美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

瓶詰の古本屋(三十九)

2011年06月26日 | 瓶詰の古本屋

   今の自分を転回させたい思いはここにわずかにある。思いだけがずっとある。そんな思い自体を断ち切ってしまいたいと考えないでもない。そんな思いを、着物のように身に纏い続けなければ世の中は渡って行けないものだろうか。
   「手ごろな本がないようだったら、これでも持っていったら。」
   こう言いながら脇に積んであった本を取り上げると、こちらへ差し出した。茶褐色に格子縞の古い文庫本が一冊、古仙洞の掌の中にあった。傷んだ本を覆うパラフィン紙に、『瓶詰地獄』とかすれた文字で書いてあるのが辛うじて読み取れる。
   実の所ここを離れたくはなかったのだ。ガラス戸一枚隔てて、一流れの風も入り込まない店の中に立てこもって、三人で話を続けていたかった。常に自分の間近にいてしかも、決して姿を見せぬもの。それを強く感じるのだ。しかし、それは神秘的な感覚とは違う。むしろ、普通に日常的で小さい頃からずっと親しんできたはずの感覚であり、しかも、ほとんど意識に上ることのないものだ。裸で生まれて、以来一々の出来事、時には瞑暗そのもののような出来事にも潰されることなく小さな魂が生き続けてきた、その力の源となったもの。未だ意識が分明ならざるときから闇を怯えさせるとともに、闇を懐かしく思わせるものだ。
   「この本いくらですか。」
   「いいよ、それは。」
   「じゃ、遠慮なく戴いてきます。」
   「またいつでもお出で。二人ともここにいるから。ここにこうしてね。」
   ガラス戸を引き開けて外へ出た。暖かな風が顔を撃った。振り返ると古仙洞と須川はそれぞれがそれぞれの場所で本に顔を埋めていた。じっとして動かず、二人して絵の中に姿を移したかのようだった。

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