たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



その大学にはいまから11年前の1999年に1年間だけ文化人類学の非常勤で教えに行っていたことがあって、昨日それ以来初めてそのキャンパスを訪ねたのだが、大学らしい風格のあるたたずまいは依然とほとんど変わっておらず(写真)、当時は今日のような世知辛い教育改革なるものが行われておらず、ゆったりとした快適な空間での学生たちとのいくぶん愉しかったりほほえましかったりした思い出がふと脳裏をかすめたのであるが、同時にその翌年にはその大学では文化人類学の講義そのものがなくなってしまった(なぜだ!)ということも思い出したのだが、いくぶん前置きが長くなってしまった。さて、昨日はそこで行われた動物の異界性をめぐる興味深い研究会に参加したので、以下で手短な覚書。異界性や異界感、動物の異界性については深く論じられることなく、それは文学の想像力などをとおして表現するほかないものであるというような話だったように思うし、異界性の極にあるのが動物であるという討論会での最初から用意された感のある結論については少々腑に落ちないところがあったが、個々の発表はそれぞれに考えさせられる内容だった。わたしが個人的に驚きをもって聞いたのは、樹木(植物)と交感できる女性の発表であるが、彼女は、人間・植物関係を人間・動物関係に照らして解釈し、そうした植物との交感を行う自分史を心理学的な観点から分析されたが、口頭発表は分析的すぎて学問そのものがそうした事実を理解するさいの妨げになっているような気がしたし、彼女のそうした植物との交感経験の内容については、まずはエスノグラフィックにつまびらかにすることから始めなければならないのではないかと感じた、少なくとも人類学者ならそういう接近をするのではないかと思いながら聞いていた。もう一点その発表に関して感想として加えるならば、そうした人間と人間以外の存在との交感とは、人間と植物が同じように言葉を喋るというふうなものではなく、つまり理性的なやりとりではなく、言語以前の感性によって行われるものであるということに気づいた。どういうことかというと、動物や植物に「意識」があるとか「魂」があるというような言い方は、「後づけ」的なものではないのだろうかということである、交感できるということをとおしてダイレクトに同じ平面で経験を共有できるというような実感が、表現として「意識」や「魂」という言葉で置き換えられているだけなのかもしれないと思った次第である、プナンもじつはそうかもしれず、人類学的な記述によって、わたしが実体化のプロセスをとおして動物の「意識」「魂」の存在を再強化しているのだとすれば、深く反省しなけらばならないとも感じた。わが研究仲間うちのプリンスは、日本の二つの辺境において語られる動物の異界性について議論し、異界性の源泉として<場所>と<人>があるという面白い指摘を行ったが、比較の対象や概念に関して、参加者の間では概念用語の認識が共有できてないせいで、議論がなかなかかみ合わなかったのは残念であると感じた。日本の花鳥風月の風土論、仮面ライダーブレイドの解釈の試み、江戸時代のネズミの住処をめぐる発表も、日ごろわたしたちがやっている人類学の研究会とはちがって、それぞれになかなか刺激的だった。わたしのもくろみは、わたしたちの人獣をめぐる人類学のプロジェクトが、人と動物をめぐる現代社会の動向と研究のなかのいったいどのあたりに位置づけられるのかを確かめたいというものであったが、何も見えなくてもスゴ腕の座頭市のようには行かないが、昨日の研究会では、人と動物の関係をめぐる研究の広がりと試みの一端に接することができたように思う。ついでながら最後に短い噺を一席。わたしはふだんあまり電車に乗らないが、必要に迫られて最近複数回乗った折の出来事。A駅からB駅に行こうとするのだけれども、B駅には快速が止まらず、鈍行しか止まらない。よく確認もせず快速に乗ってしまって、B駅を通り越しC駅に行ってしまい、C駅から折り返してようやくB駅にたどり着くというパターンを、先週と先々週の2回、間違って繰り返してしまったのだが、昨日は、鈍行しか止まらない目的駅に行くのに間違って快速に乗ってしまい、ある駅にたどり着いた。そこでよく確認もせず、折り返しでふたたび間違えて快速に乗ってしまって、目的の駅をすっ飛ばして最初の駅に戻ってしまった。こうなると、とこしえに目的地にたどり着けないというのではないかと思えてくるし、何よりも自分で自分が嫌になってしまった。トマス・ピンチョンの『V』に出てくるホームレスのヨーヨー人間のことをふと思い出した。ヨーヨー人間は、ニューヨークの地下鉄をヨーヨーのように往復しながら、電車の中で暮らしている。わたしの場合には電車に乗るのは目的地にたどり着くためなのだけれども、注意散漫というか落ち着きに欠けるというか、いつまでたってもそうしたおっちょこちょいは全然治らない、ああ、悲しき南回帰線、いや悲しき京王線、横浜線。
http://www.hars.gr.jp/fowordHARsactivity.htm#85th




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