美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

均一台の精神現象学(なけなしの金で最大の昂揚をむさぼろうと目論む古本病者の場合)

2021年11月28日 | 瓶詰の古本

 そもそも古本屋の店内へは一歩たりと踏み入れず、店頭の均一台を次から次へ侵攻して均一本ばかりを漁り回る精神現象について、なけなしの金で最大の心理効用(昂揚)をむさぼろうと目論む古本病者の体裁、流儀に事寄せて書き留めれば、

1.場合によって古本が法外(時にデタラメ)な高値で取引されることもあるネット市場に触発され少しでも安価な値段で掘り出して出品しようかというセドリ商法を偏見敵視し、ひたすら街路上へ据えられた均一台にへばりつき内奥から沸き上がる玩物喪志的独占欲の命ずるままに蠢動する。

2.魂を震撼させるほどな秘儀魔道を永世継ぎ行く文字がもし世に在るとすれば、常識を具えた人士へ向けて明々煌々と開かれるネット市場では未だ嘗て流布されたことのない古本、人知れず均一台の隠れ次元に埋もれた古本に記された文字こそがそれであると血迷い気味に信じ(たがっ)ている。

3.ネット市場の形成以前・以後にかかわらず、古今東西に亘る天才的創作者、歴史的大著述家が物した不朽の名著、傑作は半永久的に手を変え品を変え洪水となって大量に流通し続けるので、極めて低廉に必要の都度いつでもどこでも買い整え買い揃えられるという太平楽な想定に安座していて、この種古本をほとんど度外視する。

4.一冊当たり50~300円が均一本概ねの相場であり、三、四時間かけて古本屋をはしごして買い込んだところで一気に財布の中身が枯渇する虞れはないと自分自身を言いくるめて結局は、毎度有り合わせの小銭すっからかんになるまで止めどなく目先の愉悦に溺れるブレーキなしの中毒持ちである。

5.捕獲した均一本を持ち帰り、いざ部屋の灯下で逐一検分してみたら有りふれた有象無象本だらけだったことに打ちのめされ、逆上のあまり(莫大な被害総額とも叫べず)ゴミ箱へ葬り去る暴虐を犯して微塵も罪悪感に苛まれない、そうした心理的損傷を極小化する現実逃避術に長けていると自負している(はずが、実際は手の届かない時分に突如、件の均一本の真価に気付かされ狂い死にするほど後悔する心理的損傷極大化への陥穽落下癖から抜け出せないでいる)。

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気安く考えたり、みくびったりしてとんでもない誤りをおかすこと多々あり、自戒すれども(時枝誠記)

2021年11月23日 | 瓶詰の古本

 こんな話を聞いたことがあります。「辞書などを使う先生は、まだ未熟な先生で、えらい先生は、辞書に説明されているようなことは、みんな頭のなかにたくわえているはずだ。だから、生徒たちは、辞書を引くかわりに、必要なことは先生から直接聞いておぼえるのがいいのだ。」と。これは、たぶんむかしの話で、今日ではこんな考えを持っている先生や生徒は、おそらくいないと思います。しかし、以前にはそんな考えでしたから、教室で辞書の引きかたを教えたり、教わったりすることが、それほどたいせつなことだとは、一般には考えられていなかったようです。ところが、今日の国語の教室は、辞書なしですますことのできる、いわゆる生き字引をつくることを、目的としてはおりません。それよりも、必要なときに、必要なことばを、正確に使うために、辞書を自由自在に活用することができるように生徒を教育することを目ざしています。
 辞書に対する考えかたは、こんなふうにあらたまってきましたが、それでもまだ、一部には「辞書が必要なのは、知らない外国語や、むかしのことばを勉強するようなときのことで、国語は、日本人ならば、だれでも知っているはずであるから、辞書にたよる必要はないのではないか。」という考えが残っているようです。しかし、今日では、わたしたちの知らないことがらや、知らなければならない世界のことが山ほどふえてきました。いろいろな知識を身につけるためには、どうしても、ことばや文字を知らなければなりません。国語だからと、気安く考えたり、みくびったりすると、とんでもない誤りをおかすことがあります。知らないことばはもちろんのこと、知っていることばでも、その使いかたや意味が正しいかどうかを、辞書にあたってみることを、たえず心がけるとともに、そんな習慣を身につけたいものです。それが、ほんとうに国語を愛し、尊敬するというものです。外出するとき、はきものをはくことが常識になっているように、辞書は、今日では、ことばの生活になくてはならないものになってきました。辞書とくびっぴきということは、むずかしいことを勉強するときにだけ使われるようですが、どんなときでも、辞書をたよりにすることを忘れないようにしたいものです。

(「学習国語辞典 編者のことば」 時枝誠記)

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仕事は自身による精神を産み出すものである(W・ジェームズ)

2021年11月21日 | 瓶詰の古本

中等教育に於ける近年の最大改良は、手工を練習する学校の設けられたことである。之れを最大改良と申すのは、此等の学校が家庭生活の役に立つ人民や、商業に熟練したる人民やを作り出すと云ふ理由からでない。従来と全く異りたる知的組織の人民を作り出すと云ふ理由から斯く申すのである。実験室に於ける仕事や、店に於ける仕事は、事物を観察する習慣を養ふものである。精確と曖昧との間の差別の知識を与へるものである。自然は甚だ複雑なるもので、一たび精神中に入り込んだ以上は、終生忘るゝことの出来ぬ様なる実験的事実の如きに至りては、到底抽象的言辞なそで以て言ひ表すことの出来ぬものであると云ふ感想を起さしむるものである。実際の仕事は精密なる知識を与へるものである。何故かと申せば、今諸君にして一の事柄に付きて仕事をなしつゝある時には、諸君の行動は正当であるか、不正当であるか、其の中の一つであつて、其他を許されないからである。又仕事は正直の徳を養ふものである。何故かと申せば、若し諸君にして単純なる言語によらずして、実際の仕事によりて諸君の精神を表はそうとせらるゝ時には、良い加減に誤魔化して諸君の思想の曖昧不学を掩ひ隠くすことが出来ぬからである。又仕事は自身による精神を産み出すものである。何か故と申せば、仕事は生徒の興味心を刺戟して、常に注意を快く働かしめ、而して其結果教師の干渉する世話を最小度に減ずるからである。

(「教育心理學講義」 ウイリヤム・ゼームス原著 福来友吉譯)

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古本への愛情表現

2021年11月15日 | 瓶詰の古本

 古本を「かび臭くてうすぎたない」と形容するのは、古本に対する愛情表現であると知らねばならない。人と人との愛情の間合いと何ら異なるところがない。

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外術を以て瓜を盗み食われた物語(今昔物語)

2021年11月14日 | 瓶詰の古本

 今は昔、七月頃のことであるが、大和の国から沢山の馬に瓜を乗せて、下衆たち多くしたがへ京都に上る途中、宇治の北にならぬ柿の木といふ樹があつた。その樹影にそれ等の下衆たちがとまつて、瓜の籠を馬から下しなぞして、休息しながら涼んでゐると、彼等はそつと持つで来た瓜をとり出し、すこしつゞ切つては食べてゐた。
 と、その傍にゐた、何者とも分らぬ年寄つた翁が、帷に中を結んで、平足駄を履き、杖を突いて来ると、瓜を食つてゐる下衆たちのそばで、力弱気に扇をつかい乍ら、瓜を食べたいらしいことを呟いてゐたが、しばらくじつと見護つてゐると、
『その瓜を一つくれませんか? 咽喉が渇ひて困るのですが……』と、かう言つたが瓜の下衆が『この瓜はみんな俺たちの物ぢやないのだよ、気の毒だから一つ位はあげたいけれど、京に送る物だから困るのでね』と、かう言ふと、翁は、
『情けのない人たちだね、年老ひた者を憐れに思つてくれゝばいゝのだが、くれないと言ふならいゝ、自分で瓜を作つて食べることにしよう』
 と、かう言つたので、下衆たちは、冗談を言ふのだと笑つてゐる間に、翁はそばから木の端を拾つて、そこの大地を堀り乍ら、畠のようにした。何をするのかと、下衆たちが眺めてゐると、食ひちらした瓜の核をとり集めて、地均ししたところに植へた。
 と、見るまに、その核は二葉に生へ出したので、下衆たちは不思議に感じてゐると、その二葉がそだち、蔓が這ひ、しだいに繁つて花が咲き瓜が実つた。さうして、その瓜の実が大きくなり熟して来た。それを眺めてゐた下衆たちは、これは神業であると驚いてゐると、翁はその瓜をとつて食ひながら、
『あなた方が食はせないから、かうした作つた瓜を食べるのだよ』と、かう言つて、下衆たちにも食べさせたが、まだ瓜は沢山あるので、往来する人々を呼びとめて食べさすと、みんな喜んで食べて行くのであつた。
『さあ、帰るとしよう!』
 瓜をみんな食べて了ふと、かう言つて翁は帰つて行つたが、何処に行つたか、その行方は分らなかつた。
 その後で、下衆たちが自分たちの瓜を馬に乗せて行かうとすると、籠はあるが、その中にあつた瓜は一つも無くなつてゐた。で、下衆たちは非常に不思議に思はずにはゐられなかつた。さきほど翁が籠の瓜を取り出し、自分たちの目をくらましたのを知らずにゐたことを残念に思つたが彼の翁は何処に行つたのか行方も分らないことであるから、今更何うしようもなくすごすごと大和へ返つて行つた。
 往来の人々はそれを見乍ら、不思議に感じたり笑つたりしたが、さいぜん下衆たちが翁に瓜を惜まず一つか二つ食はせたなら、あのように悉くとられて了いはしなかつたらう、彼等が瓜を惜しんだのを翁が憎んで、かうしてたしなめたのであらう、それにしも彼の翁は変化の者でもあつたのかと評し合つてゐたが、その後ち、誰れも翁を見たことが無いと語り伝へられた。

(「現代語譯今昔物語」 村松梢風譯)

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通人が食するから酢豆腐と言うようなものの、君方が食べれば腐った豆腐でげす(柳家小せん)

2021年11月10日 | 瓶詰の古本

若「ヨウヨウ食物(たべもの)の本阿彌を命ぜられたは嬉しいね、是ツ非一見しやせう」
勘「エヽ、御覧に入れやせう‥‥オヽ此方へ持て来な‥‥何を笑つてやがるんで、若旦那是なんですがね」
若「左様でげすか。ドレツ‥‥フツ、是は怪(け)しからん」
勘「食物(くひもの)ぢやねえんですか」
若「フウ、何とかの上塗と来やしたな‥‥確に食物(しよくもつ)でげすよ」
勘「食物(くひもの)なんで」
若「もちりんでげす」
勘「若旦那の仰しやる事は一々分らねえな」
若「尤も是は何でげすよ、君方(きみがた)が御存じのないのも道理、我々通家(つうか)が愛する食物(しよくもつ)でげすからな」
勘「ヘエ、さうですか。だから聞いて見なきやア分らねえ‥‥お好きなら差上げやせうか」
若「結構、頂戴しやせう。実は久しく此の品を食さんから、今日辺りは食して見ようかと思つて居た矢先でげす」
勘「夫ぢやア若旦那召上れ」
若「頂戴致しやす。宅へ戻つて夕凉(ゆうすゞ)に一酌傾けながら」
勘「イヤ若旦那、夫やアいけません。此所で召上つて戴き度いな」
若「此所ではいけませんよ。余りと云へば殺風景でげす」
勘「構ひませんよ若旦那、御遠慮なしに召上れ」
若「左様でげすか、夫ぢやア頂戴致しやす」
勘「オウ箸を持て来な。是やア若旦那のやうな通人の召上るもんださうだ‥‥サア、若旦那召上れ」
若「どうも皆さん、甚だ失礼でげすが、無礼講で、此所で頂戴致しやす。御免を‥‥エヘン、君方の前でげすが、通家は此所を愛しやすよ」
勘「ヘエ、何所を愛しますね」
若「此の匂(かほ)りが目鼻へツーンと染(しみ)る所が何とも云へぬ贅(ぜい)でげすな。食物(しよくもつ)は総て口でばかり食すものと思召すと大違ひでげすよ」
勘「ヘエ、何所で食ひますね」
若「鼻で食しやす。譬へば秋の松茸でげすな、香があればこそ、珍重するやうなものゝ、匂(にほひ)がでげすね、傍へ持て行くと懐しき処の香が目鼻へツンツン‥‥オホツホツ妙(おつ)でげすな。此の香たるや、我々通家は此所を愛しやすよ」
勘「どうぞ若旦那、早く召上つて下さい」
若「結構頂戴致しやす。御免を、オホン、只此の一刹那でげす」
勘「穏かでありませんな、一刹那なぞは、サア召上れ」
若「頂戴致しやす、御免を被むつて‥‥オツホツホ、妙(おつ)でげすな、珍でげすね」
勘「召上りましたか若旦那、一体是は何てえ物なんで」
若「君も御存じがないとは怪しからんものでげすな、覚えて置き給へ、是は酢豆腐と云ひやす」
勘「成程、酢豆腐に違えねえや、若旦那、妙(おつ)ならもつと召上れな」
若「イエ、酢豆腐は一口に限るものでげす、併し是も我々のやうな通家が食するから、酢豆腐と云ふやうなものゝ、君方が食べれば、腐つた豆腐でげす」
*ルビについては適宜( )書き

(「名作落語全集 變人奇人篇」 今村信雄編)

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古本病者は宿命論者になりたがる

2021年11月07日 | 瓶詰の古本

 古本が無尽蔵に回流する都会ならではの蓋然性の高さを頭の隅に置いたとしても、古本病者は隙あらば宿命論者になりたがる。そんじょそこらにいくらでも転がっている古本に掴みかかっては、なぜ俺は今ここでこの本と出会えたのか、この本が俺を選び出したのだと、ロマンチックな必然、ミステリアスな宿命に聖別された自分を恍惚の鍋中に煮えたぎらせ、古本屋の店先で失神寸前の夢心地に溺れる。
 そのくせ、いざ現実の障害、瑣細な困難に立ち向かうと、いとも簡単にぐうの音も出ないほどたたき伏せられ、寸分の狂いなく完全な失神状態へ墜落する。

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書斎割当など半畳たりとも許されない分際で購い続ける古本病者に身の置き所がなくなるのは必然の軌跡(柴田宵曲)

2021年11月03日 | 瓶詰の古本

 由来書物なるものは当事者が夢中になる割に、家族からは歓迎されぬものである。その理由はいろいろあるけれども、煎じ詰めれば家族が主人と趣味を同じうせず、書物の内容に無関心であることに帰着するらしい。フランスには七階建の貸家七棟にだんだん書物を充満させて行つて、晩年には一人の店子もゐないやうにしたブウラアルといふ豪傑がある。その蔵書は結局何十万巻に達したか、歿後の競売が三年続いたといふ恐るべき記録の持主であるが、その書物を買ふことは細君によろこばれず、一冊読了してからでなければ他の書物を買つてはならぬ、といふ宣告を受けた。彼はこの結果病気になり、細君も一命には替へられぬとあつて、禁を解いて再び書物を買ふに任せた、と辰野隆博士の随筆に見えてゐる。これほど大きな置場を持つてゐてさへ、猶細君の反対を免れぬとすれば、借家住ひの四畳半の書斎の持主などが、家族から書物排斥を受けるのは尤千万である。新に買つた書物はなるべく家族に見られぬやうに持帰つて、十年も前から書斎に在るものゝ如く糊塗して置くなどといふ話は、一概に子供らしい滑稽として笑ひ去ることも出来ない。

(『蔵書家』 柴田宵曲)

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