美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

王安石経済を知らず(堀誠之)

2010年01月30日 | 瓶詰の古本

宋の王安石宰相たりしとき土功を興すことを好みしかば佞諛(へつら)ふて開拓疏通の事を奏上するもの多かる中(うち)に太湖(たいこ)を埋(うづ)めて開墾しなば莫大の利益あるべしと勧めたるものありけり 安石実(げ)にもと思ひ土着の老輩を集(つど)へて此事を話し出で如何にせば満湖の水を去り得べきやと諮問ありければみなみな其の威権を憚り黙してありけるが一老人進み出で僕に一策こそあれ聞給はんやと云ひければ安石大いに喜び如何なる策なりやと問ふに老人云(いは)く別に策あるにあらず太湖の側に太湖と同じ位なる湖を鑿(ほり)なば容易に水を去るを得べしと 安石初めて悟る所あり此の起業を思ひ止まれりと 土功を好むものの戒とすべし

(「今古雅談」 堀誠之)

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なりたい自分

2010年01月28日 | 瓶詰の古本
   言葉は稚拙、動作は杜撰な人間になりたいと心から願う。そうしたら、誰にも恥じることがない。
   あるいは、小心とニヒリズムが同居するような人間になりたい。そうしたら、自分に怯えることがない。
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住吉・日吉の訓(喜田貞吉)

2010年01月27日 | 瓶詰の古本

近江の日吉(ひよし)神社はもと比叡山(ひえのやま)の神にて、即ち比枝(ひえ)神社なり。延喜式には日吉と書き、明かに「ヒエ」と傍訓す。又摂津の住吉(すみよし)はもと海岸の江の名にして、之をスミの江と称し、住の江とも、墨の江とも古書に見えたり。然るに、之を後世には日吉・住吉と書きて、尚ヒエ・スミノエと訓(よ)ましむ。蓋し好字を選びたるものにて、「吉」の字を「エ」の仮字として用ひたるなり。吉は善なり、ヨシと訓ず。善き事を一に「え」と云ふ。今も上方地方其の他関西一般に、「善き天気」を「えヽ天気」、「善き人」を「えヽ人」と云ふ。今東京地方にて「いヽ天気」、「いヽ人」と云ふはエとイとの発音の転訛したる結果なり。されば、好字を選みてヒエ・スミノエに当つるに日吉・住吉の漢字を以てすることは、もとより不可なく、随つて其の後も之をヒエ・スミノエと訓(よ)ましめたることは勿論なるが、後世仮字の使用法ほヾ一定し、文字の訓もまたほヾ定まりて、「エ」の仮字に「吉」の字を用ふる場合少く、「吉」の字は常にヨシと訓ずる様になりしがば、遂に今日の如く、俗にヒヨシ・スミヨシと訓みて、其の原名を失ふに至りしものなり。地名には此の類の転訛甚多し。今は其の一例として揚ぐるのみ。

(「読史百話」 喜田貞吉)

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誰にも相手にされず

2010年01月26日 | 瓶詰の古本

   誰にも相手にされず、夜間連行され棍棒で理不尽に撲られるということもなく、ただ自分のためだけに生きている。そのような生活者にとって、ある日、希求する想いが突発的に生まれたとして、それを表現するような言葉は手の内にあるのか。あるいは、そもそもそのような言葉が必要なのか。生活者に内心の戦ぎがときたまに訪れたとしても、語るべきことがらは、ほとんど卑近・卑小な出来事に終始して外へ一歩を踏み出すことがなく、考えの及ぶ限りに自分の脳髄の螺旋階段を昇り降りして、めまいのする同心の軌跡をなぞるばかりである。
   ちっぽけな夢想の水槽に浮かぶ原初の泡に似た生活者にとって、よしんば、心にひりりと痛みが生まれたとしても、それは、持ち合わせた言葉では所詮掬い取ることのできない、底知れぬ痛みででもあるだろう。まさか健気にも、強靭なる思想者、果敢なる行動者に畏敬・憧憬の心をときめかすときがあったとしても、むしろ彼等の揺るぎない意志力に圧倒されこそすれ、竟に言葉は心象の霧中にさ迷ったきり外部世界へ貫き渡るということはない。剣のような言葉がどうか欲しいものだが。

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独り川ぞいの楼に上り(内田泉之助)

2010年01月25日 | 瓶詰の古本

        紅楼感を書(しる)す  
                   趙嘏

   独り紅楼に上つて思渺然たり。
   月光は水の如く水天に連る。
   同じく来つて月を翫びし人は何れの処ぞ。
   風景は依稀として去年に似たり。

【通釈】 ただ独り川ぞいの楼に上つてあたりの景色を眺めていると、過去の思い出がそれからそれへと果てしもなくくりひろげられて感慨は無量である。月の光は水のようにさえわたり、川の水は空のようにすみきつて、誠に水天一色の好景である。この景を眺めるにつけても、去年相携えてこの楼に来て、共に月を観て楽しんだ人は、今どこへ行つたのか。風景のみは少しも去年と変りないものを。

(「唐詩の解説と鑑賞」 内田泉之助)

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怪奇の正統性

2010年01月23日 | 瓶詰の古本
   「幽霊屋敷」(世界怪奇名作 西野辰吉 昭和四十一年)

   『幽霊屋敷』(「貸家」)             リットン卿
   『謎の日記帖』(「妖物」)            ビヤース
   『運命の三・七・一』               プーシキン
   『幽霊船カムチャッカ号』(「上床」)             クラウフォード
   『魔のトンネル』(「信号手」)          ディッケンズ
   『毒薬博士の娘』(「ラッパッチーニの娘」)  ホーソン
   『死人の眸』(「ラザルス」)                        アンドレーフ
   『鏡中の美女』                  マクドナルド
   『北海の白魔』(「北極星号の船長」)     ドイル
   『外套の恐怖』                  ゴーゴリ

   これらの作品はみな、怪奇小説にのみ賦与された文学としての高貴な出自と正統の香に満ちている。
   白井哲画伯のさし絵が恐怖に加担し、出色の怪奇名作集となっている。
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本を愛するなどとは言えない

2010年01月22日 | 瓶詰の古本

   思うに人生の中で、どんな破滅が待っていようとも相手を守ろうと思い詰めたことのないような人間が、たかだか本風情を愛して止まないなどとほざくとは、もってのほかの逆上沙汰だ。嗤いながら褒め殺すしかない自己陶酔そのものだ。悪魔の爪の垢ほどの醜悪さすらない、欠伸を誘うほかに能のないあきれた凡庸とはこうしたものだろう。
   一日一冊分の硬貨を握って古本屋の均一台に通っただけでも、三十年経てば一万冊の蔵書家だ。何事も成し得ることがなく、暇つぶしに何者かを愛するということがあるとすれば、それはそうかも知れないが。
   とにかくに、ただでさえ狭苦しい部屋がどんどん古本の中に埋没して行く光景は、もはや直視するに堪えない。

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四国辺土(喜田貞吉)

2010年01月21日 | 瓶詰の古本

       四国辺土

四国八十八ヶ所の霊場順拝の行者を辺土(へんど)と云ふ。人其の字義を知らず。何時の頃より生賢(なまさかしら)の人の書き出しけん、之を遍路と書き、路を遍(めぐ)るの義なりと云ふ。今にては僧も俗も皆此の字を用ひ、口にはヘンドと唱へながら、文字には遍路と書く。中にはヘンドと云ふは方言の訛りなりとて、之を賤しみ、文字あるものは殊更にヘンロと唱ふるあり。されど辺土と云ふこと古き称へなりしが如し。澤庵和尚の鎌倉記に
   淨智寺に入りて見れば三間四面の堂一宇古き仏を安置して、何方(いづく)を開山塔と云ふべき様もなく、末流辺土の僧一人来りて、かつがつ茅屋小さく営み傍にあり。
とある辺土の僧是なるべし。又今昔物語に、
   今は昔、仏の道を行ける僧三人伴ひて、四国の辺地と云ふは、伊豫讃岐・阿波・土佐の海辺の廻りなり。其の僧共其れを廻りけるに、思ひかけず山に踏み入にけり。
とありて、辺地の僧三人鬼の栖宅(すみか)に入りて馬となりたる奇談を載せたり。こヽに辺地とは海辺の廻りなりと云ふこと、稍不審なれど、今も八十八ヶ所の霊場多くは海に近き所にあり。此等の霊場を順拝すること、既に平安朝の比よりありて、之を辺地と称せしものなるべし。而して辺土と云ふは「地」の「土」と改まりたるものならんのみ。要するに辺土を遍歴する修行者の義にして、真言宗の盛なると共に、弘法大師の霊場を順拝すること多く行はれしより、四国八十八ヶ所巡拝者に就いて特に斯く云ひしものなるべし。
これにつけても、口に言ひ馴れたる語は軽々しく改むまじきものぞ。

(「読史百話」 喜田貞吉)

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竹村俊郎の孤独

2010年01月18日 | 瓶詰の古本

       孤独
      ―― クラパム・コムモンにて ――

一人去り 二人去り
僅かに出来た友達もみなちりぢりに帰り去る
そして僕は明るい山の手から
ここの貧民街(スラム)へ越して来たのだ
羊肉(マツトン)と腋香の鋭い下宿の天井へ越して来たのだ
何たる蕭條 何たる落莫
しかしまた何たる慰安 何たる安心
下宿の女将(おかみ)の吝嗇の煩(うるさ)さから
自分の財布を搾る夜毎の蠟燭
蒼白い屋根裏に一本の白い蠟燭が
夜毎僕を待ちくたびれる

(「昭和詩鈔」より 竹村俊郎)

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竹村俊郎の陋巷哀歌

2010年01月16日 | 瓶詰の古本

   陋巷哀歌

     Ⅰ

何とて宵々の酒なるぞ
夕となればこころ砂漠のごとく渇き来て
ただひたぶるに沾を覓むるなり
今宵またおなごもなき酒廛に来り
油じめる壁にむかひ
鴉のごとく物を思へる

     Ⅱ

纎手に缶(ほとぎ)とり
酒をすすむる
君が情知らぬにあらず
微笑のただ中に
妖火(あやし)のごとく閃めける
君が瞳知らぬにあらず
ああさわれわれ既に老い
たまゆらの恋に老い
わがこころ啞のごとく
君が告知に聞かざるなり

     Ⅲ

われはかのバタ屋なるべきか
犬のごと餓ゑ
巷に塗箱を漁れる
われはかのバタ屋なるべきか
紙屑 ボロ屑 パン屑 肉屑 空鑵 空罎
巷一切の悲しきもの 寂しきものを覓め
犬のごとくに漂へる
われはかのバタ屋なるべきか

     Ⅳ

酒場より酒場へ
巷の闇をつづりゐしに
仄白き路次の隙(ひま)より
絞るがごとき声あり
「四十にして未だ巷に漂へる
  悲しからずや」
われその声に耳を蔽ひしに
わが青白き心の中に再び声あり
「不惑にして未だに巷漂へる
 悲しからずや」

     Ⅴ

夜更て酒廛に紛れ入りにし
客絶えし土間に梵論(ぼろんじ)
ただひとり笛吹きゐたり
いみじき笛なるかな
哀音ただちにわれを誘ひ
遠くわが少年の日に還(めぐ)らせり
盃(はい)を啣みしばしそを聞きゐしに
月かげ騒(みだ)るその音にまじり
さらさらと銀を数ふる音
彼方なる室内より
霰のごとく我を打てり

(「昭和詩鈔」より 竹村俊郎)

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買ってしまった本

2010年01月15日 | 瓶詰の古本

   「アメリカの産業戦略」(吉川元忠 平成八年)
   「江戸川乱歩99の謎」(仁賀克雄監修 平成四年)
   「論語講義 (七)」(渋沢栄一 昭和五十二年)

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偽者の過剰は恥ずかしい

2010年01月14日 | 瓶詰の古本
   神経細胞が次々眠りこけていく酔いどれのくせに、文章の中に過度、粘着の言葉を振りまいている様ほど、見ていて恥ずかしいものはない。そこに溢れ出る俗情のしたり顔ほど、見苦しくて哀しくなるものはない。過剰な精神を装う貧弱な思念は、上滑りした高い声調ばかりを印象にかすめて、虚空に消えて行く。
   文字の詰屈、文飾の氾濫、論理の徘徊は、ど素人の漆喰塗りに似て、偽者の危うさだけを露わに塗り重ねた無残の出来栄えを晒すばかりである。まさに、この駄文のように。
   それにつけても、詩人、文人の言葉を書き写していると、翻って自分の文章の一文字を見るさえ、おぞましくも寒気がするようになる。これをしも、若干の矛盾と言うべきか。
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君の腰は始終ぐらついてる(夏目漱石)

2010年01月13日 | 瓶詰の古本

   「黙つて聴くかい。聴くなら云ふがね。僕は今君の御馳走になつて、斯うしてぱくぱく食つてる仏蘭西料理も、此間の晩君を御招待申して叱られたあの汚らしい酒場(バー)の酒も、どつちも無差別に旨い位味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだらう。然るに僕は却てそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑してゐるんだ。いゝかね。其意味が君に解つたかね。考へて見給へ君と僕が此点に於て何方(どつち)が窮屈で、何方が自由だか。何方が幸福で、何方が束縛を余計感じてゐるか。何方が太平で何方が動揺してゐるか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐つてないよ。厭なものを何処迄も避けたがつて、自分の好きなものを無闇に追懸けたがつてるよ。そりや何故だ。何故でもない、なまじひに自由が利くためさ。贅沢をいふ余地があるからさ。僕のやうに窮地に突き落とされて、何うでも勝手にしやがれといふ気分になれないからさ」
   津田は天から相手を見縊つてゐた。けれども事実を認めない訳には行かなかつた。小林は慥かに彼より図迂々々しく出来上がつてゐた。

(「明暗」 夏目漱石)

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心に誠あれば、言行の上にあらわる(貝原益軒)

2010年01月12日 | 瓶詰の古本

信は心に誠あるなり。心に誠あれば、言行の上にあらはる。言(ことば)は行(おこなひ)をかへりみていひ、行は言をかへりみて行ふ。是(これ)言行共に信あるなり。もし身に行はざる事を口にいひ、口に言ふ事を身に行はざるは、是言行共に信なきなり。言ふ事は易く、行ふ事はかたし。故に言をばひかへ、行をば過すべし。是信を行ふ道なり。

(「五常訓」 貝原益軒)

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世の勝者と敗者(杉山茂丸)

2010年01月11日 | 瓶詰の古本

   俗戦国策は青年の為めに書くのである。
   今の青年は、就学難と戦うて、夫れだけで終る者もある。又父兄も子弟の就学を以て、父兄たる義務が了へたかのやうに心得て居る者もある。又千辛萬苦して、ヤツト得た免状は、其父兄子弟共、衣食の通券でも得たかの心地をして大安堵をなす者もある。
   夫から又就職難に入るのであるが、此就職難と云ふ戦争で、大概は戦死者となるのである。
   夫から偶ゝ就職して勝利者となつたものは、此多くの戦場の勇者であるやうぢやが、一方人間精神上の論功行賞から云へば、全部敗北者許りである。其全身に充満する物は、恐怖と杞憂許りで、天下国家は申に及ばず、社会民衆の上に往来する、人類一人前の思想さへ維持するの力もなく、此貴重の生涯を、又生活難と云ふ戦場で、殆んど悉く全部敗北者となるのである。
   夫では此勝利者成功者は、飯を喰うて、生きられる丈け生きて居たに過ぎぬ。他の動物と少しも選ぶ事の出来ぬ者許りとなるのである。斯る敗北者に限りて、勇気と云ふ者が少しも無い。為めに自己の生存以外に、智力も体力も、一切の活動が停止されるのである。随つて自己以外、他に及ぼす力が無いのみならず、自己を制する勇気さへ全部消耗して仕舞ふのである。人間自己の欲望をさへ制する力がなくなるのであるから、真に獣類と少しの差もない事になるのである。

(「俗戦国策」 杉山茂丸)  

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