小石川道は大橋の西で二手に分かれますが、北側のものは寺山と呼ばれる舌状台地の付け根に差し掛かります。→ 「江古田村絵図」に見るように、その右手に江古田村の信仰と文化の中心である東福寺、氷川神社が並んでいます。氷川神社は江古田村の最初に扱いましたが、その別当だった東福寺は氷川神社の東隣にあり、金峯山世尊院と号しています。天正頃(17世紀末)、本村の御嶽神社近くに創建と伝えられていますが、詳細は不明です。
・ 小石川道 正確には小石川道から北側に分岐したほうです。東福寺は道を一本挟んで右手にあり、氷川神社は坂を上った右手に鳥居が立っています。
・ 東福寺 享保13年(1728年)、八代将軍吉宗が鷹狩のおり休息、御膳所となりました。本堂奥には将軍御成間が保存されていましたが、老朽化のため取り壊され、現在は写真左手の跡地に記念碑があるだけです。
・ 氷川神社 小石川道からやや奥まった→ 石段を上った台上にある社殿です。社殿は昭和になってからの建物ですが、現在神楽殿となっている→ 旧社殿は、弘化4年(1847年)の建立です。
<江古田獅子舞> 10月第一土・日の氷川神社の例大祭には、江古田獅子舞が奉納されます。江戸時代には本村にあった御嶽神社に奉納し、その別当の東福寺に舞台を設けていましたが、大正2年(1913年)に御嶽神社が氷川神社に合祀されて以降は、氷川神社に奉納するようになったものです。 三代将軍家光に上覧したとの伝承もあり、遅くとも18世紀初頭には行われていた江古田の獅子舞ですが、その起源については鎌倉時代までさかのぼるなど、諸説があってよくわかりません。 いずれにして山岳信仰や修験者とのかかわりが指摘されており、巡行絵巻でも法螺を吹く山伏らしき二人が三頭の獅子を先導、また朱雀など四神も行列に加わっています。現在でも四神は行列に加わっていて、全国的にも珍しい例のようです。獅子は大(たい)獅子、中(なか)獅子、女(め)獅子の三頭。「一人立ち三頭獅子舞」と呼ばれる、関東地方を中心に東日本に普及しているパターンで、隣村の長崎村にも同じような獅子舞が伝えられています。(中野区の公式ホームページ内に江古田獅子舞の動画があり、絵巻もアップで見ることが出来ます。)
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