美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

偽書物の話(九十一)

2017年05月31日 | 偽書物の話

   書き記された文字が書物へ凝結することで、現実世界がその複層をより重畳化し拡張するとの言説は、通俗と隣り合わせた陳腐のにおいが拭い切れないが、水鶏氏累年の哲学、世界観を礎としている。氏の論を取り扱うには、浅瀬と見える表面の印象から尋数を測り損なうおそれがあるので、偏心のない錘鉛が用意されなければならない。海とまでは言わずとも、水たまりや井戸、あるいは湖沼を測るぐらいの入念さはあっていい。逆に、氏の主旨を深読みしてしまわないためにも、慎重な心組みが肝要になる。
   黒い本との間の所謂感応に起因して、水鶏氏が何らか瑞々しい物象に接触したことは、否認する余地ない事実であり、むきになって猜疑するも愚かしい、堅牢な認知の実体現象だろう。これを敷衍して、あらゆる書物は独自の声を潜在させているとの言表がなされているが、反面、手近な書物との間でいつでも再現され得る現象たるの明証が待たれる仮説であることは、誰からも棄却されてはいないのである。

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利口なるなかれ、正直なるなかれ(齋藤緑雨)

2017年05月28日 | 瓶詰の古本

◯人は鳥ならざるも、能く飛ぶものなり。獸ならざるも、能く走るものなり。されども一層、適切なる解釈に従はゞ、人は魚ならざるも、能く泳ぐものなり。
◯利口さうなると、正直さうなるとは、人間游泳の極意也。一般社会は此さうなるを以て、信用の基礎となすものゝ如し。利口なるなかれ、正直なるなかれ、凡てに語尾の明確ならんは、溺没をまねくに殆かるべし。
◯真人間無きにあらず、真人間の世を渡るもの無きのみ。紅塵青史、利を競ひ名を争ふ、真人間の堪ふる所ならんや。勲位あり、爵祿あり、洋剣(さあべる)あり、算盤あり、石門鉄墻の厳めしきあり、強て真人間を作るの要あるを見ず。
◯忽ち曰ふ、真摯なれと。こは己に責むべき事也、他に責むべき事に非ず。よしわれはわがマジメを蔵するも、むやみに人様に御覧に入れんとは思はず。
◯故にわれの酒客と談ずるを欲せざるは、酒を欲せざるのみならず、実に其人、其談を欲せざるなり。わが知れる限りを以てすれば、酒客は早速本心を申上ぐる者なればなり。手中一個の盃に代へんには、余りに惜しきわが命なればなり。

(「みだれ箱」 齋藤緑雨)

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偽書物の話(九十)

2017年05月24日 | 偽書物の話

   黒い本からの声を感受したのは、その折ちょうど親しんでいた手記や石塊に水鶏氏の深層心理がもろに干渉を受けて捏ね上げられたのではと疑われても、水鶏氏はそんな誣告に頓着する暇を持たない。よしんば、手記や石塊の方が当の感応によって現世界に結実した成果物、記念碑であると面前で提起されても、水鶏氏には動じる理由がない。諾否を与えず、関心なげに頷くだけだろう。書物について不断に考え続けている思考が、行く先々の淀みに処して拓かれて行く導水路を、滑らかに流れているに過ぎないのだ。
   水鶏氏のような人にとって、取り繕ったり、言葉をすり替えたりして、多相な論点を阻害要素と見做して議論から排除するのは、丁寧に推敲し補綴して来た論攷を汚す恥ずかしい挙措でしかない。個々別々に発動する感覚の絶対正当性を得々と主張するのと同類の、大いなる矛盾を漫然と犯して失笑を招く行為なのである。

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悲哀の森に幻影を見る(ジェローム)

2017年05月21日 | 瓶詰の古本

   昔誉れある数人の騎士が不思議の国に馬を乗り進めてゐた。騎士の行く道は深き森を過ぎて、森には茨が深く纏つてゐた。荊棘は肉を刺して、騎士達は茨の中に道を失つた。森に繁茂する樹々は深く鎖し、陰惨な妖気を払ふ日の光は樹梢に遮られた。
   この森を乗過る時一人の騎士が伍を逸して何処ともなく彷徨つた。他の騎士達は彼を死せるものと思ひ諦めて、悲哀に暮れながら馬を進めた。
   彼等は志せる美しき城について、楽しき日々を送つた。ある夜彼等は篝火を囲んで円座しながら、満を引いて飲み交はしてゐると、先に道を失つた騎士がその場に現はれた。纏へる衣は破れ裂け、身には痛ましい刃傷の跡を留めて、姿は見る影もなく窶れてゐるが、顔には深き歓喜が歴々(ありあり)と刻まれてゐる。
   一同驚いて別後の消息を尋ねると、彼は下の如く物語つた。自分は深き森に道を失つて日夜その中を彷徨ふ内、遂に肉破れ、骨疼き、せん方つきて森の中に倒れ伏した。
   あはや断末魔が身に及ばうとしたとき、怪しむべし、闇をわけて神々しい一人の乙女が自分の前に現はれた。乙女は自分を導きつゝ人知らぬ恐ろしき道を何処ともなく辿つて行つた。道が森の闇に極まつたとき、自分は俄然赫奕たる光明の中に自分を見た、光被せる白光は、例へば日の光がほの暗きラムプの灯を圧するよりも尚ほ煌々と輝いてゐた。この光明の中に自分は夢みるが如く、怪しき一箇の幻影を見た。自分はその幻影のあでやかさに、身の傷つけるを打ち忘れて酔へるが如く佇んだ。自分がその時感じた海よりも深き歓喜を、人は筆紙の上に述べつくすことを許されぬ。
   幻影は消えた。自分は跪いて、自分をこの悲哀の森に誘ひ、人に知られぬこの幻影を知らしめた神々しい乙女の前に額づいた。
   この暗き森は悲哀の森である。しかし其処で騎士の前に現はれた幻影を、人は知ることも解することも許されぬ。

 (「ボートの三人男」 ジロゥム 浦瀬白雨訳) 

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偽書物の話(八十九)

2017年05月17日 | 偽書物の話

   「黒い本が書物にあらざる偽書物なるものだとしたら、書物と人の交感によって現出する世界、文字も語り得ない新たな別世界の実在を論ずる上で、とりわけあなたのご本に執着する理由はないと言えましょう。この本が含み持った固有の潜勢力に仕組まれ、手もなく幻術の罠に嵌ってしまったとか神妙なことは言いませんが、構想の契機となった黒い本を遠ざけ、ここにある書棚のうちから任意の一冊を引き抜いて、まごう方ない書物からの声を掬い取ろうと専心するのが、取るべき最も賢明な針路ではないですか。私に生じた感興が偽書物の仕向けた詐妄であると認める認めないにかかわらず、立ち込める灰白色の霧を突き抜け航路を先へ拓くためには、書架に並ぶ彼是の書物と本身で向き合い、それらから発せられる声を受け留めることができるかを検証してみなければなりません。」
   水鶏氏が語っている間中、黒い本の膚である繊美な柔毛は水鶏氏をなびき寄せるように、目立たずそよぎ続ける。私の眼にはその様が、水鶏氏の言葉に駄々をこねている媚態とも映った。私は自ら進んで柔毛の招きの指に籠絡されてしまい、ついには濛々たる心的境界に連れ去られ、理非分別を忘れるまで遊ばされているのかも知れない。

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幻影夢(十六)

2017年05月16日 | 幻影夢

   「あんた、真剣に聞いてんのかな。ええ。」
   「当たり前です。先生が瀕死の懇願を含んで亡くなりそうであると。それ故に、なんとか意に添うことはできないかと、そういうことでしょう。」
   「それよ。分かっているだろうが、既に晩年を送る先生と昵懇のままに、か細いながらも縁を繋いでいるのは、ほかにはない私とあんただけなの。」
   二人が先生と縁を繋いでいるのは、あくまでも偶然生じた縁であって直接教え教えられの薫陶関係にあった訳ではない。つまり、世俗的な講壇における師弟関係から生まれた縁ではないのである。それを、この女ときたら恰も鴻恩を被る師父、恩師といった体の忝なさを前面に押し出してくる。おのれの酔い痴れる物語に引きずり込んで、おれまで脇役扱いに終始するのだ。他人(つまりはおれ)には涙を求めるくせに、自分はいつだって傲然と構える姿勢を崩したことがないのだから。
   「それはそれとして脇に置いといてだ、その包みは本らしいね。何を買ったの。」

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一輪の花咲けかしと(島崎藤村)

2017年05月14日 | 瓶詰の古本

慨然として死に赴いた青木の面影は、岸本の眼前にあつた。「我事畢れり」と言つた青木の言葉は、岸本の耳にあつた。幾度か彼はあの友達の後を追つて、懐剣を寝床の中に隠して置いて、悶死しやうとしたのである。身体の壮健な彼には奈何しても死ねなかつた。
絶望は彼を不思議な決心に導いた。
『親はもとより大切である。しかし自分の道を見出すといふことは猶大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。何の為に斯うして生きて居るのか、それすら解らないやうなことで、何処に親孝行が有らう。』
斯う自分で自分に弁解して、苦しさのあまりに旅行を思ひ立つた。
其時の岸本は、何処へ行つて了ふのか自分にも解らなかつた。あるひは最早帰つて来ないかも知れない。もし帰つて来ないにしても、自分は母に対し家の人々に対して、自分の力に出来るだけのことを尽した。是上は運命に任せるより外はない――まさか餓死するやうなこともなからう。斯う考へた。
そこで彼は寝床を離れた。
旅費の宛もなかつたから、岸本は自分の書籍を売ることにした。二階へ上つて行つて見ると、何年か掛つて集めた蔵書が貧しいながらも置並べてある。三輪で差押に遇つた時、大半は失して了つたが、未だそれでも旅費を作る位はある。金に成りさうなものは、洋書は別にして、両国の古本屋で集めた木版本の俳書、それから浅草で買つた唐本の類がある。貧書生の身で、苦心して集めたことを考へると売るのはナサケなかつた。
岸本は窓のところへ行つた。そこで過去つたことを考へて見た。あの国府津の蜜柑畠に転がつて、土の臭気を嗅ぎ乍ら、もう一度斯の世の中へ帰らうといふことを思立つた時から、今日まで、何を自分は知り得たらう。何を知る為に自分は帰つて来たらう――
ふと、其時、青木の歌の一節が岸本の胸に浮んだ。それは岸本が漂泊の旅に出た頃、彼を送る為に青木の作つた歌である。青木の声を聞くやうな歌である。
        『一輪花さけかしと
        願ふこゝろは、君のため――』
岸本は窓の処で斯の一節を繰返した。冷い涙は彼の蒼ざめた頬を伝つて流れ落ちた。

(「春」 島崎藤村)

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偽書物の話(八十八)

2017年05月10日 | 偽書物の話

   「でも、そんな言い訳をしたところで、書物の本態を見極めようと考究を深めるために直ぐにも益することがあるのと問うてみれば、答は自ずから明白でしょう。それに、時も時、逢魔が時に別世界を実見したと力説しているのです。初発の思い込みから醸成された迷霧の中の陽炎ではないかと言われて、いきり立って抗弁を重ねるのは、本格的な論議の庭先で空騒ぎをしているのと同断です。さらには、別世界が私の内に残した実感の燠火は、それまで私が素描していた書物像を無理なく拡張するものであり、延いては、確たる拠り所を永遠に見出だせない我々の現世界と匹敵する程度の実存性を訴えています。どう見ても筋金入りの不完全性ではありますが、それが故に逆転可能な不完全性であると私には映っているのです。」
   どことなく他人事めかした言葉には、水鶏氏が当初に浴びた強い衝迫の余波が見え隠れしている。初めに設けたとば口を黙殺しないまでも、今いる場所から、遠くまで見晴るかす高所に導く確かな道の探索に余念ない口吻が伝わって来る。

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綺譚会事件の単なる偶然

2017年05月10日 | 瓶詰の古本

   昨夜の寝際から読みかけた「綺譚会事件」。昭和24年発行の『別冊宝石』第2巻第3号に掲載された探偵小説である。古本屋でその分厚さに驚倒し、見た目のお得感に誘惑されて買ってしまった別冊特集号である。表紙に、百万円懸賞、新鋭三十六人集を謳っている。興味津々、佶屈な漢字混じりの交霊会殺人事件を辿り読みながら、途中途中の箸休めに、本日発売の『週刊文春』を拾い読みしていた。
   文春には、各界で活躍する人士の近況について紹介する「この人のスケジュール表」というページがある。毎週読まずにスルーするページなのだが、今日に限ってふと目をとめたのは、鷺巣詩郎なる人物が登場していたためである。既に知っていた人ではないのに注目したのは、ひとえに「鷺巣」の二文字。最初、これを「鷲巣」と読んだことから、深淵を往く哲詩人、かの鷲巣繁男に血縁の著名人がいたのかと心惹かれたのである。
   しかし、記事を読むとすぐ、錯誤に気がついた。詩郎氏のお父さんとは、うしおそうじであると書かれている。なんだか妙だと思ってよくよく文字面を睨んでみれば、鳥は鳥でも鷲にはあらで、鷺であった。
   うしおそうじなら知らない人ではない。愕然としつつ事のついでに、うしおそうじを検索してみると、鷺巣富雄さんというのが本名と分かった。へー成程と、この一件はそれなり腑に落ちたので週刊誌を閉じ、綺譚会事件謎解きの大団円をようやく読み終わった。やれやれと少しく難渋な文章の余韻に浸って事件冒頭のページに立ち戻ると、こはいかに。「綺譚会事件」の題目の傍らに今までもずっと作者飛島星象と並んでいたであろう、鷺巣富雄画という文字がたちまち眸へ飛び込んで来るのであった。

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「猫」と共に地下の子規に捧げる(夏目漱石)

2017年05月07日 | 瓶詰の古本

   子規はにくい男である。嘗て墨汁一滴か何かの中に、独乙では姉崎や藤代が独乙語で演説をして大喝采を博してゐるのに漱石は倫敦の片田舎の下宿に燻つて、婆さんからいぢめられてゐると云ふ様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へ抔と云はれると気の毒で堪らない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞つた。
   子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になつた事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴さうと思ふ。
   子規は死ぬ時に糸瓜の句を咏んで死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称へ子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作つた時に
    長けれど何の糸瓜とさがりけり
と云ふ句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。

(「吾輩は猫である」序 夏目漱石)

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偽書物の話(八十七)

2017年05月03日 | 偽書物の話

   ここに至って私は、黒い本に思いのほか拘泥している自分の本意から目を背けようとしていたことに気付かされた。水鶏氏が黒い本と私の間に割って入った関係性にあることを、無意識のうちに打ち消していたのではないか。抑えていた執着心が這い出して来るのは無様なものだが、水鶏氏の披瀝する思索と親身に共鳴できたのも、黒い本が未だに真意を明かさない私の同伴者であるとする、一方的な憧憬の裏返しだったのである。他人に理解される本であってはならないと、わがままな注文を心底に隠していたが、いい加減で黒い本に対する私自身の心を直視しなければならない。
   水鶏氏の声は、振れのない冷静な調子を持続していた。私に向けられた言葉は、黒い本へ向けて発せられている言葉でもあるのだ。唐突に浮かんで弾けた奇怪な空想は、まさかに偽書物が企んで私の胸中に吹き込んだあぶく玉ではあるまいが、さぞかし眸の焦点の定まらぬ散漫な顔つきを水鶏氏へ晒していたことだろう。

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奇書は稀書でなければならない

2017年05月01日 | 瓶詰の古本

   奇書は稀書でなければならない。これは絶対条件。つまり、人口に膾炙した本であって、普及版がいかほど豊富に出回っていたとしても、少部数印刷された私家版、初版といった稀少な原本が幻として世にひそみ、その中味が人の度肝を抜くものであれば、奇書と呼ばれ得る。
   夢野久作の「ドグラ・マグラ」も、そうした稀覯の版本が存在するが故に、未だに空前の奇書たるの座を明け渡すことがない。大量部数で製本、出版され、併行して広告、宣伝に抜かりない近時の小説本などに、奇書の稟質が賦与されないのは理の当然である。

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