美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

無慈悲なもの(続き)

2008年09月30日 | 瓶詰の古本

   霊視、予知は、災害や戦役で失われる命を救うものでなければ、信じるに足らない。言挙げされた前世は、その人の人としての尊厳になんの関わりもないので、あろうとなかろうと全く意味がない。仮にありとして関わりもあるとすれば、ひとたびの生の尊厳を軽んずる意味しか持ち得ない。念動力は、危険な土木事業で存分に腕を振るってもらえるならば、感謝に価するに違いない。祖先の霊は、厳粛に現世を生きる中で素朴な繋がりを心の片隅に置けばいい。己一身の安全や利得の成否までご先祖様に負わせるなんて、それが実は、世間周知の成功者に対してしか使えないレトリックであるにしても、それこそ本物のバチ当たりというものではないか。
   無慈悲なもの、最も無慈悲なもの、超越を希う心。

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買った本(2008.09.22~28)

2008年09月29日 | 瓶詰の古本

   「ニッケル・アンド・ダイムド」(バーバラ・エーレンライク 曽田和子訳 平成十八年)
   「酔人・田辺茂一伝」(立川談志 平成六年)
   「夢野久作全集 第四巻」(夢野久作 昭和十一年)
  「ゴルゴ13 涙するイエス」(さいとう・たかを 平成二十年)
  「ノートルダムの傴僂男」(ヴィクトル・ユーゴー 黒豹介訳 昭和二十三年)

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本を捨てる

2008年09月28日 | 瓶詰の古本

   本を捨てるのは気のひける行為である。共同住宅のごみ捨て場へそっと置き去りにする。子供を棄てたことはないが、おそらくそれに通ずる哀しい心持ちではなかろうか。ドストエフスキーの「貧しき人々」には、雨中に息子のしかばねの後を追って本を撒き散らして行く父親の描写があるが、雨に打たれて置き去りにされた本の姿でさえ場面の哀れを増幅させるのだから、まして故意に本を捨てて行くなんというのは紛う方ない罪過と呼ぶべきだろう。つまるところ、これから読む本のために読んでしまった本は捨ててしまおうと、本をまるで玩弄物と同じように扱うという不埒な思い上がりが罪過の源なのである。エジプト遠征のナポレオンとは訳が違う。
   それは確かにそうなのだが、身の周りに読み果たした古本が積まれてあることによって、じわりじわりと心内に不安・強迫が醸し出されて来るのである。身軽でないと頭まで沈んで行く。書かれたことばかりに拘泥して、言葉を吐こうとする勇気が凋んでしまう。いきおい酒の力を借りようとするから、必然酒の量が嵩んで行く仕儀となってしまうのである。

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つげ義春「古本と少女」のようには

2008年09月27日 | 瓶詰の古本

   つげ義春の「古本と少女」にある、古本屋の帳場に若い娘さんが坐っている風景を見ることはほとんどない。まったくないと言う訳ではないが、現実としてそこに坐っているのは男店主か、店主以上にしっかり者風のおかみさんである。古本特有の黴の影響かなにかで、古本屋一家には男の子しか生まれないのだろうか。あるいは、古本を好む人間の生理、生活力を熟知している店主夫婦が、大事な娘を絶対に顧客連中と接触させない、目にも触れさせないようにしているのだろうか。
   小さな男の子が店の中で遊んでいて、やがて青年となって帳場に坐るのはいくつか見て来ているが、女の子のそうした例に遭遇したことはかつてない。ある日突然、見知らぬ若い男が帳場に出現し、その人物が、わずかな会話のやりとりから婿さんらしいと推測され、ああこの店にも娘さんがいたんだと知ることもあるが、当の娘さんの実在は皆目確認できない。
   普段まったく関心のない、どうでもいい話ではあるが、偶々つげ義春の漫画を読んでいて、ふと何軒か古本屋の帳場の光景が浮かんで来ただけのことである。古本商売道の良風として、修行見習いの若者と店主の娘さんが結ばれるなんて艶話はあるかも知れないが、職業柄その内実についてお見通しのお客さん方、偏屈、非常識にとどまらず、出世、蓄財から完全に見放された流浪の民である古本好きにだけは金輪際娘を取られまいと、愛娘の幸せな将来を希う親心は当たり前と、余計なお世話ながら一瞬の空想に囚われただけのことである。
   だからこそひとしお、「古本と少女」はつげ義春の世界でだけ出会える有り難くも淡い喜びを与えてくれるようである。

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心の建物構造

2008年09月26日 | 瓶詰の古本

   無限の高みに向かう建物があり、内部の各層には廊下がある。いたる所に階段があって、直ぐ上の層なり下の層なりへ行くことができる。廊下の両側にはずっと部屋が並び、いつも何かが催されている。部屋の中は、がやがやと騒がしかったり、ひっそりと静まり返っていたり、まるで意味が分らなかったりしている。各層とも、それぞれに違う景色があり、部屋ごとに別々の異なった風景が展けているのである。

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歩き続ける男

2008年09月25日 | 瓶詰の古本

   男はいつも外を歩き回り、決して庇の内に入ろうとはしない。雨の降りしぶく空の下、怒り狂う雷の白刃が落ちる黒暗の下、男は歩く続けるのである。歩きながら眠ることの出来る脳細胞は半々に働き息み、思考し微睡んだ。歩きながら飲食し、歩きながら排泄し、歩きながら学問をし、着ているものはいつも変わらず黒い衣がひとつ。不思議に綻びることなく、どこにも傷を与えぬ衣だった。歩きながら本を読み、歩きながら歌を歌い、歩きながら詩を賦す男を、月と陽の下に見なかった者はこの里にいない。男は歩き男なのか。不休の体を持つ不死の魂なのか。
   いつも道のかたわらをえらんで歩き、人々はみな男に道を譲り、しかし、誰も男に道を聞きはしなかった。家はなく、妻もなく子もなく、女もいなかった。友もなく師もなく、この里の外へは一歩たりとも踏み出すことがなかった。
   親は何処にいたのだろう。母は男を追って泣いたか。父は男をとらえて諭したか。男は、誰の記憶も届かぬ昔話の中で生まれて子となり人となり、今や絶えず歩き続けている。男は、天地が出来てこの方経験した、全ての洪水と造山とを知っている風の歩き振りを已めようとしない。

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徒然草第八十五段

2008年09月24日 | 瓶詰の古本

   徒然草第八十五段には、「狂人のまねとて、大路を走らば、即ち狂人なり。悪人のまねとて人を殺さば、悪人なり。」という有名な言辞がある。この段の眼目は、その後に続く「偽りても賢を学ばむを賢というべし。」という言葉なのだが、下愚の記憶にはどうしても馴染み深い狂人の振舞いの方が残ってしまう。即座に思い当たるのが、酔余の為体、熱り立っての罵言など取り返しのつかないしくじりを飽きず重ねてしまう自らのこと。
   本然の自分がしでかしたことでない、酒の仕業か魔が差したことと言い聞かせてはみても、それを含めて本然の自分であることは、当人自身が一番良く知っている。まねごととか本音とかであろうとなかろうと、したこと、言ったことは全て当人のなかから出て来るしかないのであるからには、仮令それを以って奇人よ、狂人よと後指差されたとしても、身から出た錆は錆としてみんな呑み込んでやりたいものである。これから先、予想だにしない自分が立ち現われたときに、せめて狼狽苦悶しないために。

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澁澤龍彦の東西不思議物語

2008年09月23日 | 瓶詰の古本

   澁澤龍彦の「東西不思議物語」(河出文庫)を読んだ。一話一話は短いお話だが、背景には古今東西に亘る本の渉猟がある。あるいは、記憶に所蔵された膨大な古典本の蓄積がある。西欧、印度、中国はもとより、とりわけ本邦古来の文書随筆類から縦横に持ち出されてくる不思議物語のさり気ない紹介のスタイルは、さすがに贅沢の極みとでも言うべき手練の業である。
   仮に芥川龍之介であったなら、そこに披露されている怪異な物語のほんの一撮みをもって人生の全小説の容量を満たしてしまうであろう多岐多彩に及ぶ博捜振りを、それとして露ほども窺わせない上品さ、洗練さは、今更ながら澁澤家二、三代にして出来上がった地層の深みではないことを物語っている。

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買った本(2008.09.15~21)

2008年09月22日 | 瓶詰の古本

   「天才数学者たちが挑んだ最大の難問」(アミール・D・アクゼル 吉永良正訳 平成十五年)
   「観光コースでない東京」(轡田隆史・福井理文 平成十一年)
   「二銭銅貨」(江戸川乱歩 昭和六十二年)
   「ツァラトゥストラはこう言った 上・下」(ニーチェ 氷上英廣訳 昭和六十二年)
   「柳生旅日記」(昭和五十一年)

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モンテ・クリスト伯「待て、そして希望せよ」

2008年09月21日 | 瓶詰の古本

   昔、雑誌の古本特集だかで、A・デュマ作「モンテ・クリスト伯」を学級文庫の高垣眸「岩窟王」で読み慣わしているという文章を読んで、思わず深く頷いたことがある。もともとは大変謙遜した「モンテ・クリスト伯」賛の文章だったと思うが、確かに原作は長大な物語であり、潮文庫版全四巻を読みかけてみたものの、あっさり一巻目で座礁してしまった。しかし、面白さにかけては世上に評判の高い読み物のはずであり、一方、少年物でも面白さは十分堪能できるようだという便法に乗って、その筋の簡約版をと物色してみたら、何種類でも容易に手に入ることが分った。
   とりあえず、古本屋にいつも転がっている野村愛正「岩窟王」を選んで読んでみると、確かに読み易く、分り易く、しかも評判に違わぬ面白さで一気に読み通してしまった(当然だが)。娯楽小説の醍醐味と言うと大袈裟だが、吉川英治の「三国志」や江戸川乱歩の「孤島の鬼」、山田風太郎の「魔界転生」を読んだときに実感した、巻を措く能わずという小説の尊敬すべき親玉に出会ったような気がした。早く先が読みたいのと、読み終わってしまうのが惜しいのとの心をふたつながら抱えて小説を読み進む時間は、実に至福のものであり有難いものである。更なる満足のために、あらためて原作を読もうとは思うのだが、つい本棚にある「新講談岩窟王」という文庫本が目に付いてしまったので、まずはそれも読んでからにしよう。
  にしても、エドモン・ダンテスの言葉「待て、そして希望せよ」とは、またなんと勇気を与えてくれる言葉だろうか。

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巨大な魚の夢

2008年09月20日 | 瓶詰の古本

   かつて、巨大な魚の夢として人の記憶を括った詩人がいた。詩人の言葉は、詩そのものではなく、むしろ人の懐くある予感と怖れと呼ぶ方がふさわしい。詩人は、手に鉄鎚を握り込んで人を追いかけるのだろうか。だが、脳の中で追いかけ回しているのは、詩人自身か、もしくは詩人自身を指図し狂疾におもむかせた、姿を見せぬ夢の影であるに違いない。狂疾に陥った人間は、この世の取り結んだ埒を見ない。埒から踏み外れて異域の国語を喋り、異域の法に遵って行為する。
   そして、地上に何万年来くすぶり続け生き残って来た、とある想いに似た感性に行き会うことになる。花が語り、水が記し、空が落とした、真空を上回る直接来の感性が、狂気と狂気の拍の間から沁み込んで詩人の体を一気に透明な、他人の目からは透明な行動へと押し上げて行く。それは、波頭に乗っておよそ天涯にまで昇りつめるかと惑わせる舟の軽さに勝るものであり、人はもはや、驚嘆の沈黙を以ってことに対せざるを得ない。
   それもまた、巨大な魚の夢の一片だと詩人は呟く。

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かつて夏の日に

2008年09月19日 | 瓶詰の古本

   夏のある日のことだ。その日、工場の定期消防訓練があって、重いホースを抱えて走り回ったおれは、体の不調を口実に昼前に工場を退けた。南の国の強烈な陽の光がおれを串刺しにする。
   ずるずると道を引きずりながら、おれは立ち昇る陽炎の中を歩く。コークスの臭いにつつまれたこの町を歩きながら、おれは苦い唾液が次から次へと口の中に湧いて来るのをどうすることもできなかった。
   羽虫の舞う音が放射状に頭蓋の内側を撃ちつけ、頭上の太陽が消え失せてしまう。真っ暗闇の世界がおれの体を放り上げ、冷たい汗が猛烈に噴き上げて来る。世界が鳥肌を立てて顛倒して行く。きわめてゆっくりと。

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ラブクラフトのダンウィッチの怪物

2008年09月18日 | 瓶詰の古本

   言わずと知れたラブクラフトの傑作で、古びた魔法書物、とりわけ「ネクロノミコン」という本の登場にまずは参ってしまうのである。アブドラ=アルハズリットの著した本の十七世紀ラテン語訳と来ただけで、古本好きが一気に奔騰して物語そのものを神聖化してしまうのも無理はない。いやな因果であるが、解かっていて脱け出すことはできない。
   物語がまた、まさに宇宙外に開いた神話的結構をしているので、秘められた古書を根拠にして古い神と異次元世界の存在を予感させるという、精神に直接語りかけられる感覚からして、今まで経験したことのない高揚感すら生まれてしまう。何遍でも読み返し、そのたびに面白い物語というものは、その怪異な魅力ゆえに既に小説の域を踏み超えてしまうので、ラブクラフトという人間ひとりの想像力から生まれたわけがないという、作家としてある意味で正当な見立てなのだが、別の意味合いと示現を物語に添えられて新しい神話そのものとなってしまったようである。
   たまたま都筑道夫訳の少年少女物で読んだせいもあろうが、たしかに物語の筋立てに没頭し、古い本の根源的な秘力にうたれ、ダンウィッチの怪物に魅せられはしたものの、神話を倶に戴くまでの境地には至っていない。

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古書展の競合者は風俗系か

2008年09月17日 | 瓶詰の古本

   久し振りに古書会館の地下で開催される古書展の二日目を覘いてみた。まさに中高年の世界であり、男の世界であるが、今時の時流には断じて乗ることのできない、十年一日の世界である。棚に並んだ古本の顔触れも十年一日、会場の性格からして当然ながら古色蒼然として既視感の充溢した世界である。
   和書、洋書が程良く混淆し、常連の古本が数多加わって賑わいを添えているお蔭で、相変わらずの盛況であり、初日は更なる雑踏振りだったに違いない。こうして会場まで足を運ぶ好書家のいる限り、古書展の将来も一見安泰に見えるが、若々しい学生世代の客の姿をほとんど見かけなかったところからすると、いずれは前期・後期高齢者の年金頼みという時代が到来するかも知れない。しかして、現に風俗系の市場に膨大な年金資金が流れ込み始めているという風説もあるとかで、年金という資源を巡って、老人の古本熱を生理的な享楽慾レベルで繋ぎ留めておけるか否か、古本なるものの真の実力が問われる未来はそこまで来ている。

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石川啄木の日記

2008年09月16日 | 瓶詰の古本

   啄木の日記には、泣きたいと、真に泣きたいと記されている。自分のために泣きたいのだろう。実際にまた、啄木は幸せではなかったのだから、泣くのは当たり前だったろう。泣いたから書けぬというものではない。泣いたから書けるというものではない。
   知力、認識力、感応力いずれも人に勝れ、誇り高くあり過ぎ、人と実業とにはそりが合わず、女を求めて止まず、どこまでも狭量であり、わがままを突き詰め、しかも泣こうとして泣き、死のうとして死なず、ごく若いうちに病没してしまった啄木とは、時代を刺すために存在を享けた刃そのものであるのか。客体として黙殺される度合いに応じて、時代が混迷して行くことを指し示す度盛りそのものであるのか。
   記憶違いかもしれないが、漱石も啄木の葬儀に参列していたような。

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