場 同じ北の方にあり。追廻しと称して二筋あり。竪は東西へ六町に、横の幅は南北へ三十余間あり。相伝ふ。昔右大将頼朝卿隅田川より此地に至り、軍の勢揃ありし旧跡なりといへり。土人の説に、慶長年間越後少将(忠輝卿)の御母堂高田の君、遊望の設として開かせらるゝ所の芝生なりしが、寛永十三年に至り今の如く馬場を築かせ給ひ、弓馬調練の所となさしめらるゝとなり」(「江戸名所図会」) 大きさに関する「新編武蔵風土記稿」の数字は、東西180間(≒327m)、南北26間余(≒47.3m)です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 高田馬場」  「北の方の松の列樹は、享保の頃台命によりて風除のために是を植えらるゝといへり」 その手前には茶屋が立ち並び、雑司ヶ谷鬼子母神への参詣客で賑わったとか。

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    ・ 高田馬場跡  早稲田通り西早稲田交差点の北西角です。正面の建物には、新宿区教育委員会の解説プレートが貼られ、「八軒の茶屋があった」などとあります。 

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    ・ 堀部安兵衛之碑  水稲荷神社の境内です。元禄7年(1694年)、堀部安兵衛の助太刀の舞台となったのは、早稲田通りの一つ北側にあった茶屋町通りに面した一角でした。 

 「江戸名所図会」には高田馬場だけでなく、高田八幡宮(穴八幡)、高田稲荷明神社(水稲荷)、高田富士、高田七面堂(亮朝院)など、高田を冠する周辺の名所が掲載されています。うち、最初に出てくる高田八幡宮の項で、「牛込の総鎮守にして高田にあり。世に穴八幡とよべり。此地を戸塚と云」とあり、戸塚と同義でより普及していた地名なのがうかがえます。その高田の地名由来ですが、引用文では家康の六男、松平忠輝(越後高田藩主)の生母、茶阿局との関係を指摘していますが、中野区の上高田や豊島区の(下)高田に及ぶ広域地名として、古くから存在したとの説もあり、こちらは高台にある畑地の意の地名で、「小田原衆所領役帳」に太田新六郎康資の所領として、「江戸高田内赤澤分」、「江戸高田添田分」などと記載されています。