美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

木村鷹太郎という審美の熱源(木村鷹太郎)

2024年05月29日 | 瓶詰の古本

 ソクラテース――は愛の哲理を述べ、『愛とは或ものゝの愛であつて、自分に無いものに対する欲望である。故に愛は善でなく、大なるものでもなく、其れに対する欲望である。愛は美ではない、美に対する愛である。』ことを説き、自分は愛の名人たる事を述べ、愛に関してはヂオチマなる婦人が自分の師匠であつたことを語り、彼女の教へた所であるとして述べて云ふに――
 愛の父母――アフロヂテ女神の誕生日に神々の宴会があつた。其時明智を意味するメーチスの神の子ポロス一名豊富の神も其来賓の一人であつた。宴会終つた時ペニヤ一名貧乏の女神は、例に由つて戸の外に食物を乞うた。豊富の神ポロスは神酒に醉うて、ゼウスの花園に行て睡こんだ。貧乏の女神は其身の窮境を思うて豊富の神を夫にして子が得たいとの野心を起し、豊富の神の側に寝て愛を妊んだ。愛は自ら美を好むに因るとは云へ、又アフコヂテ女神の美しいと、又アフロヂテ女神の誕生日に生れたとの理由でアフロヂテの従者となり侍者となつた。其財産も亦其母の如く、始めは常に貧乏で、何物も所有することなく、たゞ人々の想像する如く、優しく美しかつたばかりである。其の容貌は荒れはて、汚穢に染み、歩くに靴なく住むに家なく、寝る時は青天井の下の地の上に横たはり、時には市に人の門口に息み、其母の如く常に不仕合の境遇であつた。けれども亦幾分父に似た所があつて何時も美と善とに対して野心を抱き、性質大胆冒険で、力強く、能く人を猟り、何時も或陰謀を企て、智慧を求めること甚だ鋭敏で、決して其方法に窮すことがなかつた。何時も哲学者であるが又た妖術者や詭弁学者の如く激烈である。彼は豊富の時には活きて栄えつゝあるが、又た他の時には死んで居り、又其父の性質あるが故に又た活動を始める』ことを言ひ、愛は美を愛するものなること、愛は生産であり、創造者であり、妊娠の神聖なる力であることを語り、美醜と生産力の関係を説き、愛は単に美のみでなく、美に於て生れることの愛であることを言ひ、尚ほ進んで――
 『愛』は不死の原理――であることを言ひ、(一)愛に由つて人間は生殖して子孫に生き、(二)大事業を行うて其功業に生き、尚ほ愈々進んでは(三)人体美より、文物制度の美に至り、遂には美の大海に近づき、智識の無限の愛に於て多くの美なる、高尚な思想及び概念を創造し、最後に絶対の大美に体達し、宇宙と合体して不死たらしめることを述べた。

(『プラトーンの神話』 木村鷹太郎)

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盛期の大江戸、百花爛漫の粧いに賑わう(邦枝完二)

2024年05月25日 | 瓶詰の古本

 蔦屋の主人に誘はれるまゝに、近頃枕橋の八百善、深川の平清と共に売り出した駐春亭へ寄つて、歌麿、一九、竹麿の四人が、吉原の大文字へ繰り込んだのは、それから二時ばかりの後だつた。
 名にし負ふ江戸全盛期の吉原は、いまだ松平越中守の改革も行はれず、諸事倹約を旨とすべき窮屈のお触れも出ぬ以前とて、四季の区別なく、百花爛漫の粧ひに賑つて、啻に初上りの田舎人のみならず、若い江戸人が、二言目には吉原を語り、吉原を誇つて止まないのも、決して無理ではなかつた。
 不夜城の文字に尽きる通り、事実そこに彩られた夜の世界は、絵にも増した華やかさの中に映えて、通も野暮もおしなべての全盛に醉ふ姿は、四海波静かなる百万石の大江戸を祝ぐに十分であつた。
 藏前の札差から出た十八大通なる者があるかと思へば、一方には旗本達が寄つて作つた、何々組なる後援者があり、俳諧師、戯作者、浮世絵師、芝居者はいふに及ばず、上は大名から下は天秤担ぐ小商人までが、日本随一の歓楽鏡として、誰に遠慮もない、色恋の夢を語る道場に外ならなかつたのだ。
 五十軒の編笠芳屋を横に見て、見返り柳を右手に、大門を潜れば、仲之町、右と左に軒を並べた茶屋の数は、山口巴を手初に、和泉屋、近江屋、桝屋、海老屋、左手は平野屋、千登世屋、近江屋、富士見や、桐屋の順序。江戸一丁目から、二丁目、揚屋町、角町と、待合辻、肴市場を中にして、秋葉山の常明燈まで、左右に並んだ茶屋だけでも、百五軒の多きに達する有様。
 更に江戸町一丁目の門を這入れば、音に名高い入山形に二つ星、松の位の太夫職と呼ばれた瀬川のゐる松葉屋、玉屋の小紫か、小紫の玉屋かと、その全盛を謳はれる小紫を筆頭に、若梅、誰が袖、花紫と、粒選りの太夫を揃へた玉屋を首め、扇屋墨河の見世には、花扇、司、蓬莱仙。殊に花扇は、中国のさる大名に抱へられた、五百石の武士の娘であるばかりでなく、浪人してから眼のつぶれた、一人の父に孝養至らざるなきところから、奉行所より、銭十貫文の賞に与つたとあつて、その評判は当時江戸中にかまびすしかつた。
 その他江戸町二丁目の丁字屋には唐歌、松波の全盛があり、兵庫には月岡、雛琴の太夫。京町一丁目の大文字には一本、多賀袖。半藏松葉には粧ひ、瀬川、市川などがあつて、実にや廓は、百花一時に妍を競ふの有様であつた。

(「歌麿をめぐる女達」 邦枝完二)

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日中に夢見る人、世界の秘鍵を求め光明暗黒の海を渡る者(ポー)

2024年05月22日 | 瓶詰の古本

  特異の形態を保全することによりて、魂は救はるゝものなり
                              ――レイモンド・ラリイ――

 私は空想の逞しさと熱情の烈しさとをもつて聞えた血族の出である。人々は私を狂者と呼んでゐるが、狂気が最も高い智力であるかないかは――光栄ある多くのものが――深遠なるすべてのものが――病的の思想から――一般的智性を犠牲にして昂揚された心の気まぐれから、湧き出るものでないかどうかは、なほ決せられぬ問題である。日中夢みる人々は夜のみ夢みる人々の眼にはとまらない多くの事物を認めるものである。彼等はその灰色の幻想のうちに永遠の閃きをとらへ、そして眼醒めては、自分達がいま偉いなる秘密の際涯(ふち)に臨んでゐることに気づいて慄然とするのである。そして時折思ひ出したやうに、善なるものに就いての叡智らしきものを学んだり、またそれ以上に悪しきものについての単なる智識らしきものを学んだりする。たとへ舵がなからうが羅針盤がなからうが「口にすべからざる光明」の広漠たる大洋に入り込み、そこでまたヌビアの地理学者の冒険家のやうに、「かの暗黒の海に行き、そこにあるかも知れないものを探求する」のである。

(『エレオノラ』 エドガ・アラン・ポウ作 葉河憲吉譯)

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文事・宣伝に通じたえらい人達がちゃちな話の種を大ごとに仕立てて商売などしていたら、結局とんだ笑い種になるだけだろうと分別ある大人は同情しつつ黙殺する(尾佐竹猛 大森洪太)

2024年05月18日 | 瓶詰の古本

 窃盗犯人堀本貞一、重禁錮一年に処せらる。といつた丈けでは三面欄も難有がられず、申訳的に行数を塞ぐに過ぎないが、この記事が明治二十五年の諸新聞に掲げられると、世人はアツト驚いたのである。
 といふのは、当時文壇に覇を称へた硯友社一派の柵山人の本名がこの堀本であつたのである。他の文章を剽んだとか、ひとの趣向を無断借用したとかいふ風の泥棒なら文壇では敢て珍しいことではないが――といふと甚だ失礼千万な言であるが、これは現今の文壇を指すのではない、昔の話であるから勘弁を願ひたい――いやしくも文壇一方で名のある小説家が、真個の窃盗犯人、それも一度や二度でなく、他人の邸宅へ忍び入つて金品を盗んだといふのであるから、いくら神経過鈍な人間でも、これや驚かずには居られない。
 これは珍種、とばかりに都下の新聞は一齊に書きたてた。当時のインテリは寄ると触るとこの話で持ち切つた。なかにも憤慨もし、慨嘆をしたのは文士連中であつた。我等の名誉を汚すものだと泣いたものさへあつた、といふ程その頃の文壇は純真であつたのである。
 この間にあつて冷然として、世評を看過して居つたのは、硯友社とは別に文壇の一方に割拠して居つた森鷗外であつた。駈けつけた新聞記者が、御感想はと切り出すと、フヽンと鼻であしらつて曰く、小説家が泥棒をしたのではないよ。記者はあつけにとられ、ヘエー。鷗外は曰く、泥棒が小説を書いて居つたのだよ。
 この話はこれきりであり、鷗外の挿話として残つて居るだけであるが、世の中には、この種の論鋒は少くはない。
 幕末の志士、日柳燕石は博奕が好きであつた。マア一面からいへば博徒であつた。しかも一面は勤王の志士として著聞し、その詩文なども秀でたものであつた。そこで或人が忠告して、いやしくも天下の志士たり学者たるものが博奕を為すとは徳を傷つくること大なるものだといつたが、燕石の答は曰く、学者が博奕を好むのは良くないかも知れぬが、博徒が学を好み、慷慨の志ありとしたら褒めて貰つてもよいだらう。

(「防犯科學全集第八巻 特異犯篇」 尾佐竹猛 大森洪太)

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「國民字典」おくがき(日下部重太郎)

2024年05月15日 | 瓶詰の古本

            (
 かへりみれば,国語発達の研究のために,同志の人々と國語學會を起したのは,明治三十二年の秋であつた. 我等は,習慣が言語や文字や文章の立法者である事を知つた. また,その習慣は,固着し化石したもので無くて,変遷し進化するものである事を知つた. 明治三十七八年の頃から,国語国字国文に関する卑見を公けにした. その頃から,できる事なら,我が国民のための字典――新時代の新字典を編著したいと思つた. さうして今漸く一かたつけて見ると,おのれ自らの心に満足ができないことを覚える. なほ將來の時代進歩に適応するやうにして行きたい心がけである。
 すべて世の中の物事には,前の人と後の人とが網の目のやうに相つらなり,時代は個人を感化し,個人は時代に影響してゐるから,我等国民は,ますます立派に我が文化を発達させて行くやうに,心をあはせて進むことを切に願ひ望むのである. さうして世に種々の恩があることを深く信じてゐる私は,このつたない編著の出来たのも,ひとへに恵みの賜であると感謝しつゝ筆をさしおく.
  時に大正十一年夏の日.
               日下部重太郎しるす.

(「國民字典」 日下部重太郎)

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現実と隔てる磨りガラスの向こうに怪異の世界を見透す小説家にとっては、心理遺伝や精神感応は普通に起こること(メリメ)

2024年05月11日 | 瓶詰の古本

 シュトラァレンハイム夫人にはヴィルヘルミィネという一人の義妹があった。その義妹は、ユリウス・フォン・カツエンエルレンボォゲンという、クライスト将軍の師団に義勇兵として属していた、ヴエストファレンの青年の許嫁(いいなずけ)だった。どうも野蛮な名前を沢山並べて恐縮であるが、又、不思議な話なんぞというものはとかく発音しにくいような名前を持った人達のところにばかり起りがちなものなのである。
 ユリウスは愛国心と哲学的精神とに富んだ、愉快な青年だった。戦場に出かける時、彼はヴィルヘルミィネに彼の肖像を与えた。ヴィルヘルミィネも彼に彼女の肖像を与えた。彼は彼女の肖像を何時もその胸につけていた。ドイツでは、そういう事をよくするのである。
 一八一三年九月十三日の事である。ヴィルヘルミィネはカッセルに在って、夕方の五時頃、客間で、彼女の母や義姉と一緒に編物をしていた。その為事(しごと)中も、自分の前の小さな為事机の上に許婚の肖像を置いて、それから片時も目を離さずにいた。突然、彼女は恐ろしい叫び声を発した。そして胸に手をあてたまま、気絶してしまった。皆は彼女を正気に返らせるために百方手を尽した。やっと彼女は口がきけるようになると、
 「ユリウスは死にました」と口走った。「ユリウスは戦死しました。」
 その肖像が目をつぶるのが彼女に見えた事、それと同時に彼女は恰も灼熱した鉄で胸を貫かれたような激痛を覚えた事を、彼女は断言した。その顔にありありと浮んでいる恐怖の情は彼女の言を証拠立てるには十分だった。
 皆で彼女の見たものが現実のものではない事、それをあまり重大にとるべきではない事を、彼女にわからせようとしたが無駄だった。かわいそうにその娘はどうにも慰められようが無かったのである。彼女は一晩中泣き明かし、そして翌日になると、あたかも彼女に予示せられた不幸が既に確められでもしたかのように、喪服を着けると言い出した。
 それから二日立ってから、ライプチッヒの激戦の便りがあった。ユリウスは許嫁に十三日午後三時の日付のある手紙を寄こしたのである。彼は手傷も負わずに、殊勲を立てて、ライプチッヒに入城したばかりだった。そしてその夜は司令部と一緒に、従ってあらゆる危険から遠ざかって、過ごす筈だと書いてあった。その安心させるような手紙もヴィルヘルミィネの心を鎮める事は出来なかった。彼女はそれが三時の日付になっているのに留意し、彼女の恋人は五時に戦死した事をどこまでも信じたのである。
 この不幸な娘は間違っていなかった。その後すぐ、ユリウスは伝令の役目を帯びて、四時半頃にライプチッヒを出たところ、市から四分の三マイルくらい離れた、エステル河の上方で、溝の中に待ち伏せていた敵の敗残兵によって射殺せられたという事が判明した。弾丸は彼の胸を射抜いて、ヴィルヘルミィネの肖像を壊したのであった。

(『マダマ・ルクレチア小路』 メリメ 堀辰雄譯)

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小説を書くほどの者にとって、真の芸術家が悪人であるはずはなかった(カロリーヌ・コマンヴィル)

2024年05月08日 | 瓶詰の古本

 数多い仕事の計画が彼の心を占めてゐました。殊に、着手し掛つてゐたテルモピレに関する短篇(※)のことを話してゐました。彼は著作をするに当つて、その準備的な研究にあまり時間を使ひ過ぎたことに気が附いて、余世を芸術のために、純粋に芸術のためだけに費さうと思つてゐたのです。形式に対する執着は益々深くなつて来て、或る日、例の烈しい突拍子もない思ひ附から、恁んなことを叫びました。((思想なんてえものはどうだつて構はない!)) さう言つて置いて、直ぐに大声で笑ひ出して、((どうだい、一寸良いだらう? 仲々抒情的な文句だらう。私にも芸術が判り掛けて来たよ))
 彼に取つては、真の芸術家が悪人である筈はなかつたのです。芸術家は何よりも先づ観察者であつて、そして観察するための第一の資格は、良い眼を持つといふことでした。若しも眼が偏見に依つて、即ち個人的な利害関係に依つてゐたならば、対象は逃げて行つて了ひます。善良な心には、それだけ智慧が宿ります!
 美を崇拝するあまり、彼は恁んなことを言つてゐました。((道徳は審美学の一部分にしか過ぎないが、然しその根本條件にも違ひない))
 彼の特に好まない人間が二種類あつて、さういふ人達に対しては彼は苛酷でした。その一つは批評家で、何も生産しない癖に何でも批評する人間です。さういふ人間よりは寧ろ蠟燭屋の方が好ましい位でした。今一つは学問のある人達で、さうした連中は芸術家を気取つて、世の中に愛想をつかし、勝手にヴィーナスを信じてゐるのですが、それは飛んでもないヴィーナスでした。恁ういふ種類の人間の一人に出会ふと、彼は辛辣な返事をするか(自分では、なんにも想像したこともなく、なんにも考へたこともなく、なんにも知らないのだと言つてゐましたが)、さもなくばもつと昂然として黙つてゐるかして、その人に対する軽蔑をぶちまけてゐました。

※註四六 フロオベエルは『テルモピレの戦』といふ短篇を書かうとして、そのため希臘旅行が必要になつたが、財政が之を許さず遂に断念した。

(『追憶』 カロリイヌ・コマンヴィル 北原由三郎譯)

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講談版「二刀流」、秘術燕返しとの決闘(榎本進一郎)

2024年05月04日 | 瓶詰の古本

 いよいよ七月二十七日は来た、豊前島の一部に場所を選び、その周囲には竹矢来をめぐらし、三方には桟敷をかけ、一方には人の通路として一面の鯨幕をひき、正面の桟敷には、小笠原侯自ら出座あると言ふことで、定紋を染め抜いた幕を又一方の桟敷は加藤家の立会人に充てたもので、こゝには、加藤家の紋のあるもの、今一つの桟敷は、他の諸臣の参観所、何んと言つても達人と達人との立会のことゝて、見物の多い事立錐の余地もない、武蔵はその日の扮装。
 水色帳子に、菖蒲革縁取りの野袴を着し、足には小紋の脚絆に切緒の鞋、三條小鍛冶宗近の大刀と、不動國行の小刀を帯てゐた。
 さて岸柳はと見れば、薄茶の帳衣に、菖蒲革の野袴、鞋脚絆に、襷鉢巻の用意、腰には朱鞘の大小を厳しくさしてゐた。
 いよいよ合図の太鼓が鳴つた、数万の群衆の眼は、武蔵と岸柳にそゝがれた、今や小倉全市は武蔵のために祭礼のごとき有様であつた。
 やがて、二人とも両桟敷に目礼がすむと、傍の役人が土器をとつて水を与へる。
 それから、厳かに仇討作法の條項を読み聞けらる、そして後、
『双方とも用意整ひたるか』
 と尋ぬる声に、二人は恐れ入つてお受けした。
 又もや、合図の太鼓がドンと鳴つた。
 この時一足退つた武蔵は、
『父無二齋及び師匠、石川巌流の敵覚悟いたせよ』
 と両刀ズラリと抜いて身構えた。
『云ふにや及ぶ、何をツ』
 と岸流、大剣手にして睨んだ、何といつても達人と達人、一振りを無駄にせぬ。
 暫しは気合を計つてゐたが、武蔵はエイと一声斬りこむを、危く岸流身を躱して、ヤツと切りつけた大太刀は武蔵の小鬢をかすめた。
『アレ……』
 と思はず見物手に汗を握る暇もなく、岸柳得意の燕返しの術、武蔵、真つ二つに曲斬りされたとおもひきや、武蔵軽く七尺あまりに飛び上がつた。
『しまつた』
 と岸柳が叫んで、ワザとかゝらなかつた、武蔵の飛び返す二刀の刃、岸柳の肩先き深く、父の恨みの一刀、師匠の恨みの刀は、脇腹を五寸あまりも切り下げた。
 その早業電光よりもはやく、武蔵が岸柳の燕返しの術により切られた袴の裾が、地に落つる時間がなかつた位とか。
『わツ……』
 と俄に歎声が湧いて、海神を驚ろかした。
 武蔵は恨みの止めを刺し、太守に礼を述べた。
 その時、加藤の諸臣が助太刀と騒いだが、有馬と關口彌太郎のために手強い眼に逢はされた上、魚腹に葬られ、反つて恥を豊前島の千鳥の声に残したとか。

(「神免二刀流宮本武蔵」 榎本進一郎編)

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スヴィドリガイロフは夢の中から現われ、実在の裏口から夢の中へ戻って行った最も忘れがたい人物(メレジコフスキー)

2024年05月01日 | 瓶詰の古本

 偉大なる写実主義者であると共に偉大なる神秘主義者なるドストヱーフスキイは、実在的なものの中に幻想性を感じてゐる。彼から見ると、実生活は、ただ現象に過ぎない。被ひの布に過ぎない。そしてその現象の裏面に、被ひの布の裏面に人間の智慧の到達し得ない、人間の智慧から永久に隠されてゐる何ものかが潜んでゐるのである。だから、彼は故意に夢と現実との間にある境界を滅却してゐるかのやうである。次第に明瞭に生々と描き出されて来るある人物なども、最初は霧の中からか、或は夢の中からでも現はれて来たもののやうである。例へば、街路(とほり)でラスコーリニコフへ『人殺し奴』と言つた一人の見知らぬ町人などがそれである。次の日になると、その町人はラスコーリニコフには何だか幻影か錯覚のやうに思はれるが、やがてまた生きた人物に変つてしまう。スヴィドリガイロフが初めて現はれた時もやはりさうであつた。この半ば空想的な人物は、極めて実在的なタイプのやうに次第に思はれて来るが、かうした人物も夢から、ラスコーリニコフの混沌とした病的な夢想から生れ出たもので、ラスコーリニコフはかうした人物の実在性を余り信じてゐない。それは、丁度神秘的な町人の実在性を余り信じてゐないのと同様である。ラスコーリニコフは自分の友達である大学生のラズウミーヒンに『君はあの男を確かに見たのかね? 明白に見たのかね?――うん、さうだ僕ははつきり覚えてゐる。僕はあの男を千人の人間の中からでも見つけ出して見せる。僕は人の顔については憶えがいいんだ……ふむ……さうだ、さうだ、……』と呟いたかと思ふと、こん度は『実はね、君……あれは妄想かも知れん……ことによると、僕は本当に狂人(きちがひ)になつてゐるために、実は幻影を見たのかも知れん……と、かう僕は思つた。またどうもさう云ふ気がしてならなかつたんだ』とも言つてゐる。

(『ドストヱーフスキイ論』 メレジコーフスキイ 山内封介譯)

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