「昼間はどうも。」
「まあ、ちょっと、せっかくだから掛けなさいよ。」と帳場をあごで指した。
帳場の縁に腰を下ろすと、軽い疲労が体に広がり、むしろそれが快かった。
「闇の木橋渡り、見に行って来たんだね。どうだった。まことに地味な、映えないもんだ。」
「ええ。ただ、見ているうち、ぼーとして来て。自分が体の中から脱け出して、ともかく拡散するんだか混淆するんだかするうちに終わってしまったみたいですね。」
「周りを取り囲んでいる暗がりやなにやらが、自分と別々の場所を占めてお互いを隔てるような、そんな存在ではないんじゃないかってことを感じる訳だ。」
「どこかで聞いたような文句だな。」
須川は、からかい気味に古仙洞の後から言葉を被せた。
「あれ、そうかい。いや、そうかも。しかし、いずれにしても、気分としてはそういうことかな。」
「そんなもんかね。」
古仙洞は、帳場に上がると障子を開けて、いったん奥へ引っ込むと、すぐに急須と茶碗を盆にのせて戻って来た。そして、畳の上に盆を置くと、胡座をかいて坐り込んだ。須川は手に一冊本を持ち、頁に視線を落としたまま、相変わらず場所を移さずに立っていた。
ごく当たり前のように、ぼくはさっき来た道を戻り始めた。緩やかな上りにかかる大通りに出ると、両側に連なる商店街の店々は既に鎧戸を降ろし、煌々と輝くアーケードの照明だけが人通りの絶えた歩道に溢れていた。一人で歩いてはいるが、なんだか目に見えない袋、重さのまったくない袋を担いで歩いているような気がする。その袋の中に、今見ていたばかりの河原の光景がそのまま詰まっている。今も、袋の中で子供は木橋の上を行ったり来たりしている。小さな影が大きな影に寄り添う靜かな塊が、点々と堤のそこらここらに佇んで、子供の行き来を遠く近くから見降ろしている。
しばらく歩いて行くと、一軒だけ、まだ店を開けているのが見える。店先の均一台は中に片付けているようだが、夜の通りにぽつんと、古仙洞は商いを続けていた。
引き込まれるようにして、ぼくは店に入った。
「こんばんは。」
「おう、いらっしゃい。」
本棚の前に突っ立って、古仙洞は何やら探し物をしているようだった。そして、古仙洞の向こう側に須川が立っていた。古仙洞の肩越しにこちらへ顔を向けると、一瞬笑ってみせた。ぼくは会釈を返した。
木橋の上を行き違うのか折り返すのか、いくつもいくつもの影が闇に没してはまた現れしていると、明かりの陰に闇という姿をした何物かがいると思えて来る。人の生まれついた魂はそのままでいながら、闇という別にある何かひとつの塊へと入り交じり、また離れようとしているのだと思えて来る。
見物している人達からは、少しの囁きも洩れて来ない。河原の方からは、合図の掛声のほか聞こえて来る声は一切ない。かがり火の明かりの中に、かろうじて見える木橋の上での子供の入れ替わりは、音を忌むかのように進んで行く。世の中から音を奪うことによって、すべての思惑の外側に人を誘い込むかのように進んで行く。知らなければならないことはまったく存在しない。時を漂うだけの世界であり、この自分というものは溶け去ってしまうことのできる世界。
一体どれだけの間そこに立ち続けていたのか分からない。河原から明りがすべて消えた。堤の上に佇んでいた男や女、大人や子供の影もいつの間にか消えていた。闇の木橋渡りは終わったようだ。