美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

仕事着を脱ぎすてて精神の列に並ぶとき(テーヌ)

2019年05月19日 | 瓶詰の古本

 吾々はどの行(ぎやう)を読んでみても、鋭い、寸分の隙もない小さな言葉のうちに云ひ現はされた観察に出会ふ。作家といふものは、普通、かうした事実をいくつか蒐めると、それに埋草をつけ足して、一冊の本につくり上げてしまふものである。それはちやうど、石で塀をつくる場合に、石と石との隙間へ石炭屑をつめ込むのと同じことなのだ。ところが、スタンダールの著書には、その何れに対しても云へることであるが、無用な言葉は一つとしてない。静かに考へてみる価値のある事実とか、新しい観念とか、兎に角さうしたものを現はしてゐない言葉は一つとして無いのである。彼の著書が何を持つてゐるか、それを考へて御覧になるとよろしい。ところで、或る精神にその地位を印づけるのは、これらの特質なのである。その理由はほかでもない。若しもその精神が人生や人間に対して持つてゐる独創的な、新しい見解によつてその価値を測るのでなかつたならば、何によつて人はその価値を測るのであらうか? 測りやうが無いからである。他の知識はすべて特殊なものである。さうした知識は、その職にたづさはつてゐる人たちの間で、その知識の持主の等級をきめるに過ぎない。化学者は化学といふ学問のなかで人に抽んでることが出来る。また、或る行政官はその職務を申し分なく遂行することが出来るであらう。しかも、両者はいづれも極めて平々凡々たる人間であらう。彼等はたゞ非常に役に立つ道具として珍重されるのであつて、それ以外の別な意味で珍重されるのではない。吾々は各自それぞれの仕事場をもつてゐて、そこで醜い、厭な仕事を忙しくやつてゐるのである。日が暮れると、吾々は仕事着を脱ぎすてゝ、寄り合ひをしに集る。吾々は自分たちの観念を竝べ合ふ。それを誰よりも多く持つてゐるものは、一の列に据えられるのである。つまり、スタンダールが置かれてゐる地位がそれなのである。

(「作家論」 テーヌ著 平岡昇・秋田滋譯)

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