美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

那覇の夜

2009年01月30日 | 瓶詰の古本

   那覇国際通りでは、春節の休みに当たっているからだろうか、台湾などからの観光客が盛んに往来していた。楽しく群れ騒ぐ家族連れにしろ、寄り添って睦み合う恋人同士にしろ、耳に入ってくる会話のほとんどは、中国語で交わされているようだった。
   四泊した宿のベッドの上では暑くて輾転反側の出張だったとは言え、結局、寒いところには帰りたくなくなるのである。暖かい夜風に吹かれて、明かりの灯る那覇の街をどこまでも徘徊するうちに、アパートに独り居る寂しさに耐え切れず夜通し街中を歩き続けた昔を思い出して悦に入ってしまった。実に他愛なく愚かなものである。

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買った本(2009.01.19~25)

2009年01月26日 | 瓶詰の古本

   「ポンペイ最後の日」(ロード・リットン 堀田正亮訳 昭和二十八年)
   「詳解対訳徒然草」(塚本哲三 昭和二十九年)
   「バブルの物語 暴落の前に天才がいる」(ジョン・K・ガルブレイス 鈴木哲太郎訳 平成三年)

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長崎燈會

2009年01月24日 | 瓶詰の古本

   長崎ランタンフェスティバルが来週から始まるそうな。今週はその準備中。行きずりのような出張だったが。

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鯛の半片(伊達陽之助竊かに鯛の塩焼を食ふ)

2009年01月23日 | 瓶詰の古本

   (二八)伊達陽之助竊かに鯛の塩焼を食ふ
   幕末の頃伊達陽之助(陸奥宗光)は京師に在りて諸藩の志士に交通し国事に奔走する所あり 一日急に中島信行と大坂に赴く途中空腹を感ず 然れとも両人とも揃ひも揃ふて貧的なりしゆゑ路傍の一膳飯屋へ立寄り怪げなる食物にて纔に飢を免る 然るに其傍に他の客へ出だす鯛の塩焼あり 陽之助虎視眈々垂涎三尺忽ち望蜀の念を生ず 然れども如何せん嚢中固より天保一二枚のみにて払さへも覚束なき有様故忽ち此に一計を案じ亭主の外を向きし間に手早くも其の半片(かたみ)を聞召したる上直ちにその裏の方を反し置きて元の如くに見せかけ何喰わぬ顔を為して立出でたり

(「幕末明治英雄裏面史」第一篇)

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買った本(2009.01.12~18)

2009年01月19日 | 瓶詰の古本

   「訳注近古史談」(大槻磐溪 山田愚木訳 大正七年)
   「剣豪 虚構と真実」(戸伏太兵 昭和四十一年)
   「ネオコンの標的」(宮崎正弘 平成十五年)
   「ホーマー物語」(小松武治訳 大正十二年)
   「ハリウッドの懲りない面々」(マックス桐島 平成十五年)

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あやしうこそ物狂ほしけれ

2009年01月16日 | 瓶詰の古本

   兼好があやしうこそ物狂ほしけれと呟いたのは、書いている自分と書かれている文章との間に、何物か別個のあるものが介在して来ることを自覚的に捉えていた証しである。その呟きの言葉は必然として末尾から文頭に戻って行き、つれづれなるままにという言葉と運命的に反照し合い、文章と見えながら実はもう一つの見えない内語、ユリイカという叫びとなって現前することとなる。
   この一個の文章そのものが、時の流れを超えて前後の文字が宿世の感応の下に生れ落ちるのだということを、書かれた言葉の外で叫んでいる。今見る編纂の、以下に続く二百数十段に残された文字もまた、この明白な自覚の下で徒然に何物か別個のあるものとともに、兼好の筆によって書きつけられたものとして残ったのである。

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買った本(2009.01.05~11)

2009年01月12日 | 瓶詰の古本

   「ロシア 闇と魂の国家」(亀山郁夫+佐藤優 平成二十年)
   「偽装国家~日本を覆う利権談合共産主義~」(勝谷誠彦 平成十九年)
   「日本大辞典」(大和田建樹編 明治丗一年)
   「怪奇の窓①」(黒沼健 昭和四十年)
   「縮図・インコ道理教」(大西巨人 平成十七年)
  「テレビ霊能者を斬る メディアとスピリチュアルの蜜月」(小池靖 平成十九年)

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阿伊烏賢毆とは、あいうえお

2009年01月11日 | 瓶詰の古本


(あ)阿伊烏賢毆
(か)卡克以庫開哥    (が)額議悟礙岳
(さ)撒希司息沙       (ざ)雜其是席昨
(た)他氣之鐵多      (だ)逹基治的獨
(な)那泥奴内諾
(は)哈嘻夫海化       (ば)拔皮捕培簿    (ぱ)派披普弊頗
(ま)麥米磨美木      (ん)痕
(や)耶伊油賢搖
(ら)辣理路列羅
(わ)滑伊烏賢哦

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福来友吉・透視念写を信ずる学者(宮武外骨・高島平三郎)

2009年01月10日 | 瓶詰の古本

○透視念写を信ずる学者
文学博士といふ学位号を有し、又心理学者としても多少名を知られて居る福来友吉といふ人は、先年御船千鶴子長尾郁子など云ふ無学婦人の妄覚を千里眼と吹聴して大味噌を附け、又近頃は三田光一と云ふ男の手品を念写と称して地方を廻って居る中、奈良では尻を破られ、東京では化の皮を剥がれて、昨今は閉息して居るやうですが、ワタシは福来といふ人の学識も人格もマダ知らないのです、アナタは御承知でありませうから、一つ伺って見たいのは、苟しくも心理学の一斑を研究した者が、非科学的の透視だの念写だの云ふ事を信ずるのは如何な訳でせう、ヤハリ福来其人の脳に異常があって、凝念作用に潜在意識の霊覚があり物理的の発光能力があるものと信じて居たのでせうか、或は又そんな信念はなく、只々売名的若くは射利的に企てた事であったのですか、ワタシは其判定に苦しむのです、露骨に実相をお語り下さい
                                     答
今は往来も致しませんが福来氏が大学の出立ての頃には随分ワタシの処へもよく尋ねて来られ、ワタシも同氏の家を尋ねた事もあります。それから心理学会などでも一緒になることもあり随分親しくしましたが、千里眼事件以来同氏は大学を去り一切の学会に顔を出さぬものですから、数年来の氏の消息に就いては頓と知りません。ワタシは初めて氏が熊本から帰って大学で講演した時から余り興味を持たず、又ワタシとしては信じませんでしたから、それ切り千里眼や念写に就いて研究したことも調査した事もありません。随って福来氏の行動心事に就いて何ともいふことは出来ません。併しワタシにお前は千里眼や念写を信ずるかと聞かれゝばワタシは信ぜぬと答へます。此の種の問題は十八世紀以来幾多の人間が反復した誤謬です。催眠術の歴史を読めば思半ばに過ぎるせう。

(「通俗心理 奇問正答」 宮武外骨・高島平三郎)

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すべては猥雑な極小事から

2009年01月08日 | 瓶詰の古本

   すべては猥雑な極小事から生まれて来るしかなかったのだろうか。猥雑な極小事が無限に広がって行く生成の渦のなかで、統一的体系とするものを提示する諸言説は、かろうじて渦の片隅を借りて可憐な蓋然性を試されるだけであり、瞬間瞬間に放散する混沌を、言説に従って整列させるなんてことは出来ない。宇宙開闢この方、この世の出来事は多次元方向に向かって不連続的に希薄化する渦中で生起し、あるいは、無量の思念によって妄像を結び続けて来た。つかの間地上に現れる略取、聖化、革命、戦役など、これらは自らの内奥に萌した言説こそが地上の混沌を整列させることが出来ると確信した情念によって産み落とされ、飛散されて来た一瞬の幻燈画のようなものである。
   その裏面には、語り得なかった魂、忘れ果てた行為、封印した凶事、地上的な決意で獲得できないもの、人々がこれまでに捨て去らなければならなかったもの、何者によっても文字にされず、如何なる体系、如何なる発語によっても表出し得なかったもの、実在の生成渦の一滴をこの手に掌握しようと希ったほの暗い衝動、それら諸々が貼り付いている。

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買った本(2008.12.29~2009.01.04)

2009年01月05日 | 瓶詰の古本

   「遺伝子の川」(リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 平成七年)
   「なぜ人はニセ科学を信じるのかⅠ」(マイクル・シャーマー 岡田靖史訳 平成十五年)
   「金で買えるアメリカ民主主義」(グレッグ・パラスト 貝塚泉・永峯涼訳 平成十五年)
   「DAI・HONYA」(とり・みき 田北鑑生 平成五年)
   「金印偽造事件 「漢委奴國王」のまぼろし」(三浦佑之 平成十八年)

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暗がりの牛の王国

2009年01月04日 | 瓶詰の古本

   結局、ひとりで歩く技術は誰にでも開かれている。ただ、それを習得するだけの無思慮をかき集めることは、誰にでもできるわけではない。夢に見た、ほの暗い坂道、滑走路のようにろうそく状に光る道はどこにあるのだろう。あるいは、古びた寺院の庭、汀に色様々な花が咲く池はどこにあるのだろうか。歳経た七段のきざはしで、誰に逢い、なにを告げればよいのだろうか。
   気を抜くことは偽善を避ける方法だろうか。息詰まって語ることは田舎者の仕事だろうか。そして、幻想の洞窟の奥に広がる王国だけが、胸を騒がせる。神話圏を放逐された全ての人間が識域下の底に求めるのは、たった独り暗がりの牛が知るところの王国なのではあるまいかと。
  

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かくて明けゆく空の気色(吉田兼好)

2009年01月01日 | 瓶詰の古本

   つごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半過ぐるまで人の門たたき走りありきて、何事にかあらん、ことごとしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。亡き人の来る夜とて魂祭るわざは、此の頃都にはなきを、あづまのかたには、なほする事にてありしこそあはれなりしか。
   かくて明けゆく空の気色、昨日に変りたりとは見えねど、引更へ珍らしき心ちぞする。大路の様、松立て渡して、花やかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ。
   (徒然草 第十九段)

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