美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

気の利いたことでも言って人を興がらせ、問題の重大性をはぐらかしてしまう贋物の智慧者(ベーコン)

2019年11月30日 | 瓶詰の古本

 フランス人は見かけより賢く、スペイン人は実際より賢く見えると一般に考へられて居る。国民と国民との間では兎もあれ、人と人との間にはたしかにこのたぐひのことが見受けられる。敬虔に関して、ある使徒が「彼等は敬虔の貌(かたち)あれど敬虔の徳を棄つ」と云つた如く、叡智と才能の事に関して、世には何でもないことや些細なことを、大変大袈裟に行ふ者が居る。即ち、「些事ヲ仰(ギヤウ)々シク行フ」ものである。
 之等の虚飾家がどんな瞞着手段を有つてゐるか、皮相だけの姿を、奥行きと容積を有する実物に見せかけるために、どんな実体鏡を使ふかを見れば、批判力有る人間にとつては実に滑稽で、諷刺の好材料である。或る者は、非常に口数少く控へ目で、云はば薄暗がりでなければ我が品物を見せやうとせず、何時も何事かを云はずに残して置くといふふりをする。そして自分が知らない話題であるといふことがよく解つてゐる場合でも、他人には、此の人は実は知つてゐるのだが何か事情があつて云へないのだ、と思はれやうとする。又ある者は、顔付きや身振りの助けを借り目に訴へて賢く見せる。例へば、シセロがピソについて、彼は自分に答へたとき、その一方の眉毛を額の方に撥ね上げ、他の眉毛を頣の方に引き上げた、と云つてゐるのは之である。その言葉に曰く「一方ノ眉ヲ額ニ挙ゲ他方ノ眉ヲ頣ニ下ゲテ君ハ、我ハ残酷ニ与(クミ)セズ、ト云フ」。又或る者は、大言を吐くことにより、又は断定的であることによつて己が意を通さうとする。そして吹きまくつて、支持し得ぬ立場をば議論の余地のない当然のこととして了ふ。或る者は、自分の達し得ぬ物があると、それを用無きこととか、徒らに瑣末なこととして軽蔑し疎略にするふりをして、以つて自分の無知を正しい批判であるやうに見せやうとする。或る者は常に何か差異点を考へ出し、又大抵、気の利いたことでも云つて人を興がらせ、問題をはぐらかしてしまふ。かゝる者についてA・ゲルリウスは「巧ミナル言葉ノ洒落ニヨリテ問題ノ重大性ヲ損フ愚カシキ男」と云つてゐる。プラトーも亦彼の「プロタゴラス」に於いてこの種類の男であるプロディクスを嘲笑的に拉して来て、初めから終りまで言葉のやかましい区別立てから成つてゐる談話をさせてゐる。かゝる人間は通常すべての論究に於いて否定的な立場に立つことの方を気安く考へる。そして他人の言に異論を唱へたり難癖をつけて智慧者の評判を博さうとする。何となれば、提議が否決されればそれだけのことであるが、それが成立すれば新たに仕事を始めなければならぬからである。かういふ贋物の智慧は仕事の害毒物である。之を要するに、此等の空(から)つぽな者共が彼等の才能の評判を維持せんがために有してゐる手管(てくだ)の数の夥しいことは、金があるといふ評判を維持せんと苦心する、左り前の商人や内緒で乞食の生活をしてゐる者どもも遠く及ばないほどである。
 皮相的に賢い人はいろいろな工作をして好い評判を得ることに成功するかも知れない。しかし何人も彼等を雇ふために選ばぬがよい。たしかに、仕事をやらせるには、あまりに虚飾を事とする人間よりはいくらか鈍い方の人間を用ひるのがよいのである。

(『皮相的な賢さについて』 フランシス・ベーコン 神吉三郎譯)

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芝居の看板の美しさに注意を奪われているうちに財布を掏り取られてしまう(野上俊夫)

2019年11月17日 | 瓶詰の古本

 通常人の考へでは、手品は手さきを極めて敏捷に動かして、観客の眼に止まらない位の速さで種々な事をやるのであると考へることが多い。且手品師の仲間でも『速いほど結果は見事なり』といふ格言のやうなものがある。此の手先きの速さで人を欺くことは幾分か出来ない事は無いが、大体からいふと此の事は決して真で無い。人間の手さきを如何に速く動かしても一定の速度以上に上ることは出来ない。然るに人間の眼は、注意して居りさへすれば、一秒時間の百分の一以内の間眼前に現はれたものをも認め得ることは、心理学の実験上証明し得らるゝことである。それ故観客の方で注意して居りさへすれば、如何に手品師の手が速くとも、目にとまらぬ程にやるといふことは到底不可能である。
 それ故に手品師の最も苦心する所は、手さきの速かといふ点では無く、むしろ観客の注意を巧みに一方に奪つて置いて、其の注意の向はない隙の所で手品をやるといふことに在る。巧に注意を奪ひさへすれば、手の動かし方が如何に徐々でも観客は決して之を見得るものでない。
 元来此の注意の作用なるものは、吾人の心に最も必要且有益なる作用である。即ち我々の周囲に群がり来る所の種々雑多の印象に精神を労することを止めて、特に我々にとつて必要なるものゝみに全精神力を集中する作用である。若し我我の心に此の作用が無かつたならば、我々は殆ど何等の仕事をもなし得ない事になる。例へば今読書をしやうと思つても、其時軒で雀が鳴けば其の声をきく、門前を車が通れば之をきく、机の周囲に蝿が飛んで来れば之を見る、衣服が身体に触れるのや、椅子が背部や臀部を圧するのを感ずる、隣室から来る何かの臭気を感ずるといふ風であるならば、書物を読むことは全く不可能である。書物に書いてあることを理解することに全精神を向け、其の他の雑多なる刺戟は殆ど全く之れを感ぜなければこそ、読書といふことは出来るのである。
 此くの如く注意の作用は有益なる者であるが、同時に又或る一方のみに精神を集注して、他の一切の方面は御留守になるが故に「叙述の心理」の所で述べたやうに、其の留守になつた方面に思ひがけぬ重大な事柄の起つた時には大なる失敗をなすことがある。田舎漢が都の芝居の看板の美しさに注意を奪はれて居る中に、財布を掏り取られてしまふなどは、其の一例である。手品師が観客の注意を一方に奪つてしまふのも、其のもとを正せば、此掏摸のやり方と少しも差は無いのである

(「叙述と迷信」 野上俊夫)

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算え切れないほど多くの不思議が籠っている(柳田國男)

2019年11月09日 | 瓶詰の古本

 子供が亡くなると、悲しむ親たちは腹掛や頭巾、胸当などをこしらへて、辻の地蔵尊に上げました。それで地蔵もよく子供のやうな風をしてゐます。さうして子供たちと遊ぶのが好きで、それを邪魔すると折り折り腹を立てました。縄で引つ張つたり、道の上に転がして馬乗りに乗つてゐたりするのを、そんなもつたいないことをするなと叱つて、きれいに洗つて元の台座に戻して置くと、夢にその人のところへ来て、えらく地蔵が怒つたなどといふ話もあります。せつかく小さい者と面白く遊んでゐたのに、なんで御前は知りもしないで、引き離して連れて戻つたかと、散々に叱られたので、驚いて元の通りに子供と遊ばせて置くといふ地蔵もありました。
 なるほど親たちは何も知らなかつたのですけれども、子供たちとても、またやはり知らないのであります。今頃新規にそんなことを始めたら、地蔵様は必ずまた腹を立てるでせうが、いつの世からともなく代々の兒童が、さうして共々に遊んでゐるものには、何かそれだけの理由があつたのであります。遠州國安村の石地蔵などは、村の小さな子が小石を持つて来て、叩いて穴を掘り窪めて遊ぶので、なん度新しく造つても、ぢきに毀れてしまひました。それを惜しいと思つて小言をいつたところが、その人は却つて地蔵の祟りを受けたといふことです。(横須賀郷里雑記。静岡県小笠郡中濱村國安)
 このやうなつまらぬ小さな遊び方でさへも、なほ地蔵さまの像よりはずつと前からあつたのであります。昔といふものゝ中には、算へ切れないほど多くの不思議が籠つてゐます。それを詳しく知るためには、大きくなつて学問をしなければなりませんが、とにかくに大人のもう忘れようとしてゐることを、子供はわけを知らぬために、却つて覚えてゐた場合に多かつたのであります。木曽の須原には、射手の彌陀堂といふのがありました。もとは春の彼岸の御中日に、この宿の男の子が集つて来て、やさいこといつて、小弓をもつて阿彌陀の木像を射て、大笑ひをして帰るのが御祭りであつたさうです。(木曽古道記。長野県筑摩郡大桑村須原)

(「日本の傳説」 柳田國男)

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