塔の下橋から60mほどで山手通りです。山手通り(環状6号線)は昭和2年(1927年)、東京市による「大東京道路網計画」の一環として企画され、昭和10年代には一部完成していますが、第二次大戦の中断を挟んだため、開通するのは戦後になってからです。この付近は→ 「東京近傍図」にも描かれた古道と重なっていて、山手通り開通前から橋も架かっていました。「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)のいう「宮前橋 構造石造 延長2間 幅員1.32間」がそれで、「中野町誌」(昭和8年 1933年)では「宮下橋 橋長7m 幅員6.4m 橋種木製」となっています。宮前にしろ宮下にしろ、左岸段丘にある氷川神社にちなんだネーミングです。
- ・ 塔の下橋 「桃園川幹線水位状況」の→ 掲示板があり、「数字は、緑道の舗装面から測って、どのくらいのところに水面があるかを示しています」と書かれています。
- ・ 宮下橋 左手は大久保通りとの宮下交差点で、大久保通りと桃園川緑道が、宮園橋でクロスしているところを除くと、最も接近しているところです。
- ・ 山手通り 中野坂上を背にしてのショットです。S字カーブで桃園川を越えており、これは元となった古道のコース取りをそのままなぞっています。
- ・ 桃園川緑道 山手通りを越えた先で、桃園川緑道は再開します。右手は旧地名を冠する塔山小学校で、その塔山(塔の山)については次回のテーマとします。