「宝仙寺 境内一万五千五十二坪、往還の内小名中宿下宿の境にあり、明王山聖不動院と号す、・・・・伝へ云昔堀河院の御宇寛治年中鎮守府将軍源義家奥州の夷賊を征伐し、御利運ありしかば凱旋の後、当寺を建立し給ふと云、されど往古の事なれば其詳なる事をしらず」 「新編武蔵風土記稿」はさらに、同寺の縁起(「武州多磨郡中野明王山聖無動院宝仙寺縁起」)を引用しています。それによると、父頼義ゆかりの「阿左谷」に、不動明王安置のための一寺を建立したのが最初だそうです。当地に移転したのは永享元年(1429年)、「杉並風土記(中)」(森泰樹 昭和62年)によると、その際阿佐ヶ谷には世尊院が末寺として残されたとの伝承もあります。
- ・ 「江戸名所図会 / 中野宝仙寺」 「当寺に享保十四年交趾国(こうちこく ベトナム)より貢献するところの馴象の枯骨あり」
この象は享保13年(1728年)に中国商人が将軍吉宗に献上するため、長崎に連れて来たものです。翌年長崎を出発、二ヶ月半かけて江戸に到着しました。途中、京都では参内して従四位下を与えられたそうです。将軍に謁見後は浜御殿で飼われていましたが、寛保元年(1741年)に払い下げられ、本郷村成願寺裏手(現中野区本町2丁目)の象小屋で飼育中死亡しました。「風土記稿」には宝仙寺に保存されていた頭骨と二本の牙の図が掲載されています。
- ・ 宝仙寺境内 本堂は昭和20年(1945年)空襲によって焼失したため、戦後再建されました。手前の三重塔は、焼失した寛永13年(1636年)建立の三重塔を模して、平成4年に建てられました。
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