神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江古田村境

2016-05-13 07:04:06 | 妙正寺川4

 → 「東京近傍図」に書き込んだように、Uターン前の妙正寺川は左岸下沼袋、右岸片山の村境でした。それが大北橋を過ぎUターンに差し掛かるところで、右岸は片山のままですが、左岸は下沼袋から江古田村に変わります。明治に入り野方村となった際、片山も含め両岸とも大字江古田となり、新住居表示で一転。新青梅街道以北に限定されました。大北橋上流の沼袋、江古田の境を意味する沼江橋や、その下流の江古田橋の名前は、野方村(野方町)当時の事情を反映しています。

 

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    ・ 江古田橋  大正末に出来た新道に架けられた橋です。現在の住居表示では沼袋と松が丘の境にあって、江古田とは関係なくなっています。

 江古田橋の架かる通りは大正11年(1922年)に開設され、それに伴い江古田川に新設された本多橋にちなんで、本多橋通り、本多橋新道と呼ばれました。同年開設された武蔵野鉄道(現西武池袋線)江古田駅と中野方面を結ぶ幅3間長600間の新道で、前々年に地域の反対運動を押し切って、現江古田の森公園に完成した東京市療養所(のち国立療養所中野病院)の代償といわれています。なお、沿道の須賀稲荷神社に大正12年に建てられた→ 「新道記念之碑」があります。

 

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    ・ 妙正寺川  江古田橋から下流方向で、右手奥の茂みは舌状台地の先端部分です。そこから先の右岸沿いの歩道は中断し、階段で段丘中腹まで上ります。

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    ・ 妙正寺川  片山の舌状台地の先端部に差し掛かります。このあたりで左岸は沼袋から江古田に変わっていたことになります。

下沼袋村用水2

2016-05-12 06:48:13 | 妙正寺川4

 関元橋下流で左岸に分岐していた用水の流末は、新井村のと同様、地図によって様々です。→ 「沼袋村絵図」では、江古田村境を越えていますが、前々回UPの→ 「明治42年測図」や前回UPの→ 「昭和4年第三回修正」は、その手前の大北橋、ないし江古田橋で本流に戻っています。昭和に入ってからの地図で、現新青梅街道にあった江古田との境を越え、江古田川の右岸流と合流しているのもあり、これは時代による変遷というより、様々ある分流のどれを地図に描いたかの違いなのでしょう。

 

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    ・ 大北橋  「明治42年測図」と橋の位置はほとんど変わりません。左岸からのショットなので、同図によれば用水はこの道路左手を並行、本流に戻っていたことになります。

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    ・ 妙正寺川  大北橋から下流方向で、奥に江古田橋が見えます。妙正寺川は片山の舌状台地を迂回するため、右カーブでUターンを開始します。

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    ・ 新青梅街道  中野七中前の新青梅街道です。左岸流はこのあたりを右から左に流れて江古田村に入り、向田と呼ばれる田圃の灌漑用水になっていました。

 <下沼袋村の橋>  「沼袋村絵図」、→ 「東京近傍図」とも、現沼袋駅前に架かる新道橋以降は、江古田村境までに二本の橋が描かれています。大下橋の道一つ上流にあったもの、及び大北橋のところにあったもので、これを「東京府志料」の橋梁リストに当てはめると、「石橋四 下沼袋村ニアリ一ハ弥右衛門橋長二間半幅三尺六寸一ハ坂下橋一ハ重右衛門橋一ハ下前橋各長二間半幅四尺八寸」のうち、おそらくあとの二つです。「豊多摩郡誌」には後者のみ「松山橋 江古田下沼袋間埼玉道 石橋 延長十二尺幅八尺」とあり、また江古田村との境近くなので境橋とする文献もあります。

 


片山村境

2016-05-11 06:06:13 | 妙正寺川4

 大下橋を過ぎると、→ 「東京近傍図」にオレンジ細線で書き込んだように、右岸は新井村から片山村に変わります。現行の住居表示では西武新宿線を境に新井から松が丘ですが、元は大下橋の前後が村境でした。ただ、妙正寺川の改修に伴い、どこそこと特定することはできません。なお、片山にしろ松が丘にしろ、妙正寺川を大きくUターンさせている舌状台地をイメージしたネーミングですが、松が丘は昭和38年(1963年)の住居表示に際しての創作地名で、旧新井村の一部が含まれたため片山が採用されず、その代替といわれています。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 新井」  前回UPの→ 「明治42年測図」と同一個所、同一縮尺です。現在の妙正寺川の流路をブルーで、中野通り、西武新宿線をグレーで重ねています。

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    ・ 大下橋  大下(大下前)は下沼袋村の小名で、「新編武蔵風土記稿」にも記載されています。→ 「沼袋村用水図」などに描かれたものとは、通りの位置が一つ下流にずれています。

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    ・ 妙正寺川  大下橋から下流方向で、次の曙橋のあたりが新井、片山の境で、川中の堰がありました。なお、改修以前の妙正寺川は右岸段丘沿いに蛇行し、この位置には左岸流が流れていました。

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    ・ 右岸段丘の際  改修以前の本流が右岸段丘に接して流れ、昭和の初めに山下橋が架けられたところです。現在の→ 山下橋は数十メートル段丘から離れて架かっています。

下沼袋村用水

2016-05-10 06:29:50 | 妙正寺川4

 → 「沼袋村絵図」では、沼袋左岸の用水は氷川神社のある舌状台地を回り込み、隣村江古田村へと北上していますが、前回のクールの最後にたどったように、今日確認できる痕跡は氷川神社南で本流に戻っていました。さらに、その下流で改めて左岸に分岐し、北上して江古田村へと至るものが、「明治42年測図」以降の地形図で確認でき、それが今回のテーマです。ただ、新井村用水で触れたように、戦災と区画整理はこちらにも及び、重なる道路は皆無といってよく、正確にたどることはできません。→ 「段彩陰影図」で、この区画の側流の書き込みがなされていないのはそのためです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 新井」  現在の妙正寺川の流路をブルーで、中野通り、西武新宿線をグレーで重ねています。

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    ・ 関元橋  奥に見える薬師橋手前、通称下の堰で分岐していましたが、妙正寺川の改修に伴い位置はズレています。なお関元は大字新井の字で、堰の元なのかもしれません。

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    ・ 妙正寺川  薬師橋から下流方向です。氷川神社のある舌状台地を回り込み、左カーブでその東側に出て、北上を開始します。右岸奥には新井小学校が見えています。

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    ・ 西武新宿線手前  新沼橋から今回は左岸方向を見通しています。やはり中ほどの低いところを今回の用水が流れていました。

新井村用水3

2016-05-09 07:08:44 | 妙正寺川4

 新井村を灌漑した右岸流の流末の在り様は、各時代の絵図、地図によって微妙に異なり、江戸時代の→ 「新井村絵図」では隣村(片山村)へと流れ、「新編武蔵風土記稿」も「村内をふること五町余にして、是も片山村にいたる」と書いています。これに対し→ 「東京近傍図」では、現西武新宿線とクロスする前後で本流に戻り、大下橋付近にあった片山村との境を越えていません。さらに、区画整理前の地図類では、拡張以前の中野通りの西側を並行したあと、大下橋付近で本流に戻る様子を描いています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現在の妙正寺川の流路をブルーで、中野通りを白で重ねています。

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    ・ 妙正寺川  西武新宿線を越えます。橋は三重に架かっていて、手前から新沼(しんしょう)橋、第四妙正寺川橋梁、第15号橋です。井草川に架かる→ 第五橋梁は数か月前に扱いました。

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    ・ 西武新宿線手前  新沼橋から右岸方向で、西武線と新井小学校の間を見通していて、奥が中野通りです。「空中写真」を見ると、中ほどの低いところと中野通り沿いに二本の水路がありました。

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    ・ 中野通り  西武線の踏切を越えた先です。上記二本の水路が合流し、100mほど通り沿いに北上したあと、左手に離れて本流に戻っていました。

北野神社、新井薬師

2016-05-07 06:57:58 | 妙正寺川4

 北野神社と新井薬師は、中野通りと新井薬師公園を挟ん隣り合っています。「天満宮 除地、二段二畝十六歩、村の中ほどにあり、本社は一間四方、拝殿二間に三間南に向ふ、前に木の鳥居をたつ、松の並木ありて物ふりたる社地なり」(「新編武蔵風土記稿」) 「梅照院 除地、九畝六歩、外に二段五畝、当村と上高田村との接地にあり、松高山と号す、・・・・今は新井の薬師とて其名隠れなきことにぞなりける」(同)

 

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    ・ 北野神社  中野通りに面した鳥居で、酉の市の飾りつけがされています。北野神社は新井天神とも呼ばれ、新井村の鎮守でした。

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    ・ 新井薬師公園  中野通りを挟む1haほどの公園です。写真はメインの新井薬師側から、中野通り越しにひょうたん池を見下ろしています。

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    ・ 新井薬師  創建は天正14年(1584年)と伝えられ、二代将軍の娘の眼病治癒により、目の薬師、子育て薬師として信仰されるようになりました。

 <新井村>  「なかのの地名とその伝承」(昭和56年 中野区教育委員会)によると、新井村の草創は応永年間(1394~1427年)、新田開発に伴い新たな共同井戸を掘り、新井村の起こりとなったと、「武州多摩郡新井埜草別調」には記され、一方、元亀元年(1570年)と書かれた文献(「草分年代略記」)もあるようです。新井薬師開山は「遊歴雑記」などに天正14年(1586年)とあり、この寺院の新井村との密接なかかわりを考えると、時期の隣接する元亀元年説が有力かとも思えますが、決め手となるものではありません。
 地名由来は新しい井戸説が一般ですが、中新井村や長崎村字荒井など、近隣にも新井(荒井)という地名は多く、新しく開拓され人が住みついた(新居)という意味の普通名詞が元との考えもあります。それはともかく、新井村が湧水豊富な土地柄だったのは間違いなく、特に昨日UPの→ 「大正10年第二回修正」に見られる、等高線が台地に食い込んでいるところなどはそうで、その一帯が最初に開拓され村の中心となったことは、北野神社や新井薬師の場所から見ても容易に想像できるところです。

 


新井村用水2

2016-05-06 07:31:44 | 妙正寺川4

 新井村の用水は昭和20年代まで、地図で確認できるにもかかわらず、今日その痕跡をたどることはできません。これは昭和30年代までに完了した区画整理事業により、農地から宅地の転換に伴い、不要となった田用水は廃止されたためです。北野神社に隣接する一角にある復興区画整理碑によると、昭和20年5月の空襲で焼け野原となり、同23年に新井復興土地区画整理組合を設立、途中、沼袋、江古田地域に及ぶ妙正寺川の改修を合わせ、十数年の年月をかけ昭和30年代半ばに事業は完成しました。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 新井」  水路こそ描かれていませんが、田圃の南縁沿いに弧を描く点線とおおむね重なります。

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    ・ 北野神社下  上掲地図右下の孤の頂点のあたりです。→ 「新井村絵図」にも描かれた南側にはみ出した田圃は、この右手のあたりということになります。

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    ・ ひょうたん池  新井薬師公園内の池で、はみ出した田圃の先端に位置しています。上掲地図にはありませんが、次の「昭和4年第三回修正」から登場します。

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    ・ 復興区画整理碑  ひょうたん池と北野神社の間の、中野通りに面しています。紀念碑の建てられたのは昭和37年11月です。

新井村用水

2016-05-02 07:06:15 | 妙正寺川4

 「川 無名の川なり、水元は井草村妙正寺池より出、西の方沼袋村と当村との堺を流るゝこと四間許、すえは片山村に至る、此川を沼袋村にて分派し、所々の水田にそゝぐ、村内をふること五町余にして、是も片山村にいたる」(「新編武蔵風土記稿」) 平和の森公園のある舌状台地を過ぎると、右岸段丘は一気に後退し、→ 「東京近傍図」のように、広がった河川敷を灌漑する用水が、段丘沿いにUの字状の放物線を描きます。 江戸時代の村絵図から昭和10年代の「中野区詳細図」まで、再合流地点の異同を除くと、大枠はすべて一致しています。ただ、昭和20年(1945年)5月の空襲と、30年代半ばまでに完了した区画整理で流路は失われ、現行の道路に名残をとどめてはいません。

 

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    ・ 「新井村絵図」  天保8年(1837年)の「新井村絵図」(首都大学東京蔵 「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

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    ・ 妙正寺川  新道橋から下流方向で、右岸の舌状台地の先端に当たります。その東側に回り込むため。次の新井橋から右カーブで南下します。

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    ・ 妙正寺川  新栄境の手前です。舌状台地の東側に回り込んだ本流は、左カーブで東に向きを転じ、そのまま南下する用水を分岐していました。

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    ・ 右岸段丘の際  平和の森公園に向かう通りを見通しています。交差点の先の段丘の際を、用水が右から左に流れていました。