神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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幡ヶ谷村

2018-05-21 06:19:23 | 幡ヶ谷支流

 「幡ヶ谷村は『小田原役帳』に遠山藤六知行十一貫文幡ヶ谷とあり、江戸より三里、民戸百三十八、東西二十三町、南北八町余、東は角筈村、南は代々木村、西は荏原郡代田村及ひ多摩郡和田村、北も同郡雑色村なり、用水は玉川上水を分流して田間に沃けり、・・・・村の南に甲州道中係れり、道幅4間半」(「新編武蔵風土記稿」) 小名としては、「新町(甲州街道に添いし地にて、代々木新町に続けり)、原、笹塚、本村、山谷」が収録されています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに中野、新宿、渋谷区、同細線は代々幡村当時の大字境です。 

 明治22年(1889年)には、甲州街道を挟んで南隣にあった代々木村と合併、代々幡村が成立、大正4年(1915年)に町制が施行されています。さらに、昭和7年(1932年)には渋谷町、千駄ヶ谷町と共に渋谷区となり、昭和40年代に実施された現行の住居表示では、旧幡ヶ谷村の範囲は本町(1~6丁目)、幡ヶ谷(1~3丁目)、笹塚(1~3丁目)にあたります。上掲「近傍図」は主に本町1~6丁目の範囲で、江戸時代の小名でいうと村の発祥の地の意の本村です。

 

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    ・ 氷川神社  「氷川社 村の鎮守なり、荘嚴寺持」(「新編武蔵風土記稿」) 「近傍図」の中央やや左側にあって、神田川支流を左岸から望んでいるのが氷川神社です。 

 地名由来に関しては源義家にまつわる伝承があります。奥州遠征(後三年の役)の帰途、当地の池で源氏の白旗を洗ったというもので、その旗洗池は「豊多摩郡誌」当時は現存していました。「蒼然たる十五六坪ばかりの心字池にして、辨天社の西に遶る、往時は其の大さ今に三四倍せしよし」 おそらく、地形に由来する「畑」「畠」プラス「谷」が本来で、同音の「旗」「幡」に転化する過程で旗洗い伝説が発生したのでしょう。これは単なる門外漢の感想ですが、地形に由来した地名が、様々な漢字表記を経る過程で物語を生むというのが、もっともよくあるパターンです。