「川 無名の川なり、水元は井草村妙正寺池より出、西の方沼袋村と当村との堺を流るゝこと四間許、すえは片山村に至る、此川を沼袋村にて分派し、所々の水田にそゝぐ、村内をふること五町余にして、是も片山村にいたる」(「新編武蔵風土記稿」) 平和の森公園のある舌状台地を過ぎると、右岸段丘は一気に後退し、→ 「東京近傍図」のように、広がった河川敷を灌漑する用水が、段丘沿いにUの字状の放物線を描きます。 江戸時代の村絵図から昭和10年代の「中野区詳細図」まで、再合流地点の異同を除くと、大枠はすべて一致しています。ただ、昭和20年(1945年)5月の空襲と、30年代半ばまでに完了した区画整理で流路は失われ、現行の道路に名残をとどめてはいません。
- ・ 「新井村絵図」 天保8年(1837年)の「新井村絵図」(首都大学東京蔵 「堀江家文書」)を元にブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。
- ・ 妙正寺川 新道橋から下流方向で、右岸の舌状台地の先端に当たります。その東側に回り込むため。次の新井橋から右カーブで南下します。
- ・ 妙正寺川 新栄境の手前です。舌状台地の東側に回り込んだ本流は、左カーブで東に向きを転じ、そのまま南下する用水を分岐していました。
- ・ 右岸段丘の際 平和の森公園に向かう通りを見通しています。交差点の先の段丘の際を、用水が右から左に流れていました。