神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下戸塚村

2018-05-09 06:05:05 | 神田川5

 「下戸塚村は江戸より行程一里半、家数五十一、東は早稲田村及関口町耕地、南は尾張殿戸山屋敷、及牛込馬場下町、西は源兵衛村、北は神田上水堀を隔て下高田村、東西六町、南北九町、当村正保三年牛込済松寺領に賜り、今に然り、戸山屋敷より出る小流を用水とす、村の西に係る往還は、牛込辺より雑司ヶ谷への道にて、道の北界を奥州の古道と云」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 下谷区」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は戸塚村当時の大字境です。

 中央やや左上の長方形の枠が高田馬場、そこから北に向い面影橋を渡る道が、引用文中の「西に係る往還」で、下戸塚と源兵衛村の村境となっている古道です。一方、戸山学校(旧尾張藩戸山屋敷)から流れ出、穴八幡下で早稲田通りを越えているのが、同じく引用文中の「戸山屋敷より出る小流」(通称蟹川)で、こちらは東隣りの早稲田村との境を画していました。こうした下戸塚村の範囲ですが、新住居表示の実施に伴い、西の境は明治通りにシフトし、名称も西早稲田(1~3丁目)となりました。これに対し、東の境はおおむね維持されていて、大隈講堂、大隈庭園のある一角などが戸塚町1丁目を名乗っています。

 

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    ・ 水稲荷神社  「村ノ鎮守ナリ・・・・元禄十五年社傍ニアル榎ノ椌ヨリ清水噴出ス故ニ土人称シテ水稲荷ト云ナリ」(「東京府志料」)

 「新編武蔵風土記稿」は下戸塚村の鎮守について触れていません。あるいは「諏訪社 当村(諏訪村)及戸塚村、大久保百人町、西大久保村等の鎮守なり」に、下戸塚村も含まれているのかもしれません。もう一つ有力な鎮守候補としては、将軍家の庇護もあった穴八幡があります。「近傍図」中央の早稲田通りと諏訪通りの合流する三角コーナーにある神社です。ただ、こちらは「牛込の総鎮守」と目され、明治に入り牛込高田町となって牛込区に編入されました。なお、水稲荷の社地は早稲田通りを挟んで穴八幡と向かい合っていましたが、昭和36年(1961年)、早稲田大学、水稲荷神社間の所有地の交換によって、500mほど北東にある現在地に移転しています。