諸君、拙者は血達磨と申す何所の何人とも知れぬ行路の客である。此どこの何人とも知れぬ行路の客が玆に演説するなどとは、畏多くも旧高鍋藩祖清觀公の建られ玉ひし明倫堂の神聖と、第二十世紀の大舞台の門出にある前途大有為の青年諸君の神聖を汚さんことを懼れ、城校長に再三辞退するも許されず、遂に一言を申上る訳でございますが、其一言も別に何の考がありませんから、心に浮ぶに任せて口に発するといふ、至極簡短な至極雑駁な演説を致します。さて世界で広いものは海でございましやう、その海も限りありて地球の三分の二に過ぎない。然るに人の思想即ちアイデヤは海も世界も一ト呑みにして猶ほ諸他の世界を併呑する底の包容があります。それを自分で小サくして、穴蔵の鼠の様に片隅の方に巣を作て局促一生を終るのは、彼のナシヨナルのピグ同様です。ぢやといふてイソツプの蛙の様に、唯牛を真似て満腹破裂するも面白からずですが、折角自分所有の脳は自分の思ふ通りに使へるのですから、英雄になるとも、豪傑になるとも、君子になるとも、小人になるとも諸君が思ふ存分自分の目的に向て一直線に走らざるべからずです。併し人各天品あり、時運の幸不幸あり。仮令天品が良くても不幸の時運に際会すると英傑も無名の墓となり、又天品がどうでも時運に乗ずると小人も飛んだ名誉権勢を得ることがあります。天品も四囲の境遇に形作られて、山国の人は山国、海辺の人は海辺、升の子は四角、団子の子は丸くといふ風になることがある。緋鯉は弾力性を帯びて鰡的飛躍の運動家であるが、小サな泉水に入れられると池中に故障多く、遂に大飛躍を試むるに由なく、唯泉水形なりに泳ひで金魚と一般の優柔家となるものです。見よ近来人間の雛形は、日に日に小サくなり又た白くなり青くなり、或は娼優的香水のハイカラとなり、或は幇間的手拍子のきざやとなる。此時世の綱常を維持するものは、諸君青年の風紀心胆に俟つより外はないので、諸君は前途革命家の位地に居らねばならぬ。故に諸君は境遇に囲まれず、天品に任かせず、時運を俟たず、汪洋たる思想と鬱勃たる元気を天地の間に拡げ、日を夜に継で切磋琢磨、以て時運の不幸に勝ち、以て四囲の汚濁に勝ち、俯仰天地を小とするの大才を養い、後日我日東国をして世界の表に闊歩せしむる大責任者たらんことを希望す。然ども今は唯此心を以て一心不乱に御勉学あらんことを。太だ不倫の放言、誠に御無礼千万でありましたが誠心を取て蕪言を咎めず、他日血達磨の眼でんぐり返りて諸君を見んこと欲す。
(「血達磨日記」 武蔵坊影辨慶編)
塚本哲三の手になる編著作物は汗牛充棟おびただしいものがあり、その全貌を把握することは事実上不可能である。和漢に渉る古典籍類の校訂編輯はもとより、個別の古典作品に係る通釈や国文、古文、漢文一般の修得、受験に資する数えきれない学習参考書とその新訂、改訂、更訂の数々など、余りに膨大な執筆の恩恵を被りながらその実態を明かした人を知らない。
その膨大な事績のほんの一端として、兼好法師の徒然草を経糸に手繰ってみても、大正14年の「徒然草解釈」刊行から始まって、「徒然草解釈[訂正版]」、「縮版徒然草解釈」、「通解徒然草解釈」、「新訂通解徒然草解釈」、「精粋通解徒然草」、「詳解対訳徒然草」と続き、昭和27年の「完修徒然草解釈」に至るまで、古典古文の至宝と言える徒然草を一本を以って懇切に解説した書物は知る限りで八種に及んでいる。これに、国文解釈法等々の参考書での評釈などを加えたら、徒然草本文の注釈、解義だけでも常人の持つ時間では到底及び得ぬ執筆の量と質になるはずだが、しかも全業績はその遥か高みに聳えている。
なにより、数多の参考書や解説本と一線を画しているのは、諸種の更訂、新訂版を刊行する都度、後進研究者等の新機軸、新解釈の中により優れた見解があると了せば過去の自説に固執することなく受容し、自らの本文解釈に修補を施して徒然草の最新・最善たるべき解釈本を世に送り出しているところである(例えば、第百九十五段「尋常におはしましける時は」の語義解釈など)。いかにもありそうでいて現実にはざらにない、真摯で厳格な学究としての矜持が八層の解釈文に歴々と遺されている。
そして、実に「完修徒然草解釈」という書物は、徒然草全段を通して隈なく、現今妥当、穏当と評すべき解釈が最も早くに確立された成果であると思われる。
女も夜ふくる程にすべりつゝ、鏡とりて、顔などつくろひて出づるこそをかしけれ
哲学に於ける術語は、日常語から、或る歴史的な必要によつて(哲学者の工夫を意味する限りでは人工的と云つてもいいが)選択され淘汰されたものに他ならない。それは極めて精細に而も限界広く精練された常識語以外の何ものでもないのである。ただ日常語はこの常識語を極めて常識的に無責任に利き目を計量しないで凡庸に習慣的に濫用するだけであつて、この同じ常識語を一言も忽せにしないやうに使へば、それがおのづから立派な哲学的術語となるのである。なぜなら本当はどんな常識語でも、普通の感光板では判らぬにしても、云はば赤外線写真の感光板にあてて見れば、チャンと一定した夫々にユニックな意味表象を持つてゐるからだ。術語であるかないかは言葉自身にあるのではなくその使ひ方にあるのである。文学者の或る者はその意味では哲学の先生達よりも遥かに哲学的術語に精通してゐると云つていいかも知れない。ただ文学者は、その術語を、単に気の利いた使ひ方をするだけで、組織立てて体系化して用ゐる者が少いから、彼は遂に哲学者にならないのである。
(「思想としての文學」 戸坂潤)
人という、どうにも救いようのないへたれな存在がなんとしてか、かろうじて澄明な浄化を遂げそこなうことのないように、あらゆる人に死は用意されている。不死という観念の、何と浅ましく痛ましい顔色であることか。まさに、霊を言挙げして饒舌り散らす、瞞着を悦ぶ邪心の顔色に相通ずるものがある。不死という観念は、人が生き、そして存在たり得る存在であることに対するしごく無自覚な冒瀆であり、高みに向かう跳躍をこころみる前に脱しなければならない妖幻の重力にほかならない。
不死がないという厳然としてちっぽけな事実のみが、人の尊厳を根底から支えている。不死のない世界に生み落とされることによって、人は自覚的な存在を孕む非存在として自己を思惟することができたのだ。如何なる絶対を誇る者といえども、たかだか永生を願って空しく観念の海を浮游しているだけに過ぎない。非存在の凝視、神秘へ至る道、奥義を語る書物もまた、この世界が不死のない世界であることから生まれて来るのだ。
私は以上に於て王陽明の生涯を叙述し、彼の人品事功を窺つて来たが、彼は決して一箇の学究徒でもなく、又た一箇の武辺でもない。彼は実に情熱あり、胆識あり、智謀あり、而して能く克治修練された真成の哲人である。其の生涯には非常に波瀾多く、随分と数竒(さくき)な運命に弄ばれてゐるが、晩年は寧ろ幸福であつたといふべきであらう。然かも私は彼の人品事功に於て、我が雲井龍雄の夫れと甚だ相似たるものあるを発見するのである。即ち幼時ともに腕白なりしこと、少年時のともに向学心の旺盛なりしことは前に述べた通りだが、陽明は朝命を受け叛徒鎮靖の任に在りて、祖母岑(しん)氏の訃(ふ)及び父海日翁の病を聞き数次疏を上りて帰省を乞ふも許されず、空しく憂悶の情を詩賦に遺(や)りたるが如きは、龍雄が二十才の時郷藩屋代郷の戍(じゆ)に就きて養父の訃を聞くも帰省するを得ずして哀詩十絶を賦したると同く、陽明が前後三回の出征靖乱に於て能く陣中に槊(さく)を横へて詩を賦し、又た師弟と講学を怠らざりしが如きは、龍雄が慶明の際、兵馬倥偬の間を馳駆して能く詩を賦し書を読み学を講じたるに同じく、陽明が出征より故郷越に帰り登遊山水の間に門人を教化したるは、龍雄が戊辰の役後興譲館の助教に挙げられ郷党の青年を教育したのと同じである。又た陽明は智謀ある哲人将軍として出征し屢々奇策神籌(きさくしんちう)を運(めぐ)らして偉功(ゐごう)を奏したるは、龍雄の奇略雄図ありしに比すべきである。唯だ異る所は一は朝命を受けて統帥の権を握り自由に三軍を叱咤して其の手腕を振ひ得たるに反し、他は其の地位を得ず、且つ時運非(じうんひ)にして賊と呼ばれ、胸裏常に儲(たくは)ふる所の百万の兵を用ふる能はざりしのみ。而して其の如きは蓋し両者の人物性格の相同じきものあると、龍雄が平生陽明の風格に感激私淑するところ大なりしが為であらう。
(「奇傑雲井龍雄の學源」 高橋力)
古本の愉しみなぞを語る有識者もあるようだが、古本は愉しみの素材になるためだけに本棚に佇立しているのではない。古本は人に与えられた有限の時間を支配するものである。人の生のなりゆきを左右する岐路に舞う砂埃、つまずきの石であり、後悔の痛みを刻んで痕跡を残すものであり、愛憎にまみれて日常を翻弄するものである。情深く添い寝もしてくれれば、寝首を掻くことも冷然とやらかすものである。
ここまで来てしまうと、古本は人生を賭けるものであると恥じらいなく口走っているのと同断なのかもしれない。勿論、ここで言う人生とは軽い軽い、この上なく薄くて軽い人生であること、あえて言うまでもないのだが。
敗れるところにのみ住み着くべき人間の種属があって、彼等は終局に臨むまで言葉の永生を信じることをやめない。たとえおのれの存在が空に帰したと知ろうとも、沈黙に折り込んだ言葉の永生を信じることをやめない。炎天の下に右顧左眄を繰り返しながら、啻のどん詰まりまで言葉の切れ端だけは離そうとしない心の頑迷さは、一途な狂気と片付けて始末が付けられるものではない。あえて断じてしまえば、人の見ないところに架橋の姿を見てしまう幻視者の種属の生得的な反射現象にほかならない。
思想者たらんとする精神は、いかほどか病んでいる精神であるのかも知れない。思考の歯の根を浮き上がらせる時代の熱病を身に負って、噛みしだくべき対象世界の核は無情なまでに硬い。狂疾に追い込んでなお、世界に一欠きのかけらさえ落とさせることができない非力な分際は、あげて彼等が架橋の幻視者であることによるものだ。
この世界の裏に厳としてあると囁かれる世界の門へ届くには、架橋はまだ十分に遠く長くはないのだが、彼等の幻視の映写幕には、やがては届く世界の門をくぐるべく頭を低く下げている紛いようのない像が映って見える。思想者の夢は思想の夢であり、思想たるの毒は思想者たるの毒である。この世界に向かって一瞬だに跪拝せぬ世界へと架橋を挑む彼等は、この可能態の一つに過ぎない世界に対峙する程度にはせめて言葉の背筋力を信じようとする。狂疾の微分が夢想の積分と表裏を一にする偏執の病褥でようやく、彼等は言葉を精神の表現として使おうとする。彼等の幻視は霧を見ないし、霧に巻かれていようとも架橋はそこにあると独語する。
其角の句に
京町の猫通ひけり揚屋町
といふのがある。これは紀國屋文左衛門の思ひ者となつた三浦屋の抱妓几帳が、日頃から大の猫好きで、一疋の黒い雄猫を飼ひ、客席へ侍る時も常に此猫を連れて歩いてゐたのを咏んだもので、京町は三浦屋のある処、揚屋町はお茶屋のあつた処である。
几帳は生粋の江戸ッ子で、而も武家育ちであつたから、張りも強ければ意地もあり、殊に古今の絶色と称された名妓である。几帳まだ禿をつとめて居つた頃、朋輩の緑といふ禿が、姐女郎が馴染の客から貰つたといふ玳瑁(たいまひ)の櫛を持つて来て誇り顔に見せた、几帳も子供心に羨しくなつて、欲しいものだと口を辷らせると、緑は、これは仲々の高価のもので、禿風情の手に入るものではないと云つた。それがぐつと癪に障つた几帳は、早速内所へ駈けつけ、無理を通してとうとう玳瑁の櫛を購つて貰ひ、翌日緑の許に持つて行つて、これはお前が禿風情の持てる物ではないと云つた玳瑁の櫛だけれど、こんな物は何でもないと、廊下に投げ捨て踏み砕いて心意気を見せ、緑の魂消るさまを見て喜んだと云ふ。
猶几帳の猫については面白い話がある。例の雄猫の黒は、几帳が厠に立つときは、必ずいつも後について来て、叱つても容易に去らない、そして厠の扉を閉めると外で頻りに鳴いて已まない、雄猫ではあり年も老つて居るので、薄気味悪く思つて、人に頼んで捨てさせると、間もなく帰つて来ては不相変厠の外で鳴いてゐる。いよいよ気味悪くなつて、今度は遠くへ持つて行つて捨てさせた。
或る雨の降る淋しい夜、几帳が厠に立ちて、扉に手をかけ、半ば開いたところへ、一塊の黒い物が外から閃くが如く厠の中へ飛び込み、凄い眼を闇に光らせながら、猛り立つて唸つてゐるので、流石気丈な几帳ではあるが、あまりの恐ろしさに腰も抜かさんばかりに驚いて、大声を挙げて人を呼んだ。男共何事の起りしかと駈けつけて灯の明りによくよく見れば、いつ帰つたものか彼の黒猫が、大きな蛇を咬へてゐるのであつた。そこで、これは屹度主思ひの猫が、前々から此蛇を見付けて几帳に危難あらせじと、斯くは荒々しく騒ぎ立てゝ鳴いたのであらうといふので、廓中の評判に上り、几帳も以前にまして此の猫を可愛がつたさうだ。
(「名人奇人珍談逸話」 好日庵主人編)
山猫は其野生生活に於ける必要上、家猫に比して彼等の動物磁気力の強大を要する理由ありと見做し得らる。石見国安濃郡大田町字長谷の奥に小字虚空蔵なる淋しい一区画があつて、そこに人家が唯だ二戸あり、何れも屋号を虚空蔵と称し本家分家の間柄であるが、明治初年のこと、此所に人家としては、まだ其本家一軒しか無かつた折り、主人は狩猟を本職とすることとて、毎日山に猟銃を担ぎ込んで生活をするのであつた。
或日、夜に入り数里の山路を辿つて帰り、住居の谷間にさしかヽると、夜闇の裡に我家の屋上と見ゆる辺に、赤色の星の如き二個の怪光のあるのが望み見られた。この距離は約三十間ばかりであつた。彼は怪しみ乍ら家に近づいて屋上を透かし見れば、小型の犬ほどの獣が眼を光らしてうづくまつて居るのであつた。
玆に於て直ちに之を射撃したら慥に手応へがあつたので、戸外から家族を呼んで灯を求めたけれど、応ずるものが無い。戸は閉てヽ内から鍵がかヽつて居るので、就眠したかと疑ひ、隙見をすると、焚火の残つて居る囲炉裡ばたに数人の家族が縦横に横はつて死人の如く、其内に一人が苦しげに唸いて居た。そこで主人は驚いて、裏口から戸を蹴破つて入つて見ると、如何にも異常な寝方をして居るので、体をゆすぶつたり、背中を打つたりして僅かに正気附かしたが、其中で十二歳の息子は、既に冷え切つて死んで居るから、急使を馳せて一里半ある大田町から医師を招き寄せて手当をしたが其甲斐無く遂に生回らなかつた。警察署から検死に来て、死因は心臓麻痺とかになつたけれど、実は怪獣に気殺されたのである。
家族の言ふところに依ると、一家のものは夕飯後、焚火を囲んで雑話をしつヽ主人の歸るのを待つてゐると、いつしか妙に睡気が強く襲ひ来て、老人の方が先きに横になり、あとで若い者が横になつたまでは覚えがあるが、女房は恐ろしい夢でも見てうなされる様な声を発し乍ら、自分は一向に恐ろしい夢を見た感じは無く、何れも無自覚であつたさうな。主人は屋上を調べると、血痕があつて後ろの山林へ続いて居たけれど怪獣の屍骸は無かつたので、致命の負傷でないことを知つて残念がつた。此怪獣は山猫で、屋上から屋内の人々を眠らせたのであるが、其魔気が猛烈な為に息子は精魂を吸取られて死亡したと解せられた。
(「動物界霊異誌」 岡田建文)
すべて人は、思考と情緒を羽織ったいけにえとされているようなものだ。見せしめに生きさせられて恥を撒き散らすと言うか、社会的意識を振りかざして凡庸極まる思想を開陳するは、たまさかの貧弱な体験を唯一の頼りに俗臭溢れる人生訓を垂れるは、とにかく恥でないものはない。これは、何者か随分と人の悪い傀儡師が後背に見え隠れして操りの糸を引いているのではないか。切羽詰まれば何事か暴発的になし得る人間に切羽詰まる一歩手前で甘い息抜きを与えて生煮えに終わらせたり、俗世を脱け出ようと跳躍をこころみる男に可憐なマドンナを配して高みへ駆ける翼骨を挫いたりする。
宇宙を統べる一者が果たして実在するか否かは、宇宙生成の起因と同じく、人間の脳髄では推し量りようのない無益な問いかけだそうだが、日々の営みの途上にはなにがしかこれらの影や息吹を微かに思わないでもない。ものごとのけじめなぞという代物は、無知無明の人間が獣の猜疑心から練り上げた根も葉もない約束事に過ぎないので、これに歴史が隷従したためしはないが、一方、この目に見えぬ影や息吹の潜勢力は歴史を一閃に通貫して強烈に蠢動している。具体的にその潜勢力の明証はここにあると言い切った者、実在の真偽を見抜いた者は人間の中にはいなかったから、相変わらずこの得体を晒さぬ影や息吹の力はどこまでも人々を覆いつくし、魅惑しつくして、狂乱、殺戮、犠牲、再生、創造へ駆り立てることをやめようとしない。
人という存在がエネルギーの切れ端である以上、あるスピードにまで至れば光になり切ってしまえるのだが、あるいは、そうなったとしても、光は未だ見ぬその影や息吹に追いつくことにはならない。よしんば人が光となって影に限りなく近づく機縁があったとしても、依然あやふやな正体の存在となって中有に不定の座を探し求めることになるだろう。地上の人として在り続けるのか、光となってあらゆる感官を超えたものに帰属する途を選ぶのか。しかして、いつか時間が光速に及んで須臾たる全歴史が光速に達するとき、光となることを選んだ者、選ばなかった者、いずれもが光となって逆しまへと回帰を始める。
何故ハーンはこの無意識の記憶といふ感念を、彼の作品や彼の通信の中に奏でつゞけてゐるのか。何故彼は、仏教哲学を享け入れる以前からも、生命の永遠存在の問題に惹着けられたか。彼のお得意の説は、宇宙間何ものも失はるゝものはあり得ない、といふのだつた。彼の立派な論文の一つ、『骨董』の中の『幻想』で、彼は生涯の秘密を語つてゐる。彼は、母親の微笑は何物よりも生残るだらう、何故なら、生命はつひに宇宙から決して消え去ることは出来ないのだから、と云つてゐる。最初彼は、あらゆる生命は結局死んで、我々の労働や奮闘のあとは何物も残らないだらうと断定する唯物論的の立場を述べて、その後で、宇宙間何物も失はれないと説く仏教的の思想を叙べてゐる。私は此論文の中に、ハーンの哲学の基調が聞きとれるやうに思ふ。彼は早く基督教の信仰を失ひ、それと共に個々の魂の不滅に対する信念も失つた。六歳の時、彼は母親を失つた。彼は母を愛してゐた、そして彼は生の不滅の問題に疑を懐いてゐたので、彼の母は永遠に彼から去つて了つたものだと感じてゐた。これは彼にとつて苦痛であつた、そこで彼は仏教の哲理が、彼の科学感にも悖らぬ何物かを教へてゐるのでこれを慰めとして享け入れた。即ち、生命は決して全然亡くなつて了ふものでない、何故なら、宇宙は常に存在してゐるし、よし生命がこの地上から消え去らうとも、それをこゝに生ぜしめた諸条件は宇宙内の何処か他所の部分や或は後世をも支配するだらうから、といふ思想である。其故我々はすべて、祖先達が吾々の生命に貢献してくれてゐる如くその別生命に貢献するであらう。実際に、ハーンはかつて自分は昆虫に生れ更つて来ても故障は云はないだらうと書いてゐる。だから、若し生命が永遠につゞくものだとすれば、彼は、幼児に失つたあの母親の微笑を依然知つてゐるわけである。『幻想』の論文は彼のエヂポス関係の結果である。
実際、ハーンはこの永遠の循環の思想を一八八〇年、ニーチエよりも先きに形成したので、ニーチエは一八八一年、八月、海抜六千五百呎のサイラス・マリアで、これが決して新しい説でなかつたことを発見した時涕泣したものであつた。ハーンの輪廻に関する論説はニウ・オルリーンスの『アイテム』に現はれ、『空想家及び其他の空想』と呼ばれて出版された集に加へられた。然しニーチエは、彼の発見の結果として、つまりあらゆる人生の悲劇も亦再発するだらうといふことになるので、非常に悲観的になつた。ハーンは、たしかに、スペンサーを読んだ後はこの説を文学上のあり得べきことの一つとして棄てたやうであるが、而もこの説の主要なる部分に対する信念は持ちつゞけてゐた。
(「戀愛と文學」 アルバート・モーデル 岡康夫訳)
床に腹這いになり文字を綴る。ときとして、綴るにつれて胸にブスブスと蓮根のように空虚で充たされた穴が開くことがある。自から軌跡する言葉の尖端によって、心に穴が穿たれて行くときがある。こんな心の自家中毒を解毒するために言葉一般の枯死を念じた人は、何千、何万人いたことだろう。さらに、その何分の一かは、願いもしない言葉の迷夢に封じ込められていったのだろうか。
帰属する集合を弁じ得ない世界のただなかで初めの意識を意識したとして、ところで、ここで語りかける相手とは何者か。相手は、常軌・非道の境界を持たない論理ののっぺらぼう、あるいは、習俗と感官へ委ねながら生を営む意識が陽炎さながらに揺れ動く銀幕の一面に過ぎないのか。目に見え、膚に触ることのできる脆弱な個物は、自意識が濃密に交錯しつつ整斉されるこの世界の様式に孤立するには余りにも非力である。せめて鏡合わせの秘術によって一身を無限増殖させるか、透き通るまで軽くなろうか。いっそ目眩ましの異相を翳し、周りの表流水を掬い上げてはその虚妄を貯め込む監視人に化けようか。
ふとどきな想いを行為せず、しかし、人には見せないというのであれば、一切の想いはあえて生ましめないのが本望に適う。いったん影を落とした想いには、なんであれ、一跡一跡の筆致によって影と形を相添わせなければならない。そして、どんなにかそれは不恰好だろう。
どうかすると、人は奇妙な、有りそうもない、不自然な夢を見るものである。眼がさめてみて、その夢をはっきりと思いおこして、奇妙な事実に驚かされることもある。まず何よりも先に、夢を見ている間じゅう、理性の働きがやんでいないことを思いおこす。夢を見ている長い、長い間じゅう、たとえば人殺しに取り囲まれたとき、彼らが凶器を用意して、何かの合図を待っているくせに、狡猾なふるまいをし、殺意をひた隠しに隠して、いかにもなれなれしい態度を見せているとき、自分は非常に達者に、論理的に立ち回っていたということさえも思いおこす。ついには、自分がまんまと彼らをだまして、身を隠してしまう、そうかと思うと、彼には彼らがこちらの詭計を万々承知でいながら、ただこちらがどこへ隠れたかを知っている風を見せないだけなのだということに気がつく。ところが、またもや、自分は策略をもって、だましてしまったと、こういうことを何もかもはっきりと思いおこす。しかるに、それと同時に、人の理性は、夢の中にひっきりなしにあふれている、かようなわかりきった矛盾や無理とどうして妥協することができるか?今、その人殺しの一人が眼の前で女になる。また女から小さな、奸智に長けた、いやらしい一寸法師になる。-すると、かようなことを何もかも、人はすぐに、既成の事実として、ほとんどなんらの疑惑さえももたずに、容認してしまう。ところで、一方において、理性があくまでも緊張し、非常な力と、奸智と、洞察力と、論理とを示しているのは、実にこの時ではないのか?また、これと同様に、夢からさめて、全く現実の世界にはいりながらも、ほとんど常に、時としてはなみなみならぬ感銘をうけて、何かしら自分にとって解くことのできないものを夢と共に残しているかのように感ずることもある。人は自分の夢の愚かしさをわらい、と同時に、こういうことを感ずる。-すなわち、かような愚かしさの交錯したところに、一種の思想が含まれていて、しかもその思想が現実的なものであり、自分の現実生活に即したあるものであって、自分の心のなかに存在し、常に存在していたあるものであると感じ、夢によって自分は何かしら新しい、予言的なものを待ちうけていたことを聞かされたかのように感ずる。この印象は強い。これは喜ばしいものか、痛ましいものか、いずれにもせよ、この印象の核心はどこにあるのか、いったい、何を聞かされたのか-こんなことは全く理解することも回想することもできない。
(「白痴」 ドストエーフスキイ 中山省三郎訳)