神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

谷戸の支流7

2016-12-13 08:20:05 | 桃園川3

 中野駅北口付近を水源とする支流の最後で、今回は細長い田圃の南縁に沿っていた右岸流です。こちらのほうの痕跡は断片的で、現存する道路と一致するか若干の疑問もあります。田圃がなくなったあとも排水路として存続した左岸流に比して、大正末から昭和の初めの早い時期に、埋め立てられたためと思われます。なお、→ 「迅速測図」には、谷戸の支流の先端に池が描かれており、あるいは湧水池が水源だったとも考えられますが、裏付ける文献なり聞き取りなりは今のところ未確認です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右岸流と重なる道路が再開するところから始めます。

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    2. 微妙な蛇行はありますが、左岸流のような水路跡らしさはありません。

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    3. 中野駅北口の手前です。右手のスーパーを隔てて左岸流と並行します。

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    4. 北口一番街商店街です。右手ワンブロックで左岸流ですが、そのまま商店街の中に入ります。

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    5. 商店街の中を右折、左折のクランクで北側にシフトします。

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    6. サンモール商店街を横切り、中野通りに突き当たったところで終了です。

谷戸の支流6

2016-12-12 07:12:22 | 桃園川3

 中野駅北口から発する支流を追って、その中野駅北口近くまで来ました。→ 「中野村絵図」で、細長い田圃が描かれていますが、その両縁にある二本の水路の痕跡が、蛇行しながら並行する路地として残されています。今回はそのうち、村絵図で本流扱いしている北側のもの(左岸流)を追います。前回から引き続く路地となっていて、迷うことはありません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左岸流の続です。細かい蛇行もありますが、直線コースに出ると中野のランドマーク、サンプラザが正面に見えます。

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    2. この左手十数メートルのところから、右岸流と重なる路地が再開しますが、次回のテーマとします。

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    3. 左カーブで孤を描きながらやや南寄りに向きを変え、路地の幅も徐々に狭くなってきました。

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    4. 狭い路地は右折、次いで左折のクランクで、北側にシフトします。

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    5. クランクを抜けてスーパーの脇に出ます。中野駅北口の商店街までもうすこしです。

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    6. 北口一番街商店街に突き当たり、左折するとワンブロックで右岸流跡の道路です。

谷戸の支流5

2016-12-10 07:07:20 | 桃園川3

 谷戸の支流を追って天神橋、天神社を過ぎたところです。「豊多摩郡誌」は天神橋の所在に関し「新井道(打越)」としていますが、天神社も打越天神、打越天満宮と通称されています。打越は「新編武蔵風土記稿」にも収録された中野村の小名で、豊多摩郡中野町の小字に引き継がれたものです。昭和の初めに打越町、天神町に二分され、新住居表示実施に伴い、共に中野5丁目となって現在に至っています。なお、地名由来について、「なかのの地名とその伝承」(昭和56年 中野区教育委員会)は、青梅街道から新井、所沢方面に向かう途中で越える小高い丘の意との説を紹介しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 天神前を過ぎた水路跡の路地です。相変わらず細かく蛇行しながら西に向います。

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    2. この区間は右カーブで北に膨れているところです。

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    3. 2.とは逆に左カーブで南に膨れ、弧を描きます。

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    4. 南側を並行する路地です。「郵便地図」の描く右岸流と重なります。

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    5. 右写真は右手方向で、三つ目の電柱のあたりを左岸流が流れ、その間40m弱です。

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    6. 150mほどで、右岸流と重なる路地はいったん途切れます。

天神橋

2016-12-09 07:56:53 | 桃園川3

 薬師道、あるいは「豊多摩郡誌」のいう新井道(現もみじ山通り、ただし、もみじ山通りは左折する新井道とわかれ、そのまま直進)を越えるところに架かっていたのが、左岸にある天神社に因んだネーミングの天神橋です。→ 「東京近傍図」で今回の支流に架かる唯一の橋として描かれ、「豊多摩郡誌」でも同様で、「水流及び所在地 谷戸川流 新井道(打越) 構造石造 延長1間 幅員1.5間」となっています。ただ、昭和8年の「中野町誌」や、同12年の中野区役所土木課橋梁表に天神橋の名前はなく、かわって下流の富士見(不二見)橋、北砂子橋、宝来橋などが新規に記載されています。

 

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    ・ 天神橋跡  直進するもみじ山通りに対し、薬師道は左折して奥に向かいます。天神橋先の水路は薬師道の左手を並行していました。 

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    ・ もみじ山通り  JR線ガード側からのショットで、信号のところが左岸流、その手前十数メートルが右岸流の横切っていたところです。

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    ・ 薬師道  奥に向かう薬師道と分かれ、水路は左折して左手に向かいます。なお、奥に茂みの見えるのが北野神社です。 

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    ・ 北野神社  「新編武蔵風土記稿」に「天神社 村の北境にあり」と書かれています。境内には庚申塔などが祀られていますが、元は天神前にあって、薬師道の道しるべを兼ねていました。

谷戸の支流4

2016-12-08 07:44:16 | 桃園川3

 谷戸の支流を追ってJR線を越えた続きです。前回の最後に二本の水路が合流していましたが、ここから先端の中野駅北口まで両者は並行しています。→ 「中野村絵図」の描く細長い田圃の両縁に沿う用水の名残です。ただ、北側の左岸流は蛇行しながら連続しているのに対し、南側のものは断続的で、また蛇行の様子も元の形を留めていないところもあります。これは昭和の初めに田圃がなくなった折、排水路としてなお存続したか否かの違いと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後に右折した左岸流跡の路地の先です。左右に蛇行しながら北にシフトします。

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    2. 100m弱のほぼ直線コースで西に向うところです。

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    3. 1.とは逆に左カーブ、右カーブで南に戻ります。ここまでの孤状の流路は→ 「東京近傍図」と同じです。

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    4. 紅葉山通り手前です。元の薬師道に架かっていた天神橋は次回のテーマです。

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    5. 明治末の「郵便地図」の描く右岸流とほぼ重なる通りです。ただ、左岸流ほど往時の様子を留めていません。

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    6. 紅葉山通りの手前ですが、こちらは通りの先に連続しません。

谷戸の支流3

2016-12-07 07:04:56 | 桃園川3

 谷戸の支流を追っての三回目です。地図からもそれと分るクネッた道路が続き、たどるのは極めて容易ですが、ただ一か所迷うところがあります。JR中央線をガードでくぐる前後がそれで、現行の道路とワンブロックだけ一致していません。ただ、当時の地図や空中写真から流路を特定でき、現に残された痕跡からも推測は十分可能です。なお、前回UPの→ 「明治42年測図」では線路を斜めに横切っているように見えますが、これをクランクに付替えたのだと分かります。水路が線路を越える際のいつものパターンです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 水路単独の路地を抜けると、すぐにJR中央線の谷戸ガードです。

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    2. ガードの先のワンブロック、左折、右折のクランクがあったはずですが、建物に阻まれてたどることはできません。

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    3. 久しぶりに見るカクカクです。道路の途中から水路を含んで幅広になっています。

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    4. 幅広が途切れたところで右折します。ただ、「郵便地図」を見ると、直進する道路も水路と重なります。

谷戸の支流2

2016-12-06 06:14:58 | 桃園川3

 中野駅北口から発する支流を、合流地点の高根橋から追っての二回目です。地図からもそれと分るクネッた道路が最後まで続き、たどるのは極めて容易です。これは大正末からは昭和初期にかけての、中野町第一土地区画整理組合による区画整理、河川の改修が桃園川流域にとどまり、合流地点の付替えを除き、谷戸の支流は手つかずだったためです。下の二つの地図を見比べると、明治の流路がそのまま残っているのがよく分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」と「同 / 中野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 引き続き北に向かいます。ここでの水路は道路の左手を並行していました。

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    2. 左折、右折のクランクで稲荷社を迂回、やや西にシフトします。

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    3. 城山本通りを越えます。右写真は左手からのショットで、谷筋が分かります。 

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    4. 狭くクネッた路地が続きます。この区間は水路単独でした。

谷戸の支流

2016-12-05 06:25:43 | 桃園川3

 高根橋手前で(付替え後は高根橋で)左岸流に合流していた支流を追います。この支流の名前ですが、「豊多摩郡誌」では「谷戸川流」、「中野町誌」では「谷戸川」となっています。ただ、付替え後の中野区役所土木課の橋梁表では「在来下水」となっていて、「谷戸川」の名前がどの程度普及、定着していたかはよくわかりません。おそらく、定着する前に下水道化し、川としての存在自体を失ってしまったということでしょう。そこで、合流地点の字から谷戸の支流としておきますが、あくまでも便宜上付けた仮の名前です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 高根橋から上流方向です。この70mほどが付替え後の流路で、元々は奥を右から左に横切っていたはずです。

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    2. ここで右折です。右折の前後とも通りの右手を並行していました。

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    3. 2.の右写真の奥に狭い路地が顔をのぞかせていますが、その先を北に向かいます。

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    4. 引き続き北上します。それらしい微妙な蛇行が連続します。

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    5. 右カーブのあと、100mほどの直線コースに出ます。

高根橋

2016-12-03 07:31:05 | 桃園川3

 前々回の左岸流は谷戸の支流と合流後、右折して東南に向きを変えます。→ 「段彩陰影図」で見るように、谷戸の東側の舌状台地を迂回するためですが、その右折地点に架かっていたのが高根橋です。大正5年の「豊多摩郡誌」の橋梁表には、「構造石造 延長1間 幅員1.5間」、昭和8年の「中野町誌」では「橋長2.8m 幅員6m 橋種混凝土」となっていて、この間に架け換えられています。なお、高根橋の高根の意味はよくわかりませんが、舌状台地の西端一帯の町名として、昭和7年(1932年)の中野区成立時に採用されました。中央部を指す上ノ原町とともに、現在の東中野2丁目に当たります。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」と「同 / 中野」の合成です。区画整理後の「昭和3年第三回修正」は→ こちらでどうぞ。

 「豊多摩郡誌」と「中野町誌」の間には区画整理がありました。高根橋以西の左岸流は埋立てられ、それに伴い支流の合流地点が付け替えられ、結果、高根橋の架かる川は、それまでの桃園川左岸流から、谷戸の支流となったわけです。この変更は両誌の記載にも反映されていて、高根橋の架かる川の名前が前者では「善福寺分流」、後者では「谷戸川」となっています。「善福寺分流」は桃園川(実際にはその左岸流)を指し、「谷戸川」は谷戸で合流する支流のことですが、当時普及、定着していたかどうかは疑問で、昭和12年の中野区役所土木課の橋梁表には登場せず、まとめて「在来下水」となっています。

 

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    ・ 高根橋跡  谷戸の支流をあわせた後の元の左岸流は、左手前から流れここで右折していました。一方、付け替えられたあとの谷戸の支流は左手から右手へと流れていました。 

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    ・ 高根橋跡  橋から下流方向です。ここからの流路は付替えの前後で変わらず、舌状台地を廻る現行の道路と一致しており、東中野駅の東側までたどることができます。

谷戸

2016-12-02 07:17:20 | 桃園川3

 三味線橋から慈眼堂橋を経て、(次回テーマの)高根橋までの桃園川左岸は、豊多摩郡中野町当時の小字を谷戸といいました。昭和7年(1932年)以降の中野区城山町、新住居表示によって中央1丁目となった区画に相当します。谷戸はこれまでもたびたび登場しましたが、本来は丘陵地帯に形成された谷状の地形を指す普通名詞で、そこから〇〇谷戸といった地名が生じたものです。「段彩陰影図」から見て取れる、中野駅北口から発した支流と桃園川が合流する前後に形成された、二等辺三角形の低地が今回の谷戸に当たります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 桃園川3」(1/18000)  「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路及び谷戸の支流を重ねました。以前指摘したつなぎ目部分は修正しています。

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    ・ 谷戸運動公園  公園前の解説プレートには、「このあたりは、もと城山町とよばれ、谷戸運動公園裏に幅5.4米ほどの土塁が残っていました」とあります。 

 <城山>  大正5年の「豊多摩郡誌」には、「大字中野小字谷戸なる、農事試験場の東方に接続せる地にして、今も尚ほ幅三間許の濠を廻らし古城塞の俤を存す」とあり、昭和8年「中野町誌」では「近年まで巾二間余の濠を廻らし、・・・・歴然として古城塞の面影をなしたりという」となっていて、両者を隔てる十数年間に城塞跡は失われたようです。なお、「豊多摩郡誌」は「此の地は太田道灌の城址なりとも云ひ、又遠く平忠常が城砦を構へし址なりとも云ひ傳ふれども詳かならず」と書いており、一方、解説プレートはそうした伝承も紹介しつつ、延宝3年(1675年)の「中野村鑑帳」の記載を根拠に、後北条氏の時代、中野郷の代官を勤め、江戸時代には名主となった堀江氏の小城砦兼屋敷だったと解しています。

 

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    ・ 城山公園  昭和6年(1931年)、一帯の住所は谷戸から城山(翌年から城山町)となりますが、昭和41年(1966年)の新住居表示によって失われ、現在は公園や通りの名前として残るだけです。

左岸流

2016-12-01 07:09:20 | 桃園川3

 慈眼堂橋から左岸に渡り、若干西に戻ります。→ 「東京近傍図」を見ると、「豊多摩郡誌」のいう「新井道」は左岸に渡ったあと左折していますが、その道沿いに箱堰で分岐した左岸流(同誌では「用水路」)があります。なお、「近傍図」と→ 「中野村絵図」では、左岸流の分岐の様子に異同はありますが、「新井道」と並行している点は一致しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」と「同 / 中野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 左手に農事試験所跡地を見ながら、東に向かいます。東京府立農事試験所は明治33年(1900年)から大正13年(1924年)まで当地にありました。 

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    2. 「明治42年測図」にも描かれた右折、左折のクランクです。

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    3. 左手は「明治42年測図」に大きな池が描かれているところで、現在は谷戸運動公園となっています。 

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    4. 通りと重なるのはここまでです。右折すると慈眼堂橋なので、おそらくここに「豊多摩郡誌」の「榎戸橋」が架かっていたのでしょう。 

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    5. 谷戸小学校キャンパスを斜めに横切ります。同校の開校は左岸流の埋立て、宅地造成後の昭和3年(1928年)です。