「もうお仕舞いかい。」
「ああ、ごめん。明日またおいでよ。おじさんたちの時間になっちゃった。」
「残念。お嬢さん方の時間は過ぎたみたいだな。明日ゆっくり来るとするか。じゃあまたね。」
「おやすみ。」
顔を引っ込めるや、女の子はばたばたと足音高く駆け出して行ってしまった。
「中学生。」
「あれでも、高二だよ。小さいから子供っぽく見えるね。今頃まで何をしてるんだか。部活で遅くなったのかな。」
「たまにここで見掛けるね。」
「未だ俗気の泥に汚れずか。」
古仙洞は呟いた。
「俗気なんて手荒な言葉は勘弁してくれよ。俗気なんてもの、どこにあるんだろ。おれたちが俗情の泥に溺れちまって目鼻もふさがってるってのは分かるがな。誰が誰に比べてより俗気の泥に塗れているかなんてこと、うっかり言えないぜ、危なくて。たしかに、喩えとしての汚れとやらはあろうけれど、じゃあ人間が汚れるってことはがどんなことなのかい。本当に。」
「単に大人か子供かってくらいの意味で言ってみただけなんだよ。そんな面倒な趣意を考えて人を観ることはしないし、そんなことできっこない。ただ、汚れるって言葉はとても日本人好みのする言葉だな。おれが読んだ西洋小説の中では、この言葉に出会ったっていう覚えがないんだ。日本人だからこそのこだわりじゃないのかな。」
「『椿姫』なんてのもあるがな。」
「うん。大衆小説の世界では案外ないとも言えないが、生業の形は似ていても、日本と外国とではそこで生まれる情愛の受け止め方には随分と違いがあると思うね。」
「機微、心情は彼我を問わず相通ずるものもあるような気がするが、世間やその風の吹回しは国により、土地により全然異なってくるものだしな。ひた隠しに隠す恋情を汚れと捉えることによって忍ぶ恋の美学が尊ばれることだってあるんだから。そんなことはどうだっていいが、子どもに対する感慨とか、男女の抱く恋情や同性に対する嫉妬とかがあってはじめて、世間、汚れというもののあることを感じ取れるのじゃないかい。どうだろうか。感慨らしきものをなにも持たず、情愛に縁のない人間ならば、そりゃ俗だの世間だのと言ったところで知れたことかとなるだろう。汚れもくそもないだろうと。」
「それと、金に権力な。しかし、それらがみんな生きる上で欠くことのできない大切なものであることも確かなんだよ。人がそれぞれの絶頂へ行き着くためにはさ、結局一番大事なことかもしれん。だからこそ、あれこれを含めて、むしろ汚れてしまいたいと冀う人間、汚れることを誇りと思う人間が情味豊かに数多生息しているのさ。」
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