美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

凡庸のありがたみ

2014年10月30日 | 瓶詰の古本

   凡庸というものは、凡庸な考えをすることすらできない。ただ、凡庸な行為に耽ることしかできないものだ。いわば、条件反射の連続的な発起によって動いているものである。脳髄内部における究極の規制緩和であり、節電対策であると言えるかもしれない。断続的に文字を書き連ねて行くという作業が生み出す思考停止の極所と相通じるものがあると言えるかもしれない。
   あるいは、土中から二、三の小破片を得ているに過ぎないのに天地を呑む大壺を得たと錯誤する、何にでも満悦したがる自己過信の幸せな精神。

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月天心(蕪村他)

2014年10月28日 | 瓶詰の古本

月天心貧しき町を通りけり
                            蕪村

存在のあるところにはまた認識がなければならぬ。
                ノワ゛ーリス(小牧健夫訳) 

人間は精神を以て生命の原素とするものなり
                                          北村透谷

我々は他(ひと)の為に生きてゐるのではない、我々自身の為に生きてゐるのだ。
                                                                                       石川啄木

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均一台雑魚漁り

2014年10月26日 | 瓶詰の古本

   「回想録」(コーデル・ハル 朝日新聞社訳 昭和24年)
   「國史文献解説」(遠藤元男 下村冨士男編 昭和32年)
   「暗い暦」(澤地久枝 昭和51年)
  「墓標なき八万の死者」(角田房子 昭和51年)
  「人間緒方竹虎」(高宮太平 昭和54年) 
   「東条英機暗殺計画」(森川哲郎 昭和57年) 
  「もうひとつの太平洋戦争」(並河亮 昭和59年)
   「戦争と人間 4、5」(五味川純平 昭和60年)
   「アジア史概説」(宮崎市定 平成2年)
   「支那革命外史 抄」(北一輝 平成13年)
   「外交官E・H・ノーマン」(中野利子 平成13年)
   「古代文明の謎はどこまで解けたか Ⅲ」(ピーター・ジェイムズ ニック・ソープ 福岡洋一訳 平成16年)
   「昭和史 戦後篇」(半藤一利 平成22年)

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齋藤緑雨氏の思い出(師岡千代子)

2014年10月23日 | 瓶詰の古本

   緑雨氏は時間を無視した長尻の人であつたが、何んなに多忙な時でも、秋水はそれを不愉快がりはしなかつた。そしてその長い対談に、唯だの一度として退屈した容子さへもなかつた。秋水には人の知らない奇妙な癖があつて、来客が不快な時や話しに退屈した時には、紙縒で犬を造つて机の上に竝べるのであつた。で、その犬の有無や数に拠つて、大体秋水の気持ちや客の性質を知ることが出来たが、人に依つては、一度に五六匹の犬を見受けることがあつた。しかし緑雨氏の場合には、何時の日も一匹の犬も見受けなかつたばかりではなく、何時も帰りには、秋水の方から送つて行くほどであつた。そしてそのまゝ送り狼になつて了ふことさへあつた。
   少し女らしくない話しであるが、これも返らぬ日の思ひ出の一つであるから、遠慮なく述べることにしよう。或る日、昼過ぎから夜更けまで話し込んで居られた緑雨氏を、何時ものやうに送つて行かうとする秋水が、門前で不作法にも用達しを始め出した。すると緑雨氏は、門まで見送つて出た私に向つて、突然『奥さん』と声を掛けられてから、『傳さんが小便するや秋の月』と一句を吐かれた。そして自分から珍らしくも大声で笑ひ出されたが、秋水もまたそれに乗じて朗かに笑つてゐた。やがて『お寝みなさい』と云はれたかと思ふと、秋水と共にすたすたと立ち去つて行かれた。私は門前に佇んだ儘、月光の中に消えて行く二人の姿を見送つたが、それは忘れもしない名月の夜のことであつた。因みに緑雨氏が『傳さん』と云はれたのは、秋水の名が傳次郎であつたからである。

(「風々雨々」 師岡千代子)

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裏腹な故に、より美しい言葉

2014年10月21日 | 瓶詰の古本

   そんなことは露思っていないのに、微笑ましいこと、潔いことを好んで口にする人は、世人から微笑ましい人、潔い人と見られたい人物である。微笑ましいことを語る人は微笑ましい心根の人であり、潔いことを称える人は潔い振舞いしかしない人かといえば、勿論、そんな訳はないのであって、言葉はまず人の心から自然に湧いて出ると世人は思うものだと察しているから、こうした見え透いた言動に溺れてしまうのである。人前で子供や小動物に笑顔を振りまいて見せる行為と何ら隔たるところがなく、時に錯覚に陥って自家中毒気味に自分のお人好し像に酔ったりもするのだが、同好・同志の懐へ還ればたちまち酔いは醒め素顔に戻るのである。
   心底でとぐろを巻いている本音、本心は元々抑えることができないものであり、だから一層、筆舌巧みに麗しく響かせた情調とことごとく背馳した道義に全霊を捧げ、不壊なる信念の砦を秘かに築いていく。温かく潤いある文章で飾られた覆いの向こう側には、世人の心を打った真率とは裏腹な深謀の城塞が聳えている。
   強く胸に銘じて実現を企図する思いがありながら、目論見や場面に応じて、それと全く逆しまな倫理をあたかも真情の表白の如く諄々言葉に並べ立てることのできる目覚ましい才智の人物がいるもので、それは遥か古代から掃いて捨てるほど簇生して来たとは、孔子の説くところを繙けば自ずから明らかである。

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書物のために妻の生命を売る(ギッシング)

2014年10月19日 | 瓶詰の古本

「家内は、どんなにこれ迄私のためにつくしてくれたでせう。私のところへ来た時には、私は二十歳とし上の破産者であつたのです。それから私はあれを散々働かせ苦労ばかりさせたのです。何もかもお話ししますが、何年といふ長の年月、私はあれが働いて儲けた金で暮して来たのです。まだそればかりか、私は書物を買ふために、あれを飢えさせ苦しい思ひをさせたのです。何といふ浅ましさ、何といふ非道のしわざでせう。この本を買ふのが私の悪癖なので、酒や博奕のやうに、私は全くその奴隷になつてしまつたのです。どうしても私はこの誘惑に抵抗することは出来ませんでした―― 毎日、これではならぬ、どうしてもこれに打ち勝たうと心に誓ひながら。あれは少しも私をとがめませんでした―― 小言一つ、いゝえ、いやな顔一つした事はありません。私は何もせずに遊んでゐました。あれが毎日店で働いてゐるのを知らぬ顔ですましてゐました。御存知でないかも知れませぬが、あれは店に勤めてゐましたので―― 思つても見て下さい、あれだけの学問と品格とをもつてゐながらそんな生活をつゞけてゐたのです。だのに、私は、買つた本を手にもつて、其店の前を通つて帰つて来たことがなん度あつたでせう、私はそこを通つて、あれがそこに働いてゐるのだと思つても平気でゐられたのです、噫!」

(「蠧魚」 ギツシング 浜林生之助訳註)

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心霊(学)の時代

2014年10月16日 | 瓶詰の古本

   漏れなく列挙することは誰にも不可能と分かり切っているので、たまたま目に触れる範囲で書名を挙げてみれば、「心霊の現象」(平井金三 明治42年)、「死後の生活」(フェヒネル 平田元吉訳 明治43年)、「心霊の秘密」(平田元吉 明治45年)、「心霊学講話」(デゼルチス 高橋五郎訳 大正4年)、「心霊の現象」(福来友吉 大正5年)、「死後の生存」(オリバア・ロッヂ 高橋五郎訳 大正6年)、「現在及将来の心霊研究」(日本心靈學會編纂 大正7年)、「幽明の霊的交通」(高橋五郎 大正10年)、「心霊の正体と死後の世界」(池之坊俊海 大正11年)、「心霊現象と心理学」(テオドル・フルールノイ 野尻抱影訳 大正11年)、「精神統一の心理」(福来友吉 大正15年)、「心靈不滅」(岡田建文 昭和5年)、「現代心霊学の研究」(カーリントン博士 關昌祐訳著 昭和8年)などなど。
   これらはほんのひとつまみの例示に過ぎないが、明治から昭和にかけ、おびただしい数の心霊(学)関係の書物が出版されたのには、それまで余り類のない海を越えた他国との戦役や夥多な戦没者の現実も僅かにあずかっていたのかも知れない。既成・新生の宗教の手に掬われることなく、宛も客観的な物理科学によって立証されたと流布される霊魂の不滅説、死者となった伴侶や愛息から冥界通信が訪れるという西欧の名だたる博士達の学説に、人々は何を感受し、何を見たいと願ったのだろうか。
   念写、念動、予知、霊告といった超能力に数多の人が魅せられ、貧富貴賎を問わず心霊の声を聞き取ろうと耳を澄ます家々がかつてあったとすれば、不死という観念に親しみ、心霊の不滅に心惹かれずにはおれない情念は今なお伏在して底流をなし、いつか時を得て時代精神のうねりの頂きに現われることがあっても一向に不思議ではない。

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蘇民将来の御守(小山眞夫)

2014年10月14日 | 瓶詰の古本

   神代の昔北海にましました牛頭天王武塔天神の庭の梅の木に山鳩がとまつて頻に囀つてゐるので、天王が静に出てきくと
   「南海の釈迦羅龍宮の姫君は御容いつくしくして三十二相八十種好を具足せられ給ひ、牛頭天王の后に定つている。」
と聞きとれた。そこで天王は奇異の思をおこし長本元年丙刀正月十三日、恋の路にあこがれ南海の方に出かけられた。
   途中日が暮れたから未申の刻に巨旦将来といふ人の家にたちよつて宿を求めた。
   「とめてやれぬ。」
   「それでは室だけでもよいから貸してくれ。」
すると巨旦は其族類を集めて追ひたてた。天王は困つて巨旦の下女に庇つてもらつて一夜をあかさうとした、下女は
   「お安きことではあるが主が憐なきものであるからお気の毒ながら此処より東方一里の地にてかりて下され。」
といはれるまゝに行つてみると松の木が四十二本あつた。其一株の木陰にたちよつて宿を求めると、女が出て
   「我を是人間ものと御覧ずるか、雨風を衣とし松の木を体として過ぐるものである。此処より東一里の地に志ある人があるから、そこでかりなされ。」
といふから、其通り行つてみると蘇民将来といふ人の家についた。そこで宿を求めた、
   「我は是人間の顔となつてはをれど貧賤無極で一夜の宿飯になり申すべき物もなく、御座となし申すべき処もない。」
と答へたが、天王かさねて頼み一夜をあかした。粟飯をあげ粟柄を座とした。明る日、
   「何処に行かれ給ふか。」
   「我は釈迦羅龍宮の姫君婆梨采女と申す人を恋慕ひて南海の方をさして行く者である。我昨巨旦といふ者に宿をたのんだのに、棟数は百もあり富栄えてゐるにも似ず、憐みのなき者帰らばみせしめしやうか。」
   「巨旦の娶は自が娘であるから、若巨旦を罰し給ふとも我らが娘をば除き下され。」
   「それは安きことぞ、柳の札を作つて蘇民将来之子孫也と書いて男は左、女は右に懸けよ、それを標にしやう。」
というて天王は出かけられた。
   かくて天王は南海につき姫君を迎へて十二年御一所にゐられ八人の王子をおあげなされた。其族類眷属は合せて九万八千人といふことだ。やがて天王がお帰りなされることになつたと聞いて、巨旦は屋敷の四方に鉄の築地をつき、天には鉄の網をはつて要害堅固にした。蘇民は家を建てかへて黄金の宮殿を造つてお待ちうけをした。天王は蘇民の家を見て驚いた、
   「こはいかなることぞ。」
   「過ぐる年天王をお送り申してから七珍満宝が天より降り地より沸き家の内外に充ち満ちた、今度お帰ときいて君を三日とめ奉らんがために造つたのである。」
と聞いて天王は三日ご逗留なされた。それより巨旦の家にいき九万八千の眷属をもつて七日七夜かゝつて悉く亡してしまつた。(牛頭天王之祭文)

蘇民将来の御守は信濃國分寺の大縁日なる一月八日に同寺並に國分の旧家にて作つたのを護摩供の祈祷して頒つ。作る数は寺は制限がない、旧家は一戸につき大十箇、中十五箇、並百箇、罌粟十箇、合計百三十五箇である。柳の木にて作り大小何も木髄を中心に保たせた六角柱で、頭を角錐とし頸と腰とを僅に切り窪めたもので、胴の周には大福長者蘇民将来子孫人也の十二字を一面に二字づゝ分書してある。之をうけた人は神棚に飾り、戸間口に吊し、幼児の腰に着けなどして除厄の護符とする。

牛頭天王之祭文は信濃國分寺所蔵のもので文明十二年霜月二十八日書写のものである。備前風土記所蔵と異る伝へが面白い。

(「小縣郡民譚集」 小山眞夫)

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牛乳屋の一家

2014年10月12日 | 瓶詰の古本

   昔、隣の棟を借家して仲卸の牛乳屋を営む夫婦がいた。夫婦ともども真面目で働き者だった。朝早くから晩方まで牛乳瓶の詰まったケースを上げ下ろししては市内各所の小売店へ納めていた。夏は汗みずくになり、冬は真っ白い息を吐き、気の好い亭主と機転の利く女房という絵柄が暮らしの歳月によくはまっていた。
   夫婦には娘が二人あって、妹の方が多指症というのか、片足の指が6本あったので、良い病院を探して、いつか手術をしてもらうのだ、そのためにも一生懸命稼がなければいけないと女房は話していた。娘たちのことは、もっぱら同居するお祖母さんが面倒をみていた。
   ある夏、いつものように半ば腹の上に重いケースを載せて運んでいた亭主が腸捻転になり病院へ担ぎ込まれた。運悪く手遅れになってしまったのか、苦しみながらその日のうちに死んでしまった。その後しばらく、女房は女手ひとつで牛乳屋を続けていたが、いつの頃からか知らない男が通って来るようで、夜分になると隣から酒を飲みながらの話し声や嬌声が時々聞えて来ることがあった。別に男の方が牛乳屋を働いている風はなく、女房が汗を流している姿しか見かけることはなかった。
   亭主が亡くなってから一年が経った頃、隣の一家はどこかへ引っ越して行った。牛乳瓶を受け入れて保蔵するためにわざわざ工事を施して備え付けた大きな冷蔵庫は取り除けられ、それを支えるために打設したコンクリートの土間はガランとして残された空間を音もなく冷やしていた。足の指の手術を受けないまま、娘もいなくなってしまった。

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書物による拷問(秦彦三郎)

2014年10月09日 | 瓶詰の古本

   実に監獄内では食うことと、本を読むこと以外には何らの楽しみも望みもない。特に読書は時間を潰すためなくてはならぬもので、一般に起床から就寝までただただ読書に時間を費すのである。独房にいる時には特にそうである。レホルトスカヤ監獄にいた時に、時々書籍の整理などで一週間も書籍を取上げられることがあったが、その時の時間の長さ、退屈さは誠にひどいものであった。経験のない者にとってはそれはほとんど想像外であろう。そういう時に一番よい方法の一つはアイウエオ順に五十音の順列組合せで色々の人の名前を思い出すことである。こんなことでもしていないと全く気が狂ってしまいそうになる。
   書籍はまた合法的な拷問として取調べに利用される。すなわち調査官の訊問に対し色よい返事をしない場合は、一週間、十日と書籍を取上げ無聊で身の置きどころに苦しませるのである。
   数人いる監房では全部書籍を取上るわけにはいかないから、そうゆう場合には他の方法で困らす。元来眼鏡は、そのガラスを利用して故意に身体をきそんするものがあるので、夜間は全部取上げるようになっているが、合法的な拷問をやる場合には、昼間でも眼鏡を取上げて読書の出来ないようにする。こんな何でもないようなことが、監獄内では堪えきれない苦痛になるのである。

(「苦難に堪えて」 秦彦三郎)

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より大きな果実のために

2014年10月07日 | 瓶詰の古本

   小説でさえ或る教義を隠しつつその浸透を図るために書かれ得るとすれば、つまりは小説は何を書いてもよいということになるのだろうか。人の心に訴えることができる、できないは、ひとえに小説家生来の才能の有る無しに帰結することであり、頭でたくらんで用いられる文飾、情調の効果は、魂を刺し貫く本然の言葉のずっと後方に控える枝葉の一つ、二つに過ぎない。
   何らかの主義、主張を世に具現するための助けとなる小説、思想・党派の光被を真の目的とする小説は繰り返し生れて来もし、廃れて行きもした。そして、含まれた意図の表出に濃淡の差はあれ、尊い善導の言いぐさや琴線を震わす美譚を散りばめた小説もまた、いわゆる小説の一類型として成り立つとするのであれば、小説家という存在は、多彩な才能を元本にして、より有利な利回り、役回りをもたらすような話材、テーマを逸早く見つけ出し、そこへ全元本(才能)を叩き込んで極大の果実を獲得する投資家、起業家であるとするのは極めて適正な認識ということになる。
   仮にこうした小説家がありとして、苦悩がどうの、含羞がどうのとあげつらってみたところで、鎧袖一触、実践練磨の返り討ちに会うこと必定である。ものを書く絶倫に恵まれ、人に優る大粒な感涙の惹起に長けた小説家、娯楽としてのみならず、生き方の道標、泣き方の作法、死に方の美学を語って、万人に耳傾けさせる算段を縦横無礙に使いこなす小説家にむかっては、既往ありきたりな狼疾の小説家像を引合いに出したり、あるいは早熟、夭折といった月並みを列挙したりしたところで、憫笑されるか黙殺されるのが関の山である。最初からそれが分かっているからこそ、かりそめにもそんなことをする者は誰もいない。ただ、呆然として、世に持て囃される天分だか気性だかの塊を遠巻きに眺めるしかほかに手はないのだ。

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朝に道を聞いて(辰野隆)

2014年10月05日 | 瓶詰の古本

   随筆集『竹頭』の巻尾を飾る一巻章義と題する一文に於て、幸田露伴先生は甚だしい曲解の一例として「民可使由之不可使知之」を挙げて、是正されてゐる。この語は俗説に拠れば「政治の秘訣は民をして知らしめず、唯頼らしむるに在り」との義と解せられてゐる。それでは宛然マキャベリストか刑名法術の徒の政治論で、聖賢の示教とは全く背馳することとならう。而も、日本の為政者は―― 官僚政治家たると政党政治家たるとを問はず―― 常に悉く、俗解に従つて行動してゐるやうに思はれる。それ故に僕は特にさういふ輩に『竹頭』中の一巻章義を読ませたいと思ふ。
   一巻章義に従へば、問題の語は、「凡そ聖人の教は一々個人に説いて喩らせようとしても、それは到底不可能事であるから、民衆をして出来得る限り平易にして実行可能な道に就かしめなければならぬ」といふ意なのである。
   漢学の専門家や、その素養のある人士は恐らくこの泰伯篇の語を正解してゐるであらうが、世には俗説に従つてゐる一知半解の徒の方が寧ろ衆いのではなからうか。斯く云ふ自分も亦俗解派の一人で、日頃女房や子供達を御するに、この語を黔首を愚にするマキャベリ式に解釈して悪用してゐたらしい。
   今、一巻章義を敬読して、朝に道を聞いた怡悦を感じ、極めて爽かな心地になつた。夕に死ぬる覚悟のほどは未だ覚つかないが、少くも、生きてゐる間は今後も多種多様な道を聞いて、然る後に徐ろに死ぬ肚を極めようと思ふ。     (昭和十五年春)

(「印象と追憶」 辰野隆)

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古本のえくぼの再発見

2014年10月02日 | 瓶詰の古本

   その時々の関心にひかれて古本を買うばかりなので、通り過ぎて来た古本、横目で見逃して来た古本が、かすれた記憶に残像としてどっさり溜まってしまうのは致し方ないことだ。もっと早くにこのジャンルに足を踏み入れて本を買い集めていたら、もっと豊穣な書目が揃えられたのにと、後になって思わないではない。しかし、その都度見過ごして来た本とはいえ、所詮は均一台を漁っているなかで、一再ならずすれ違っているはずの古本であり、時に触発され揺り動かされた興味、関心の向かう方角へ思い立つままに網を投げていれば、いつかひっかかるべくしてひっかかって来るものと思うしかない。
   高嶺に咲いた一期一会の稀覯本とは異なり、均一台に降りしきるものといったら、いつもそこいら界隈に遊弋し、入りびたり、たむろしている古本の面々であって、本と出会うということは突きつめれば、旧知のえくぼの再発見ということに尽きるのではなかろうか。縁といい、妄執といい、通り一遍の出会いは幾度となくこの身に訪れていたもので、心が偶々そちらを向いた機をとらえて、逸した縁を取り戻しているようなものだ。赤い木の実を拾い集めて道を歩いて来たその足で、黝い実を拾いながら今来た道をまた辿りして、永劫それを繰り返しているようなものだ。

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