文政十一年になつて平田篤胤は「古今妖魅考」を書いた。寅吉物語が出来て後六年であつた。天保三年に三巻となつて刊行せられたが、巻末広告で見ると元来は五巻で二巻は平田家の内書として刊行せられなかつた。
篤胤の妖魅なるものは化物(バケモノ)、又は麻我毛能(マガモノ)で「人の霊魂の人につきて異き所行をなし、或は狐狸の類をなす業をし、皆すべてしか言ふなり」と記してをる。そして此書には此部類に関する古代からの文献を述べて神道としての解釈を下して居る。又天狗に就ても論じて居るが寅吉に就て特別に記せる所はない。此書も民俗学史の文献としては役に立つが、考古学史には関係がない。
篤胤の人となりに就ては傲慢だと云ふ様な悪評もあるが、宣長眞淵の如き大国学者の後を承けた大家丈けに、新生面を開拓するには大努力を要した事と思ふ。篤胤の妖魅考も此努力の現はれの一部であつて心霊、心理、精神の方面までも突進したのは偉とすべきである。
さて何が故に篤胤は心霊、幽冥界に亙つて迄も真剣に研究したか、これは篤胤の学的傾向を全体的に観察した山田孝雄氏の著書を読むと自然に了解出来る。同氏は単行本「平田篤胤」のニ一〇頁に左の如く述べて居られる。
「篤胤の学は本居の学を継承したるものなりといふことは何人も認めざるは無けれど、本居の学は篤胤のなせる所と必しも一ならず、その最も著しき差は篤胤の学は本居の研究せし方面以外に著しく研究範囲の拡大せられたるにあり、その差の著しき点は暦の研究にあり、易の研究にあり、神仙幽冥界の研究にあり、医道の研究にあり、仏教の研究にあり、儒教の研究にあり、これ等の研究は本居の研究の範囲外にありしものといはざるべからず。而して篤胤はかくの如きもの就きて、それら一家の見と自信とを有したりし(下略)」
(「日本人種論變遷史」 清野謙次)