美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

心の通い合う知己に囲まれているなどという、麗しい幻想を嬉しがる人間に偉大な英雄の魂が宿ることは決してない(バルザック)

2023年11月29日 | 瓶詰の古本

 確かに今日に於てなら公平な歴史家は総て、ナポレオンの度外れた自負心が、彼の失脚した数多の理由のうちの一つだつたことを、認めるに違ひあるまい。而もナポレオンはその欠点のために、実にむごたらしい罰を、受けたわけである。この疑ひ深い皇帝には、青くさいその権力から来る嫉妬といつたやうなものがあつて、これが彼の行為の上に作用するはもちろん、彼の考へを其の儘委せられるやうな内閣をつくれる敏腕な人達、――何れも大革命の貴重な遺贈物とも云ふべき連中だが、――かうした人達に対する彼の隠れた憎悪の上に、深く影響したのである。
 ボナパルトに猜疑の念を抱かせたのは、たゞにタレイランやフーシェばかりではない。
 一体簒奪者にとつて始末の悪いことは、自分に王冠を載せてくれた人達や、王冠を奪はれた人達を、同時に敵に廻さなくてはならないことである。ナポレオンは嘗ての自分より目上の人達や、同等の人達、乃至はわれこそ正統の権利者と心得て反抗する人達を、彼の主権の絶対権力をもつて、余すところなく承服せしめることが、つひに出来なかつたし、また誰一人としてナポレオンに対して、忠誠の誓言に縛られてゐると思ふ者もなかつた。

(「暗黑事件」 バルザック 小西茂也訳)

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掻き毟りたくとも毟れない者を切り捨てず、英語参考書が丁寧に教える毛髪にまつわる各種表現(佐々木邦)

2023年11月26日 | 瓶詰の古本

    (C) The Hair.  毛髪
 Scalpにはhair(毛髪)が生へてゐる。是は首を斬つた折提げて帰るに便利な為めでなく、大切なskullを保護すると同時に顔の装飾を兼ねる自然の仕掛けであらう。何となれば此hairのないbaldness(禿)といふ状態は我他共に余り喜ばないところである。此故にA Marvelous Cure for Baldness等といふhair-grower;hair-restorer;hair-invigorator(毛生薬)の広告が新聞雑誌に出る。しかし大して効験もないと見えて、歯のない人がfalse teeth(義歯)を用ゐるやうに、false hair(入毛)で拵へたwig(仮髪)を使用するbaldheaded persons(禿頭の男女)を往々見受ける。毛のない形容にはas bald as a cootといふのがあるが、as bald as a billiard-ballの方が一層能く円滑の程度を伝へてゐる。
 毛髪の種類はcurled or curly(縮れた)のとlank(真直な)のとの二つに大別出来る。色から言ふと、black,dark(黒);fair,blond(or blonde),light,sandy(金色);auburn(褐);red(赤);gray(or grey)(半白);white,hoary,snowy(白)等がある。尚ほ頭に生へてゐる毛髪全体をa head of hairと呼び、一房の毛をa lock of hairと言ふ。随つてforelockは前髪、side-lockは鬢である。尚ほa shock head,a shock of hairはa head of unkempt hair(手入れをせねモシヤクシヤした頭)の謂である。

(「重要語句文例 英語の基礎」 佐々木邦)

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隠岐モンガクザンの名前の由来、自らの罪業の深さにおののき世の中を見捨てた奇特の男の伝説(小泉八雲)

2023年11月22日 | 瓶詰の古本

 数世紀前に、京都の都に、遠藤盛遠といふ名の、衛戌の将があつた。ある位高い士の夫人を見て恋した。そして夫人がその希望に耳傾ることを拒むと、自分が提供した策略に同意しなければその一家族を滅ぼすと誓言した。
 その策略といふは、或る夜自分を邸内に忍ばしめてその夫を殺さしめよ、殺ろしてから自分の妻になれよ、といふのであつた。
 然し彼女は、同意した振をして、自分の貞操を全うすべき高潔な計略を案出した。即ち、夫に勧めて都を立ち去らしめて置いてから、遠藤へ手紙を送つて、斯くかくの夜にその邸宅へ来るやうにと命じた。そしてその当夜彼女は、夫の衣服を身にまとひ、髪を男の髪の如くにつがね、夫の臥す処に寝ねて、眠つた風をして居つた。
 そこで遠藤は深更に抜身を携へてやつて来て、一撃のもとにその睡眠者の頭を打切り、髪を手に首を摑み上げて見ると、それは自分が恋して無体なことを言ひ掛けたその女の首であつた。
 すると非常な悔恨が彼に来た。そこで手近のとある寺へ急いで行つて、自分の罪を自白し、悔悟をし、髪を切つて、出家となり、文覺といふ名を名乗つた。そして後年彼は至徳の境に達した。それで世人は今でも彼に祈念をするし、彼の霊は日本国内到る処に尊崇されて居る。
 目今、東京の浅草の、観音様の大寺へ通ずる小さな妙な街路の一つに、いつでも見世物の不思議な人形がある。たゞ木で造つたものだが、生きて居るやうに見える人形で、――日本の古代の伝説を説明して居る人形である。其処に遠藤が立つてるのを見ることが出来る。その右手には血まみれな刀を持ち、左手には美しい女の首を提げて居る。その女の顔は見る人は直ぐに忘れるかも知れぬ。たゞ美しいだけであるから。然し遠藤の顔は忘れられまい。それは全くの悪魔だからである。

(『伯耆から隠岐へ』 小泉八雲 大谷正信譯註)

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日用語大辭典(芳賀剛太郎先生)の配本を刮目して待つ(誠文堂ニュース)

2023年11月19日 | 瓶詰の古本

 出版界で刮目して待つ 
 日用語大辭典の配本

 第三回配本の日用語大辭典は屢記の如く芳賀先生が
  此の本が一冊  あれば、日本のどの書物を読むにも、どんな文章を書くにも差支へないといふ意気で心血を注いだ先生近来の大著述である。されば現代語の網羅は勿論、諸教科書に亘りて難解の字句は悉く拾收してあれば小学生、中学生は教ゆる人を待たずとも此の書一冊に依て自習する事が出来るし、教師諸君には教授用の好参考書たるを疑はぬ。更に高級なる専門学術語も網羅してある。俗語に疑義のある者、最新語を知りたき者、外来語の意義に通じたき者は皆本書に来れといふのが 著者の信條   と意気である。加之本書には早く略字を知る便宜の為に、草書木版約四千余字を毎頁へ挿入してあるから、一面に於て草書法早学びとなり、且手紙を認むる上に於て非常に便益を得る次第である。特別活字を用ゐたる最新式編輯にかゝる此の大出版は第三回配本として、
 予定の如く  本月下旬に配本される事となつた。総頁数八百頁に近き大冊は全く犠牲的奉仕出版として出版界に一大センセーシヨンを捲き起すものと宣伝されてゐる。

(「誠文堂ニュース 八月下旬號」 有坂勝久編輯)

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せっせと本を蒐めたがる者にしてみれば、他人の書庫からの本は愛すべきところ微塵もない(アラン)

2023年11月15日 | 瓶詰の古本

 読書と夢想とでは、なんといふ違ひであらう。夢想に耽るのが愉しい時もある。そんな時には絶えて本なぞは読まない。それと反対になにかの訳合から静思するのが毒々しくて堪らぬこともある。そのやうな時は、読書がなによりの薬だ。私の父には借債や気苦労が絶えなかつたが、心をそれに煩はせまいとしてか、父は無性の読書好きに、しかも手当り次第の濫読家になつてしまつた。私もこの機能をいくらか受け継いだものらしい。結局のところ、私は物を学ぶことしか知らぬ人達に比して、すこぶる便益を得た。といふのは私といふ人間は、なにか物を学ばうとしだすと、却つてなにも学べなくなる性分だからである。だからよしんば数学の推論であらうと、それを我不関焉に、さながら小説のやうに目をさらせばいいといふ風に、読まなくてはならないのである。かうした不精な勉強法は、莫大な時間を食ふ上に、しかも本をしよつちゆう手許においておかねばならぬのである。手許にといふ意味は、二米でも離れた先きにある本は、つひ繙いたり再読したりするのを、忘れてしまふからである。ましてや人の書庫からの本は、私にはなんの利用どころか、得るところもない。借りて来た本を究めつくさうとして、あれこれとノートなど取つてもみたが、それがつひぞ役立つたためしがなかつた。
 私にとつてはホオマアとの親昵の如何は、ただにホオマアを手許におくことにかかつてゐるのである。スピノザも手許に長くおいた著者である。さういへば親友の一人から、メーヌ・ド・ビランの全集を贈られて、それを手許におけるやうになるまで、私はつひぞこの哲人を識らなかつた。

(「バルザック」 アラン 小西茂也譯)

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流行の潮先に乗ろうと私欲阿世の才子が集う猪牙舟仲間、それぞれ省みて猪口才な阿呆鳥ばかりと気付くはずもない(幸田露伴)

2023年11月12日 | 瓶詰の古本

世に媚びて文を作らば文文にあらじ。互に結んで名を求めんには名も名とするに足らざらん。まことや、曲学阿世、己を枉げ時に媚びて文を作らば、文に天真爛漫の姿態も無く気魄も泯びて、所謂一字の巧、一句の妙ありて、全章の巧、通篇の妙なきものたるべく、雷同附和、互に賛し互に諛ひて名を求めんには、名は人情結託の腐気に汚れ、臭味を帯びて、所謂一郷の名、一党の誉あれども、百代の名、千年の誉なきものとなるべし。されば阿曲の文人は、幸にして順風に帆をあげ、一時の勢ひ千里を走りて、銜へ煙管にくゆらす煙草の薄舞(うすまひ)の煙り悠々としてあつぱれ智者めかしたりとて、もとよりおのれの力にあらねば、帰依の根本たる風の神袋の口を閉ぢ玉ふ其の時は、忽ち火皿に火の消えたありさまとなりゆく末を如何にかせん。いつはりの名を得たる才子は流行の潮先に乗る猪牙舟(ちよきぶね)仲間、たがひに油をかけ合ひの声のみ大家を気取るとも、孔雀の羽を粧ふた阿呆鳥に異ならず、烏合の勢の仲間われして終には恥をや流すらん。いでや文章を作る者の本相を云はんに、自己先づ感ずる所あつて而して後に溢るゝにまかせたる汪洋荒侈の十万余言は莊子が面目なり。自己先づ悲しむ所あつて而して後に流るゝにまかせたる泣涕悲哀の幾多の文句は、屈原が面目なり。韓非が饒舌も、史遷が軍談も、退之安石が理屈捻りも、風來支考が洒落飛ばしも、諸葛軍師が涙の手紙も、皆是れ自己ありて後、自己の文章ありたるにて、世の文章ありて後、之を真似び、之をぬすみ、之をしやぶり、之にあまんじ、之をまるのみにして之を吐き出し、此が香を取りて何首烏玉(かしゆうだま)にぬりてくす玉と号し、此が形を似せてシンコ細工を象牙細工と欺き、此が愛すべき文理、尊むべき光沢ある虎の皮をきりぬきて、犢鼻褌となし、昻々乎として人にほこり、揚々然として客に高ぶる猿芝居の雷様をまなべる者ならんや。

(『猿小言』 幸田露伴)

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作家はその作品によって幸福になるわけではない、ただ内から出て来るものを作品として書かずにはおれない(谷崎潤一郎)

2023年11月09日 | 瓶詰の古本

 芥川君の芸術は、その小説は、所謂「小説」として読んだら或ひは飽き足らないかも知れない。それは此の世に生活するのに最も不向きな体質と気質とを持ち、而も最も多方面な才能に恵まれ、最も明晰な頭脳を備へた一つの魂の、苦悶の歴史と見るときに私は多大の価値を感じる。その苦悶も決して大袈裟な、傷づいた猛獣の如き呻りではない。微かなあえぎ、喘息病みの息のやうなものが多くの作品を通じて聞かれる。君は新進作家時代にしばしば形式の完成と云ふことを主張されたが、そんなことは君の作品に於いては実はどうでもいいことである。晩年の故人は恐らく私の此の説を首肯されたことであらう。
 兎にも角にも、もつと馬鹿であるか、もつと健康であるか、孰方かであればもつと幸福に暮らせたであらうに。

(「饒舌録」 谷崎潤一郎)

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雑本の価値も古本価値の一つに数えたい(戸坂潤)

2023年11月05日 | 瓶詰の古本

   散歩の序でに、小さな古本屋で、ルナンの『科學の將來』といふ小さなうすぎたない本を見つけた。三十銭で買つた。『ヤソ傳』のエルネスト・ルナンが一八四八年頃、二十六七歳の若さで書いた本である。翻訳者は西宮藤朝氏で、氏はたしかブートルーの『自然法則の偶然性』を訳出してゐたと思ふ。この訳は全体の約半分を含むもので大正十五年に資文堂といふ出版屋から出てゐる。叢書形式の内の一冊かも知れない。さうすれば半分だけを訳して出すといふことも、分量の上から云つて止むを得ないことだつたかも知れない。
   併しそのために、何と云つても出版物としての価値を損ずること甚だしいのは事実だ。この原著自身は何も隅から隅まで眼を通さなければならぬ程大事な内容で充満してゐるわけではなく、まだ幾分に生まな常識のかき合はせに過ぎぬと思はれる部分も多いが、それにしても訳者も云つてゐる通り、ルナンの其後の仕事の方針を闡明したものとして、大いに価値のある文献なのだがそれが半分では、全く雑本としての価値しかない。かう古くなつて誰も手にとつても見ないやうになると、さういふ点が特に目に立つ。惜しいことだ。
   同じ頃でた本で山田吉彦氏訳のリボオ『變態心理學』といふのがある。之はリボオの有名な『記憶の疾患』『意志の疾患』『人格の疾患』の独立の三著を、三部作であるが故に、一冊にして訳出したものだ。かういふ加工だけですでに、古本価値のあるものだ。恐らくあまり人の読まないだらうこの訳書を、私は割合大事に、蔵つておいてゐる。之は独り原著が優秀であるばかりではない。
   序にルナンは文献学と哲学とを比較して、文献学に二次的な位置を与へてゐる。之は私にとつては興味と同情とに価する点である。又訳者がフィロロジーを文献学と訳した一つの小さな見識にも敬意を払つていゝ。科学的精神が問題になる折柄、通読しても、無駄にはならぬやうだ。

(「讀書法」 戸坂潤)

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過去を変えられる額縁を持ちながら待っている男と出会った夢

2023年11月03日 | 瓶詰の古本

 天を摩する建物の一階、頭上へ目を凝らしても終端は霞んで見えない高く伸びた吹き抜けの底面、高名なホテルのだだっ広いホール、分厚い絨毯に足を取られながらそこいら辺を漫然歩いていると、左側前方に額縁を抱えた男が立っている。明らかに私を待っているのである。私は直角に左へ折れてその人物の面前を通り過ぎる。と、今通り過ぎた私の姿が額縁の絵の中にそのまま写されるのだ。その男は私の肩越しに、もし過去の出来事を変えたいとお望みならば変えられますよ、と声を掛ける。
 試みに逆戻りに歩いてみると、額縁の中の私は男の面前をさっきとは逆方向へ歩く絵姿に変わっている。何だかよく分からないが現在は過去であり、過去を変えるために現在を生きていると告げられたのかなどという考えが頭に浮かぶ。
 現在は過去となって写され、だからその絵はいつでも、どのようにでも変えられますよと額縁を持った男は言う。

 ホールに設えられた何基ものエレベーター、いざ乗ろうとするとタイミングを外されあっちこっち扉を開け閉てされほとほと翻弄された末、辛うじて乗り込んだエレベーターで屋上階まで昇る。外へ出ると通路は建物全体を廻る回廊の造りになっていて、とにかく前へ進んで行くと遊園地が華やかな傾斜地に展がり、何組もの親子が遊び戯れている。たしかビルの屋上階に当たる空間なのに、だだっぴろい丘が青い穹窿へ連なるようになだらかに迫り上がっている。
 頭がぼうっとしてきて、あの額縁の運び屋に無性に会いたくなる。エレベーターで下のホールへ降りようとするのだが、案の定、下まで降りるのがなかなか到着してくれない。今度こそ来そうな一基の前に走って行くと、別の一基が素知らぬ顔で扉を開け、息せき切ってそこまで行くと鼻先で扉は閉まる。気が付くと今の今まで待っていたエレベーターにもやり過ごされてしまう。いっそ、階段を使った方がいいかも知れない。

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人を懐かしむ人は、いつも懐かしさを伴って思い出される人でもある(夏目漱石)

2023年11月01日 | 瓶詰の古本

 余が朝日新聞に入社の際、仲に立つものが数次往復の労を重ねた末、ほゞ相談が纒まりかけた機を見て、池邊君は先を越して向ふから余の家を訪問した。其時余は本郷の西片町に住んでゐた。余は其二階に彼を案内した。固より借家の事であるから致し方もないが、余の家は頗る蚊細く不安心に出来上つてゐた。余の如き非力なものが畳を踏んでも、二階はずしんずしんと音がした。池邊君の名は其前から承知して知つてゐたが、顔を見るのは其時が始めてなので、何んな風采の何んな恰好の人か丸で心得なかつたが、出て面接して見ると大変に偉大な男であつた。顔も大きい、手も大きい、肩も大きい。凡て大きいづくめであつた。余は彼の体格と、彼の坐つてゐる客間のきやしや一方の骨組とを比較して、少し誇張の嫌はあるが、大仏を待合に招じたと同様に不釣合な感を起した。先づ是からしてが少し意表であつた。夫から話をした。話をしてゐるうちに、何ういふ訳だか、余は自分の前にゐる彼と西郷隆盛とを連想し始めた。さうして其連想は彼が帰つた後迄も残つてゐた。勿論西郷隆盛に就て余は何の知る所もなかつた。だから西郷から推して池邊を髣髴する訳はないので、寧ろ池邊から推して西郷を想像したのである。西郷といふ人も大方こんな男だつたのだらうと思つたのである。此感じは決していたづら半分のものではなかつた。頗る真面目にさう考へたのである。其証拠には、彼が帰つた後で、余はすぐ中間にたつて余を「朝日」へ周旋するものに手紙を出した。其文句は固より今覚えてゐる筈がないが、意味をいふと、是迄話が着々進行して略纒まる段になつたにはなつたが、何だか不安心な所が何処かに残つてゐた。然るに今日始めて池邊君に会つたら其不安心が全く消えた。西郷隆盛に会つたやうな心持がする。――ざつと斯んなものであつた。池邊君が余の事を始終念頭に置いて、余の地位のために進退を賭する覚悟でゐたといふ話はつい此間池邊君と関係の深いある人の口を通して余に伝へられたから、初対面の時彼の人格に就いて余の胸に映じた此画像は全くの幻影ではなかつたのである。

(『池邊君の史論に就いて』 夏目漱石)

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