神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

中野駅

2016-12-14 07:16:43 | 桃園川3

 明治22年(1889年)、甲武鉄道(現JR中央線)の新宿・立川間が開通しますが、当時の駅は新宿、中野、境(現武蔵境)、国分寺、立川の5駅のみでした。開業当時の中野駅は現在地よりも100mほど高円寺寄りにあり、出口も桃園通りに面した南口だけでした。それが関東大震災後の急激な都市化によって、乗降客も急増したため、昭和4年(1929年)、現在地に駅舎を移転して北口を設け、それに伴い高架下を南北に貫く中野通りも開設されました。

 

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    ・ 「昭和4年第三回修正 / 新井」  → 「明治42年測図」と比べると、中野通りの開通など駅周辺の整備は進んでいますが、駅の移転は完了していません。

 → 「段彩陰影図」を見ると、中野通りは谷筋にあるように見えます。これは踏切を避けるため切り通した結果で、中野区のホームページから入る「なかのにぎわいWEB」内「中野の歴史」に書かれたデータによると、南口は東西130m、南北150m、深さ4mほどが掘り下げられました。「昭和4年第三回修正」には、その切通しの跡が南口広場と中野通りを囲む崖面として描かれています。

 

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    ・ 中野駅南口  南口ロータリー越しの中野駅です。左手の建物の前が中野通りなので、昭和初めに移転して以来、駅舎は中野通りの東側にあります。 

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    ・ 中野駅北口  北口広場越しのサンプラザです。サンプラザの手前がサンモール商店街で、前回の水路の先端にあたり、現在もやや低くなっているのが分かります。 

 <「荻窪風土記」>  「荻窪風土記」(昭和62年 井伏鱒二)の中に、関東大震災直後、中央線沿いに立川まで歩く途中、中野駅近くで一泊する様子が描かれています。「中野駅まで行くと、駅のすぐ先の線路がブリッジになって、鉄橋だから這って渡るかどうかしなくては難しいように見えた。相当の高さのガードである。この場所は以前には踏切になっていたが、ちょっと前の道路工事で線路の下に広い道を通したので、踏切がガードに変じたわけだ。」 その後、「現在の中野駅附近の図面で言うと、丸井百貨店の正面入口から七、八メートルばかり西に寄ったところ」で野宿をしようとします。「震災直後の頃は、道を拡げるため傾斜のある薯畑の裾が削られて、六尺ぐらいの高さで赤土の崖になっていた。」