神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下戸塚村用水

2018-05-10 06:23:39 | 神田川5

 「新編武蔵風土記稿」に「戸山屋敷より出る小流を用水とす」とあるように、下戸塚村は蟹川の流末を田用水としていました。その灌漑面積は「東京府志料」の数字で8町3反8畝18歩、田圃の大半は神田川沿いの三島下(現甘泉園下)、石田前(都交通局など)そして蟹川沿いの稲荷前(早稲田中・高キャンパス)にありました。ところが、→ 「東京近傍図」を見ると、早稲田通りを越えた蟹川は、途中右カーブで早稲田村の方に向かっており、北側にある神田川沿いの田圃を灌漑できるとは思えません。そのかわりに、田圃の中央から発して、神田川本流と並行して東に向かうもう一流を描いており、こちらの方が灌漑用水としては適しているように見えます。

 

Simototuezu1

    ・ 「下戸塚村絵図」  「地図で見る新宿区の移り変わり-戸塚・落合編-」(昭和60年 新宿区教育委員会)に収録された、嘉永5年(1852年)の「御府内場末往還其外沿革図書」附図をもとにイラスト化したものです。  

 彦根藩35万石井伊家の抱屋敷が蟹川流域を占め、その中の流路が明示されていないのは残念ですが、「近傍図」やその後の地形図からみて、途中右折して早稲田村に抜けているのは間違いありません。問題は抱屋敷の上端から流れ出、右カーブで東に向かう流れとの関係で、抱屋敷と抱地を分ける点線から、こちらも蟹川の分流ようで、「東京府志料」はこれを中川と呼んでいます。「中川 早稲田村ニテ本流ヨリ分レ西北ニ向ヒ又東ニ折レテ江戸川ノ上流ト加ニ川トノ間ヲ流レ、小日向松ヶ枝町ニテ本流ニ合ス」 ただ、中川は周辺の雨水、湧水も集めていたようで、「近傍図」の描くのよりさらに西側や北側を起点に、水路を描いているものもあります

 

0211a

    ・ 字三島下  甘泉園前から新目白通りを挟んで神田川方向です。「村絵図」の左手に切れますが、清水家や水戸家の抱え屋敷だったこの一帯も田圃でした。   

0211b

    ・ 字石田前  同じく新目白通り越しですが、神田川と反対方向です。右手前は都交通局早稲田営業所、奥はリーガロイヤルホテルや大隈会館です。この付近に中川の先端がありました。