他は知らず、私の思惟的推論を司る理性はどうとりとめても、時に鬼面人を驚かす態で超越的なる翼の羽搏きはするものの、理性の墻を跳び越せるものではないのです。形非実理なパラドックスの粒を夥多に含んだ砂層の上へ足を運ぶ私は、危なっかしく躓きかかる理性の身振りに晦まされず、捨て鉢まで一歩手前の瀬戸際の道でいいから、自心の種火を護り書物と通底して行けるところまで行ってみたいのです。自ら理性へ放った過度の毀謗に苛まれ、なけなしの屁理屈をかき集めて万能の理性へ回帰する動揺も間々あり、理性は神託を預かり下知する無謬の神官だとばかり、為にするあやかしの偶像へひれ伏すなどして、さぞ拭い去れない醜状を知己の目に残したことでしょう。
頑迷な私の理性は概して経験を丸呑みに信用したり、神聖視したりしたがらない。ですので、内に留まる経験が理性に跪拝しなければならない義理はないし、負い目もない。経験はその名の下で過去に括られ理性の臭いを遮断した瞬間から、確実に起こったこと、実在に諍論の余地ないこととなります。愚察するに、現世界において私を見舞う悲惨な出来事があった場合、その繰り返しの惹起を止めることはできません。現実の悲惨事を個的な歴史に還元して、原因結果を正しく伝承し未来を鎮魂する理性が現世界に浸透していると私が料簡するのは烏滸の沙汰です。現世界の不確かさの中で、諸経験の根基が自心の実感であることを差し置いての理性の驕慢なんです。
そんなわけで律儀者は万人から敵視されている。ところで律儀者って何だね?パリでは律儀者といえば、口出しもせず、分け前にあずかることも拒む人間のことさ。どこで働いたってその労力の報いられたためしのない哀れな国家奴隷のことを、なにもわしは話しているんじゃないぜ。あんな連中は神様にも見放された間抜け職人衆さあ。たしかに彼等のところには美徳が、その愚鈍の花をいっぱいに咲きひろげている。が、そこにはまた貧乏神も住みついているんだ。もしも神様が最後の審判にご欠席あそばすような悪ふざけをなされたら、これら実直な連中どんなにしぶい顔をするか、今からまるで目に見えるようだぜ。
だからもしきみが一足跳びに出世したいと望むんなら、すでに金があるか、でなくば、あるように見せかけなくちゃならん。金持ちになるためには、大芝居をうつことが先決だ。それが出来なければ、ちびちび賭けして、はては元も子もすってしまって、頓首拝辞だ!きみにたずさわれる百もの職業のうち、一躍のしあがった十人の成功者が出たにしろ、世間ではそれを泥棒呼ばわりするだろうて。さあて、きみも結論を出したがいい。わしの述べたのがありのままの人生ていうもんだ。決して調理場以上に奇麗なところじゃない。やはり同じように臭気ふんぷんたりだ。うまい汁を吸いたけれりゃ、手を汚すのを覚悟せにゃならん。だがその手をよく洗っておくことだけは忘れちゃいかんぜ。そのことが即ち現代のモラルそのものなんだからな。こんなふうに社会のことをきみに語るのも、わしにはその権利が社会から与えられてるからなんだよ。わしは社会をよく知っとる。社会をわしが非難してると思うかね?とんでもないよ。社会はいつの世だって、こんなものだったんだ。道学者が改良しようったって、決してできるもんじゃない。人間というやつは不完全きわまるものなんだ。時として多少は偽善者になる。すると阿呆が道徳観念がいいとか悪いとかいって騒ぎだす。わしは民衆の肩を持って、金持ちを責めるつもりなどはない。人間なんて上流でも下流でも中流でも、みんな同じだからね。
(「ゴリオ爺さん」 バルザック 小西茂也訳)
どんなに素晴らしい辞書であっても、それ一冊で事足りることはない。森羅万象を掬い尽くす書物は夢の中にのみ存在する幻像であり、紙の辞書は現世にある限り、時に応じて使い分けする道具であると心得なければならない。辞書が道具であるとは、辞書を引かずして文章は書かれないし、辞書があれば文章が自ずから出来上がるものでないことから明らかである。何事によらず、一つで全てをまかなう道具はない。作業の要所要所で、それぞれにふさわしい道具を博捜して使うのが正道であり、優れた道具(辞書)を齎した先人の苦闘に対する礼儀である(と叶わぬまでも心掛けたい)。
ただし、書物そのものを愛するの情が強すぎて、聖なる象徴としてただ一冊の辞書を使い続けている人に、居丈高に嘴を挟むことは厳に慎むべきである。何気なく他人の書物を軽んじたがために、持主から怨念を放たれ祟られして非業の最期を遂げた者は数知れない。
なお、古本病者にとっての辞書は、古本は読むために購うものではないという公理の至高の権化であるから、如何な稀覯本も押しのけ最優先で無闇矢鱈と増殖して行くのは自然の摂理なのである。したがって、上記ただ一冊の所有者への斟酌は、万巻の辞書保有者と対面するときにも(あるいはより一層深く)胸に刻みつけておかなければ、大惨事は避けられない。
黒い本へ射られる不信の諦視は、反転して私の胸元へ迫劫する。影絵のように水鶏氏の耳目を横切った二つの自心は虚夢を催す偽書物の陰芝居であると囃し立てる私は、黒い本に仮託した異事神変の力は脳髄が苦し紛れに吐く蜃気楼であると、無慈悲に罵られる代償を負うことで、水鶏氏と書物にとって公正な秤となるべく戒心しているのである。水鶏氏との会話が気まずく流れないのは、主には水鶏氏の純真があるのに添えて、いくら腹の底に不穏のとぐろが巻いていても、秤が釣り合う大事さを私が忘れないでいるからと自惚れてみたくなる。水鶏氏の意思力はあげて書物と自心とに傾注されており、他者の心を騒がす大小の惑乱に関心を持たないので、威圧、威風を感じることは小指の先ほどもない。強いて感じ取ることを欲しても、小丘を這う軽風の連想すら須臾に架空へ溶けて消える。
「私の採用する論拠は、私の浅知恵から脱却し得るものではありません。足元にある背理の踏み台をこう見降ろして、やけくそに跳びはねないでは何ごとも語れないのでしょうが、とにかく、一廉の定義を省いた経験とは、都合良く使い回しするにうってつけの言葉であって、使い方次第で、鷹揚な見栄えのする高級概念になるし、極めて感傷的、恣意的な追懐にもなります。こんな便宜な言葉に箍をはめて、好んで窮屈な自縄自縛に身を投じる愚はありません。理性はしょっちゅう片意地を張るので、これと付き合うのは、ほどほどにしておかなければなりません。
伯爵様、愛というものは自信だけで生きているものでございます。女が一言いおうとしたり、馬に乗ろうとしたりする前に、あの天使のようなアンリエットなら、もっと上手にいいはしなかったろうかとか、アラベルのような乗り手なら、もっと優雅に乗り回しはしないだろうかなどと考え出すことにでもなったら、その女はきっともう足も舌も震え出してしまうに違いありません。魂を酔わせるようなあなたの花束の幾つかを、あたくしもいただけたらと思いましたが、しかしもう二度と花束をつくらぬと、あなたは高言あそばしておるのでしたわね、そういった風に、あなたが二度とする気のなさらないことが沢山にあり、あなたに二度とよみがえることのない思いや喜びが、無数におありになるのでございますわ。ですからどんな女にしても、あなたが心に抱きつづけていらっしゃる亡き方と、あなたのお心のなかで角つきあいしたいなどと思うものは、一人もおらないことを、とくとご承知おきなすって下さいまし。あなたは、キリスト教的慈悲の念から、愛してくれとあたくしに懇願なさいましたわね。あたくし正直に申し上げますが、慈悲の気持ちから無数のこと、いえばなんでもあたくしは、しようと思えば出来ましょうが、ただ一つ、恋愛だけは、そうは参りませんですの。
(「谷間の百合」 バルザック 小西茂也訳)
お為ごかしに弱音を挟むとなじられても、身から出た錆だからみっともない逃げ口上はすまい。偽書物にそそのかされているか、はぐらかされているか、そのいずれでもないのか。私はいよいよ心が昏んで来て、幽暗に惑うのである。藪をつついて出るのは偽書物の地顔だと読んだら、つついた当人の厚かましい面皮だった。吃驚して狼狽する以前に、頭の天辺から足の爪先まで赫焉と赤く燃える痛みに苛まれるとは。
黒い本は選り抜きの書物好きを狙って邪計の花粉を振り撒く妖花であると、おさおさ怠りなく身構えていたのに、水鶏氏の感懐を充塞した自心のすり替わりを、淳良無垢な書眼を晦ます幻燈の神速な早業で片付けていいものか、段々疑わしくなって来る。黒い本に刻まれた文字らしき形影の一筋縄で行かない複雑怪奇を匂わす私の当て言に擦られて、水鶏氏は刻苦蒐集した蔵書の潜力に頼んで、書物の自心を穿鑿して終息を待たないと低声に表明した。相向かう私は、自心の実感に取って代わる諸経験の実在の根基を発明し得ずに手を拱いているおもむきで、一つなのか二つなのかはさて措いて、水鶏氏の自心と同位にあるとされる書物の自心を予料する地歩に立っていることになる。偽書物への存念は夢寐にも忘れないが、余人の固めた地歩に歓心を購って割り込んだ報いで、私を縦に貫いて正気を繋ぎとめる非力な地軸は、逆上寸前のおぼつかない足取りでズタズタとたたらを踏み、よろぼい回っている。
去年の春、大学の予科に進学した長男が、この一年の程に伸支度を整へ、急に社会人になつてゆくさま、文部大臣以前の安倍能成の哲学やベートーベエンのピアノ・コンツエルト第五番を課外に怡しみ、さうかと思ふと常日頃身体のあまり強くない母親のために早春の庭先で薪割の手助けをしながら、いつか一つの批判精神を具へるやうになつた面目を、よそめ乍らこのごろの私は心愉しく眺めてゐる。
この長男がある日、鷗外の「椋鳥通信」の一節を笑ひ乍ら私に示すのだつた。
「詩人の治財に拙いことは、古今に通じて同じであるが、稀にはビクトル・ユーゴーのやうに大きい財産を残して死んだものもある。併し大抵貧乏で死んでゐる。」云々
私は長男のこの諧謔を受取つて「本当だよ」と笑つたことであつた。
惟ふに陋巷に窮死するのが詩人の避け難い運命だといふことは、悪性インフレーシヨンの波に溺れ乍ら猶且つ宇宙自然の物象の中から美しいメタホオルの果物をもぎとるアルカイツクな風習を忘れないことと同じ義理だといふ風に解釈して、私は詩人としての自分の定数を嘉したいと思ふのである。
「すべての偉大なる詩人達は自然に結局は批評家になる」とボオドレエルは云つてゐる。
けふ私達が煉瓦積人足のやうに営々として築き上げてゐる思惟の砦、言葉の城は、歳月の触に遭うていつかは茫々たる廃墟と化し去るに相違ない。併しひとかけの煉瓦だに猶遺されるならば、データとしてそれは時代精神乃至は社会風俗の解明の鍵として役立つことを信じ度い。そして太陽と漆喰の間を懸命に探ねて廻る奇特な死語発掘人の影を私は深く信ずるものである。
カーペンターの交響曲「摩天楼」の壮大な展開に応接して卒然株式店の罫線研究屋を想起したり、冬田の水明りの果に骨だらけの変電所のある風景から三岸好太郎の「オーケストラ」の秀抜な構成を連想する頭脳が、現世にあつてどのやうな価値を持ちどのやうな効果を齎すものであるか、これらは極めて少数の許された賦性にして初めて窺ひ知ることの出来る別天地である。
詩は当来左様に存在し、詩人は斯く存在するところに位置してゐる。
(「櫻の實」 安西冬衛)
陳套な楽器の喩えを引いて面衣の裏に自心を透視したと曲弁する私は、たちどころに自心の烈火で厚顔を炙られ、声にできない呻きを呑み込んだ。論述の藪畳を踏み分ける艱難から巧みに逃避しようと謀る旁々、藪向こうの見えない景趣を我が物顔に晴れ晴れしく吹聴するのは、まさに思惟の怠慢がひねり出した噴飯であると水鶏氏は諷しているのだ。自心の実感を不審するに事欠いて、和声の源である弦を二つ、三つ誂えて来るとは、さだめし月並な達磨の掛け軸を床の間に掲げて悟達を誇る隠居の気炎、自慢は智恵の行詰りの格言を地で行くお笑い草である。箸にも棒にもかからない俗骨が、ひとくさり御託を並べたものと一蹴されてしまった。
水鶏氏の信実にほだされて自心なる概念を他人行儀に受け入れたはいいが、いつしか偽書物の土俵に乗って、まともに二つの自心説と組み合っている。私はさも果断に二つを一つに括れるかに言い募ったが、心神を振り出しに戻して偽書物の挙止を浚ってみれば、元来一つであるものを二つと推認させるよう陽動していたのは偽書物ではなかったか。黒い本からの誘惑に盲従しない心志はいささかも損じていないのに、二つある自心の謎解きに肝胆を砕いて全然因循を覚えないとは、いくらなんでも荒誕が過ぎる。と、自らを叱罵するのはたやすいが、偽書物に被ける論法で二つの自心を否定し、一つある自心に正統性を凝らすのは、私の論判力をもってしては到底たやすいことでない。
日本の学校は子弟の知能を開発養成する所では無くして、子弟を愚物にし台なしにする所で有る、青年の心身を健全する所では無くして、之を不具廃物にする所で有る。故に子弟は教育すれば教育する程余計に馬鹿な人間と成るので有る。其処で各種の大学も多くの無用なる書物箱の製造所たるに止まることに成るので有る。此れは何う云ふ理由で左うなるので有らうかと云へば、日本の教育は小学校より大学に至る迄、悉く皆無益不用の或る種の知識の注入場で有つて、子弟の知能の開発、理性の養成に関しては、何等教養する所は無いからで有る。即ち日本の教育は器物製造の方法に依りたるものにして、子弟の細胞の生物たることを全然忘却して居るので有る。少しも生物養成の法に依るものでは無いので有る。故に日本の学生は学校に居る時だけは、幾干か無益なる知識でも増加しつつ有る如く見ゆるけれども、一旦学校を退く時は知識の増加は忽ちにして停止し、其以後は終生何等の新知識を増加する能力を持つて居ないので有る。人間には理性の活動が有つてこそ、他より注入せられたる知識も之を活用することが出来るので有るけれども、日本の教育は理性の発動、知能の啓発に関しては、殆んど養成する所が無いので有るからして、日本人の知識は死物同然、之を活用することは殆んど無いので有る。其証拠には日本の工芸品に就いて見れば直ぐに知れる、当初教へられたる形式以下の物なれば、何うにか斯うにか之を製造することが出来るけれども、其れ以上の進歩したる物を製造することは殆んど出来ないので有る。此れは日本の教育制度が根柢から間違つて居るからで有る。
(「細胞の霊能と教育との関係 心身養成論」 安富衆輔)
いやはや、うかうかと生兵法の注釈を懲りずに吐露してしまった。水鶏氏の信実味溢れる煩慮に局外から飾りつける勿体ぶった注釈は、あべこべに注釈者へ盛られる水銀となり、飾りつけたあざとさの分量に比例して残留する。厄介なことに、残留した毒は効き目を即時に発揮せずして心の底へ沈潜し、似付いた新毒の滲入を誘っている。私が同じ愚を繰り返して愧死しないのは、片々と散らばる無為の水銀を吸い寄せて溢れ出した汞毒が、魂を乾涸びさせ血の通わぬ石くれに変えてしまうからである。風化して剥がれ落ちる石くれが空洞に響かせる谺に、頽落以外の先兆を聞く人はいない。音もかそけく滑り落ち、さらさらと崩れ行く方が滅びの慎みがあって好ましいのである。
「書物における自心の入れ替わりと同期する形で心界を震わす実感の重音は、異なる自心、異なる楽器の声音のかぶさりから構成されていると決めるのでなく、案外、一箇の楽器に緊張せられた別々の弦が奏でる和声と見做せませんか。天与の羈絆で結ばれた数学的な均整は、当為と美妙とのあり得ない交点を創造するのだと。」
「ある現象を比喩で説明するのは、真偽の沙汰をいたずらに濁らすだけです。楽器を喩えに持ち出して急場凌ぎで鋭鋒を逸らした次は、弦が複数あるか否かについての定立を何としても喝破しなければなりません。」