顧みて凡庸なる自分自身を発見するのは、不快極まりないことではあるけれど、如何にしてもそこから目を逸らす術はない。果たして凡庸なる者が自己の凡庸を発見できるか否か、若干論理的に矛盾が潜んでいる気がしないでもないが、(我が身を顧みれば)凡庸は自己の凡庸を認知できる程度の認識力は備えているようだ。あるいは、凡庸を自覚するところに凡庸の凡庸たる根拠があるという方がより適当であるかも知れない。天才は無論、自己の内に凡庸を見出す暇もなく花を咲かせ果実を生産し続ける。凡庸以前の者は、自分を凡庸であるとあらためて見つめ直すほどには意識的でない。
凡庸なる者には、才能があるのではないかと思い成す「ひょっとしたら」があるからこそ、才能の不在を覚知する「やっぱり」が必ず訪れるのだ。はじめから手がつけられない白紙に才能の影を幻視することはないが、あたら一筋、二筋の形象が描かれるところには、ひたむきに望みたがる心に迎合する空疎な望みが芽生えてしまうのである。いわば、非力、無力なるが故に一層、超能力の実在を信じたがる哀しい心根と相通ずるものがあるのだろう。しかも、隆々として見えた幹や枝に果実が実る時は訪れない。生の躍動と思えた枝葉の繁りは、風の音のみ伝えるものの花を咲かせる時季を持たない。
幾つもの季節を空しく送った後になってようやく、才能と呼ぶに足る生産力を持たない自己の凡庸を直視せざるを得なくなる。実ははじめから凡庸であったという当然の事実は、癌の告知のように面と向かって明確に突きつけられるものではない。それだけに、凡庸が凡庸のまま曖昧に放置されてしまえばしまうほど、それと気付かざるを得なくなった時の無惨さは並大抵のものではなくなってしまうのである。それを受け容れるほかに途はないのだが、それを受け容れる無念さは比類のないものになってしまうである。
明治以来とにかく芽ばえた民主主義を滅ぼし、引いて国を滅ぼす運動は、今から思えば、まず昭和六年の満州事件において烽火をあげ、ついで昭和七年の五・一五事件になったのであった。もちろん当時においても、われわれはこれらの事件を容易ならざる問題として憂慮した。昭和七年五月二十一日の東洋経済新報はちょうど千五百号に当ったので、この記念号として編集されたが、同時に五・一五事件直後の雑誌として、この問題も取り扱った。これを見ると『本誌千五百号の発行に際して』と題して私が書いた社説には、
『顧みて我国は、本誌創刊以来三十有余八年の間に、幾たびか、難局に面して来た。併し思ふに今日に越したる甚だしき危険に際したことはない……。累卵の危に際すとは、真に今日であらう。』と述べている。
しかし同じ号に、やはり私が書いたもので『国難転回策――先づ景気を振興せしめよ』という社説が出ているが、これには『今日は非常の国難の時期だと云ふが、併し記者から見れば此局面を転回する策はさして面倒な事ではない。蓋し以上に挙げた三項目を実行すれば、其転回は易々たるからだ。』と述べている。いわゆる三項目とは第一が言論の自由、第二が社会のすべての部面の旧指導者の引退(彼らの無能がこの危機をもたらしたのだから)、第三が景気の振興で、しかしてまず第三の景気振興を計れ、しかして『国民の多数に生活の不安なからしめ得れば、少くも当面の不平は消散せられ、社会は著しく安泰を加えるであらう。』というのが、この社説の趣旨であった。今日から顧みれば、はなはだのんきな考え方だ、と批評されても弁解の余地はないかも知れない。しかし私も当時の事態を、そうのんきに見ていたわけでは決してなかった。満州事件の発生以来いろいろの方面の人々にも接触し、何とか危局収拾の方法はないかと心配もしたのだが、実は全く手のつけようがなかった。経済界にも、政治界にも、私と同様心配をしている人はたくさんあるが、さりとて進んでこの危局の収拾に、多少なり身をもって当ろうという勇気をもつ人は見当らなかった。たとえば衝突せんとする汽車をアレよアレよと皆でながめているような有様であった。前に引用した社説に、各方面の指導者を責め、その引退を国難転回策の一項としてあげた理由である。しかしこうはいっても、やがてこれらの指導者もいっそう真剣になって挺身する時期が来ようと期待したのだが、それが全く私の空頼みになったわけである。
(「湛山回想」 石橋湛山)
均一台の古本をまさぐる人間の中に、値打物、掘出物を物色する人間がいないとは言わない。しかし、そんなことを思ういとまなく、古本の背文字が台上に陸続と広がる光景を見るだけで胸躍らせる人間はいくらでもいる。古代から現代までに至る文学、哲学、思想、戦争、政治、愛憎、相剋などおよそ人の生と死にまつわるあらゆる精神的営為とか感性的情動とかが、文庫、新書、単行本の形を藉りて、ごった煮となって均一台に溢れ返っている。
あらかじめ探求書をメモに認め、それと首っ引きで古本をかき分ける者があれば、書物との偶然の出会いにこそ無上の価値や宿命を見出す者がある。古本が滔々と流れ行く大河に足を掬われ、心と体を前後左右に危うく揺るがしながら獲物を漁っては、岩場(本棚)に只管並べて祭る者もあれば、次々に倦まずたゆまず読み耽る者もある。
たとえ上・中・下巻の揃いもの(例えば、岩波文庫の「罪と罰」や新潮文庫の「カラマーゾフの兄弟」)のうち中巻と下巻しかそこにないとしても、いつか出会えば可なりとして片割れ本を漁っておく。世にいう教養主義に照らして滅法もない読書の姿勢ではあるが、均一台の精神現象学というもののあることを知る古本病者にとっては、馴染みの意馬心猿がしからしむる見慣れた行動に過ぎない。
なまなかな経済原理に囚われていては均一台に吸い寄せられる精神現象についてその皮相すら認識することはできなかろうし、普遍的な交換原則をもって古本への性向を推算する限り合理主義の原則が敷衍する幅員をはみ出ることはなかろうから、均一台へのしかかる者は不敵な悦びを隠したまま、異形の影を夕闇に溶かしていつまでも思うさま古本を漁り続けるのである。
いつたい東洋では、小説は外の文学に比べて卑しいものとされてゐたので、その為め発達しなかつたのは惜しいことである。小説を単に婦女子の読み物とせず、書く方でも此れを男子一生の仕事とし、士君子が此れに携はるのを恥ぢとしなかつたならば、さうして西洋のやうに政治問題や社会問題をテーマとして取り扱ふやうな風潮にあつたならば、随分立派な人物が傑れた作物を遺してゐただらうと思ふ。差し詰め日本外史や靖献遺言の著者などは、きつと小説を書いたであらうし、又その方が、あの漢文の歴史よりは人心に訴ふるところも多く、寿命も長かつたであらう。日本外史は日本流の漢文としてはなかなか名文ださうだけれども、私はちつともいいと思はない。同じ場面の描写でも、平家物語の和文の方がずつと繊細で生き生きとしてゐる。山陽ほどの才人が何の為めに骨を折つて、わざわざ支那の借り物の漢字ばかりで書いたのであらう。おまけに日本流の漢文にしたとは尚更をかしい。ほんたうの英語ではむづかしいから、ジヤパニーズ・イングリツシユにしたと云ふやうなものである。そのくらゐならなぜ一歩進めて国文で書かなかつたのか、考へて見ると無駄な努力をしたものではある。こんな馬鹿馬鹿しい精力の濫費が、山陽以外にも沢山あつたに違ひない。そこへ行くと国文で書かれた藩翰譜や読史余論はさすがに立派で、今日になつても猶光輝を失はない。その文章の簡潔にして明確な点は森鷗外氏の歴史小説を想ひ出させる。鷗外氏やバアナアド・シヨウのやうに、白石や徂徠のやうな人物が創作に従事してゐたら、可なり異色のあるものが出来たかも知れない。返す返すも惜しい気がする。
(「饒舌録」 谷崎潤一郎)