たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ストラップとしてのサル

2008年10月26日 19時53分41秒 | 人間と動物

ボルネオ島のプナン人が住む熱帯雨林には、「ブタオザル(kuyat)」「テナガサル(kelavet)」「スローロリス(medok)」「リーフモンキー(bangat)」「レッド・リーフモンキー(kelaci)」の5種の霊長類が棲息している。どれもが、捕食の対象とされる。わたしは、フィールドワークを開始した当初、狩猟されたそれらのサルの肉を、生理的に、どうしても口にすることができなかった。「人間のようなので、食べられない」と言う率直な感想とともに、わたしは、それらのサルの肉の料理が出されたときには、それらを食べるのをやんわりと断った。しかし、どうやら、プナンは、わたしの言っていることを理解していないようだった。そのわけを、わたしは、後になって気づいた。プナン人は、サルが、人間に似ている、ヒトのようだとは考えていない。どうやら、そういったイマジネーションを、彼らは働かすことはないのである。彼らは、それらの5種を、シカやサンバー、イノシシらの他の動物となんら変わるところがない生き物だと捉えている。わたしは、フィールドワークをつうじて、その後、じょじょに、レッド・リーフモンキー以外の霊長類の肉をすべて賞味したが、それぞれに、独特の味わいがあることに気づいた。

今年の5月の日本文化人類学会で知り合った霊長類学者の方に教えてもらった本のなかに、南米・アマゾン川流域の元・狩猟民(1973年以降に耕作も開始)グアハ社会における、じつにスリリングな、「ヒト=サル」関係に関する研究論文があった(Cormier, Loretta Ann “Monkey as food, monkey as child: Guaja symbolic cannibalism” in Fuentes Agustin and Linda D. Wolfe (eds.) Primates face to Face: The Conservation Implications of Human-Nonhuman Primate Interconnections.)。グアハ社会では、ホエザル、オマキザル、フクロウザル、リスザルなど、7種類の霊長類が食料として、また、ペットとして利用されるという。同じ狩猟民ながら、サルをはじめ、ジャングルのなかに住んでいる動物を連れ帰って、飼育するという慣わしがまったくないプナン人たちと比べて、グアハの習慣は、ひじょうに興味深い。

グアハはサル喰いであり、グアハの民族植物学的な知識は、サルを狩猟するための知識として用いられる。グアハは、サルを狩猟して、大人のサルを食べるが、子ザルを捕った場合には、ペットにする。子ザルは、女子どもによって飼われる。子ザルは、飼い親の頭にまとわりついて、名前と親族名称を与えられる。つまり、グアハの人びとは、擬似的にせよ、サルと親族関係を築くのである。彼女たちは、子ザルに餌を与え、唄を歌い、水浴びもさせる。場合によっては、一家族のメンバーの数よりも、サルの数のほうが多い場合もあるという。

グアハの社会空間は、サルだらけなのである。子ザルを飼うためにはコストがかかるし、日常の生業活動においても、余分な負担を与えることになる。しかしながら、子ザルは、女の子にとっては、子育てのシミュレーションとなり、男の子にとっては、将来の狩猟においてサルの特性を知るための機会ともなっているのだという。

興味深いのは、サルは、グアハ社会の「父性」の概念とも関係するという点である。「精液は胎教によい」という、この地域一帯に広がるイデオロギーが、グアハ社会でも見られる。妊娠発覚後に、女性は、複数の男性とセックスする。逆に言えば、妊娠した女性は、男にとっては、性的な欲望の対象となる。その結果、子どもが生まれると、複数の男が、子どもの父親になる(父は、母子に食料などを贈る)。グアハ社会では、そのようにして、男性は、ふつうは、複数の子どもの父親となる。このような男性に傾いた男女間の子ども比のバランスを取るために、子ザルが、女性によって育てられる。さらには、ストラップのようにまとわりつく子ザルは、ミャンマーの少数民族の首輪のように、女性の魅力を感じさせるようなボディー・アートにもなっているという。いずれにせよ、そのようにして、グアハ社会では、子ザルは、ヒトの子どもと同じように扱われ、グアハの女性の多産のイメージを高める役割を担う。

食料として、と同時に、ペットとしてサルを飼うという二重性は、親しいもの、同種のものを食べるという「カニバリズム」を連想させる。それは、グアハ社会では、神話などのなかで、象徴的なものとして表現される。動物は、植物や動物の霊と結びつけられている。サルは、ヤシなどの植物から生まれたとされるが、それを食べる。そのようなかたちで、「カニバリズム」が表現されるのだという。グアハ社会の象徴的な「カニバリズム」は、結果的に、グアハの世界におけるさまざまな生命体を結びつけ、統合し、変容させる。

わたしたちは、グアハ社会の事例を、人間と動物、あるいは、自然と文化をめぐる問題を考えるうえで、いったいどのようなものとして捉えればいいのだろうか。コルミエは、グアハの人びとは、ヒトとサルとの親族関係を、自然に対峙する文化を定義するために用いるのではなくて、ヒトではない生命体にも親族関係を広げるものとして読み解いている。
彼女は、その意味で、グアハ社会の「ヒト=サル関係」を、自然に対する文化の支配を強調する西洋のモデルではなくて、自然と文化の遊離を拒絶し、相互の互酬性および持続性を強調する共産主義のモデルに近いものであると見ている。

グアハ社会の事例は、事例がきわめて面白い。ストラップのようにサルを身にまとわりつかせているグアハの少女たち。他方で、サルは、グアハの好物であるという事実。動物へと親族関係を拡張し、文化と自然の境界をぼやかしてゆくというのが、グアハのやり方なのだとすれば、そのベースには、ヒトはサルとは違っている、ヒトは他の動物とは違っているという考え方があるように思われる。人間と動物の関係を、厳密なまでに対等に置くことを出発点としながら、対等なバランスの崩れを、自然災害などの厄災という罰へと向かわせることによって表現する
プナン社会における人間と動物の関係に照らしてみれば、そういうふうに見ることもできるように思われる。とりいそぎ、読書の覚書として。

(写真は、ジャングルのなかで、銃で撃たれて、狩猟キャンプに持ち帰るために、かごのなかに入れられたブタオザル)