神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

江古田村用水

2016-05-25 06:15:51 | 妙正寺川4

 江古田村には前回の大堰を含め、4つの堰が設けられていました。上流から洲崎堰、八百堰、本多堰、そして大堰です。寺山(江古田の森公園)を迂回するUターンの頂点付近が洲崎で、洲崎堰で分岐した田用水は、寺山の東麓に沿って字西ノ原の寺山下(旧北江古田公園)の田んぼを灌漑しました。八百堰の田用水は同じ字西ノ原でも対岸の天神下(江原二丁目)の田んぼを灌漑し、本多(本田)堰は昨日UPの→ 「明治42年測図」にもある田んぼを、大堰は下田橋にかけての田んぼ各々灌漑していました。なお、本多(本田)は「新編武蔵風土記稿」の小名に「本田屋敷」として収録されていますが、本村に居を構えた村民の田圃の意で、向田、下田といった通称も本田を基準にした言い方と思われます。

 

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    ・ 「江古田村絵図」  天保8年(1837年)の「江古田村絵図」( 首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。括弧付は「堀江家文書」中の別の村絵図にあるものです。

 堰も用水も描かれていませんが、水田が扇状に広がる端緒、要のところに堰があり、水田の縁に沿って用水が流れていたことが推測できます。水田は大きく四ブロックあり、冒頭の四つの堰、四つの水田に対応しています。なお、本村のところに突き出したのは、千川用水江古田村分水にかかわるものです。いずれにしても、このように幾条にも分れた田用水からの給水によって、江古田川の左右に広がった水田ですが、梅雨時などには水没し、一面湖水のようになったといいます。「大雨が降ると、いつも付近の田圃一面に水が溜って、田や畦道、小道などが一様に水没して一時は湖水のようになったことが幾度かあった。」(「江古田のつれづれ」) こうした原風景を「江のように広がる古田」と、江古田の地名由来と結びつける説もあります。

 

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    ・  小石川道  「村絵図」には「高田四ッ谷町通り」とあるもので、大橋から東に100m強、正面突き当りまで古道と重なります。この右手を江古田村分水の余水と合流した、大堰からの用水が流れていました。

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    ・  妙正寺川  本多橋から下流方向です。ここまで迫っていた本多山と呼ばれる→ 右岸段丘(本多橋から上流方向で、奥は西原橋、その奥は寺山です)は後退し、本多堰が右手に用水を分岐していました。