美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

吝嗇な梨商人(種梨)(聊齋志異)

2022年11月30日 | 瓶詰の古本

 百姓が車へ一杯梨を積んで市へ売りに来ました。たいへんにうまいものですから、価もなかなか高うございます。
 破れ頭巾に破れ布子の一人の道士がやつて来て、車の前に立つて、「どうぞその梨を一つ恵んで下さい。」と言ひました。
 「いかん、いかん、邪魔だ、邪魔だ。」と百姓がどなりましたが、中々去きません。
 百姓は大いに腹を立てて、叱り飛ばしました。
 道士が曰ひます。
 「お前さん、車の上には幾百つてなく梨が積んであるぢやありませんか。私はそれをたつた一つお呉んなさいと云ふのですよ。たつた一つぐらゐ呉れたつて、損になるものですか。そんなに怒ることはないぢやありませんか。」
 近くに之を見て居た人々が百姓に勧めて曰ひました。
 「一番悪いやつを一つ呉れてやれば可いぢやありませんか。」
 「そんな馬鹿なことがあるもんか。」と云つて百姓は肯きません。
 皆もこの百姓の余り吝嗇なのに腹を立てて、金を出し合つて梨を一つ買つて道士に呉れました。道士はその人々にお礼を言ひました。それからなほかう曰ひました。
 「私は出家の身ですから、そんなに吝嗇ではないのだよ。私も佳い梨があるから、皆さんに御馳走しませう。」
 「折角貰つたんだから自分で食ふが可いや。」などと曰ふ人もありました。
 「いや私はこの梨が欲しかつたのではないのですよ。梨の種子が欲しかつたのです。この梨の種子を此処に植ゑて、一つ梨を生して御覧に入れよう。」
 さう云ひながら大きな口を開けて、今の梨をばぺろぺろと食べてしまひました。
 そしてその種子を集めて、肩に担いでゐた荷の中から鑿を取り出し、地面へ穴を掘つて、その種子を埋めその上から土を被せました。
 「少しお湯を持つて来て下さい。」
 物好きの人が街傍の店からお湯を貰つて来てその上に掛けました。
 そして皆が見て居ると、どうです、その地面からちよろちよろと梨の木の芽が生えて来るではありませんか。見る見るうちにそれが大きくなり、忽ち立派な梨の樹の大木となつて来て、枝が出て、葉が繁りました。さうかと思ふと花が咲いて、それがまた直ぐ実になり、実が大きくなり、さもさもおいしさうに枝に鈴生りに生りました。
 道士はやをら立ち上つて、枝の先きから梨の実を捥ぎ取り、「皆さん、さあお上りなさい。」と云つて見物人に配けてやりました。
 そのうちだんだんと梨の実が無くなつてしまひました。そこで道士はまた鑿を出して、梨の木の幹を切り倒し、それを肩にかついて、のそりのそりと行つてしまひました。
 道士が魔術を行つてゐる間は梨売の百姓も面白がつて、大勢の人の中へ雑つて其模様を見物し、自分の商売をうつちやりぱなしにして居ました。道士が行つてしまつて、始めて気が付いて、道側へ置いといた車のところへ戻つて来ました。見ると車へ一杯積んだ筈の梨の実が一つもありません。
 「や、さつきあんなに道士が手当り任せに捥ぎ取つて皆にやつた梨は俺の梨だつたのだ。俺はあいつの魔法にかけられたのだな。」と分つてびつくりしました。
 所が梨の実ばかりではありません。車の梶棒も一本無くなつて居ます。よく見ると鑿で切つたばかりの新しい木口が出て居ます。
 それでくわつと憤つてしまつて、急いで道士の跡を追ひかけました。土塀の角の処で道が曲つて、その陰に梶棒が捨ててありました。
 「や、あの梨の木つてやつは俺の車の梶棒だつたのだな。」
 百姓はもうもう口惜しがつて地団太を踏みました。
 道士を捜したつて、もうそこいらには居ませんでした。人の悪い市の人たちは、面白がつて腹をかかへて笑つたといふことです。(聊齋志異巻一)

(「支那傳説集」 木下杢太郎譯)

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難儀な時代の道すじをたどる中で、より原意に忠実である邦訳を目指して刊行されたバートン版アラビアン・ナイト(辰野隆、齊藤三夫)

2022年11月27日 | 瓶詰の古本

 少年時代からアラビアン・ナイトの噺は幾度か聞いた。稀に少年本で読んだこともあつた。稍々長じて千一夜物語といふものがあることを知つたが、それがアラビアン・ナイトの別名であると気が付くまでには幾年かの隔りがあつた。いづれにせよ、この世界的奇書を通読したことは未だ嘗てなく、いつも、断片的に聞いたり読んだりしただけであつた。
 此度新に東西出版社より邦訳されるアラビアン・ナイト選集七巻は、訳書中でも定評あるリチャード・フランシス・バートン卿編纂の所謂『バートン版』に拠るといふのである。而かも訳者は何れも腕に覚えのある人士であるから、此度こそ我等は卓れた邦訳を頼りとして、千一夜の伽に宿年の望みを果さうと思ふ。
  昭和二十三年夏          辰野隆

(『バートン版アラビア千一夜物語選集 刊行を迎へて』 辰野隆)

  選集1について
 本巻には、この尨大豪華な絵巻物の発端となる「シャリャール王とその弟の物語」をまず掲げた。これは素朴ながら、女性の背信に対する深刻悲愴な物語で、その後に展開される目もあやな物語の楽園の荘重な扉にふさわしく、且つ大団円で女性の誠心に対する信頼を再び取り戻す美しい情景とよく照応するものである。
 次ぎには「バグダッドの擔夫と三人の女の物語」を選んだ。これは『千一夜物語』の中でも指を屈する名篇で、物語の構成、場面の描写ともに完璧の域に達している。原註にもあるが、擔夫と三人の女性の底抜けさわぎは、次ぎに来る托鉢僧の悲痛な物語とよく照応するものといえよう。なおこの場面について、レインが例の如きお上品ぶりから、「アラビアの貴婦人をまるで淫売婦のように表現している」と非難しているのに対して、バートンは、当時のカイロの上流社会には、ありきたりのことであつたと、実証的な反駁を加えている。こういう点に、バートンの訳業の優れた所が見られるのであつて、彼の研究論文や脚註には、正確な事実の裏づけが、殆ど常に存在している。

(『バートン版アラビア千一夜物語について』 齊藤三夫)

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谷崎潤一郎がバートン註解を手懸りに嘆美していた歓楽シーンの温気に堪える性根とてなく、数多の幼童読者を虜にして名高い中島孤島訳出の妖異奇譚書により三人の貴婦人の行状を揣摩臆測してみる(アラビアンナイト)

2022年11月23日 | 瓶詰の古本

 さて、みんなが少しばかり物を食べたあとで、アミナは杯と瓶を両方の手に取上げて、酒をなみなみとつぎました。そして、アラビヤ人の習慣に従つて、まづ自分で一杯飲んでから、姉の杯をとつて、またなみなみと注ぎました。二人の姉が、順々に飲みほして行くと、最後に四番目の杯へ一ぱい注いで、軽子の前へおきました。軽子は杯を受け取ると、まづアミナの手へ接吻して、飲む前に、即興の歌をうたつた。その意味をいつて見れば――花の上を吹いて来た風が、いゝ薫りを運んで来るやうに、今飲まうとするこの酒は、彼女の美しい手に触れて、自然の酒の香よりも、一層ゆかしい風味が添はつてゐる――かういふ趣意の歌でした。
 三人の婦人は、この歌を聞いて、大変面白がつて、自分たちも、めいめいに、ほかの歌を一つづうたひました。
 こんな風で食卓のまはりが賑かになつて、時のたつのも忘れるくらゐに、愉快に、食事をつゞけました。
 そのうちに、もう日が暮れかゝつて来たので、サフィヤは三人の姉妹に代つて、軽子にかう云ひました。
『さ、お立ちなさい。もう出発の時間だから』
 けれども軽子は、こんないゝ仲間をはなれて行くのが、惜しくてたまらなかつたので、かう叫びました。
『やれやれ! 奥さま方。こんなざまになつてゐる手前に、どこへ行けとおつしやるのです! あなた方のそばで、いゝ心地にいたゞいたので、もう何が何だか、分らなくなつちまひました。家へ行く道なんぞ、忘れちやつたでせうよ。もうどこの隅でもいゝのですから、どうぞ一晩だけ、寝ませて、気のたしかになるまで、待つて下さい。行けるやうになりさへすれば、いつでも出て行きますが、手前の魂だけは、きつとおいてまゐりますから』
 アミナはもう一度、軽子のために、とりなしをしてやる気になつて、かういひました。
『お姉さま、この人の云ふことも、無理はないと思ひますわ。さんざん私共を愉快にしてくれたのですから、この人のたのみも、聞いてやりたいわ。ねえ、本当に、わたしを愛して下さるなら、そしてわたしの言葉を用ひて下さるなら、一晩だけ、泊めてやりませうよ』
『アミナさん』
とゾベイダがいひました。
『あなたがさういふのを、いけないとはいへません』
 かういつて、顔を軽子の方へ向けて、またかういひました。
『もう一度、お頼みをきいてあげたいと思ふが、それには、新しい條件をつけてもらはねばなりません。お前さんの目の前で、わたしたちがどんなことをしようとも、決してその理由を尋ねない、といふ約束をして下さい。若し御自分に関係のないことを聞きたがつたら、ひよつとすると、とんだことが耳にはひるかも知れませんよ。ですから、わたしたちのすることを、根掘り葉掘り、聞きたがらないやうに、気をつけて下さいね』
『奥さま』
と軽子は答へるのでした。
『手前は堅くその條件を守ることを、お約束します。手前の舌は、動かないやうに、縛りつけておきませう。そして手前の目は、鏡のやうに、物が映つても、影が残らないやうに、致しておきませう』
『大変むづかしい註文をするやうですが』
とゾベイダは真面目な顔をして、いひました。
『これはお前さんに限つたことでないといふ証拠を見せるから、一しよに来て、うちの門の内側に書いてある文句を読んで下さい』
 軽子はいはれるまゝに、立つて行つて、門の上を見ると、そこには、大きな金字で、かう書いてありました。
『爾の身に関係なきことを口にする者は、爾の好まざることを聞くであらう』
 それを読むと、軽子は三人の姉妹を振りかへつて、かういひました。
『奥さま方、手前に関係のないことで、あなた方のお身の上に関しましたことに就いては、誓つて、一言も口へは出しません』
 この相談がきまると、アミナは晩飯を運んで来ました。そして沈香と、龍涎香をいれてこしらへた、小蝋燭に火をつけたので、室の中には、やはらかな光と共に、何ともいへない佳い匂ひが、充ちわたりました。
 そこでアミナは二人の姉と、軽子と一しよに、食卓の前へすわつて、もう一度、飲んだり、食べたり、歌を歌つたり、詩を吟じたりしました。婦人たちはまた自分たちの健康を祝つてもらひたいといつては、しきりに軽子に酒をすゝめて、面白がつてゐました。その間にうまい洒落が、折々、火花のやうに迸るので、食卓は大層陽気になりました。
 かうして、一同がいゝ気持になつて、笑ひ興じてゐる時に、門の外で、とんとんと叩く音が聞えました。

(「アラビヤンナイト」 中島孤島譯)

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検閲盛んな時代なので、バートン英訳版でアラビアン・ナイトを堪能していた文豪(谷崎潤一郎)

2022年11月20日 | 瓶詰の古本

 要はさつきからオブシーン・ブツクのオブシーンである所以のところを見付け出さうとしてゐるのだが、彼の手にしてゐる一巻のうちには第一夜から第三十四夜までが収(をさ)めてあつて、菊版で三百六十ペーヂもあるのだから、なかなか捜すのに手間がかかる。挿絵で釣られても中味は案外平凡な話が沢山ある。「ユーナン王とドウバン聖者の話」、「三つの林檎の話」、「ナザレの仲買人の話」、「黒き島に住む若き王の話」、――と、さう云ふ風に――標題を漁(あさ)つただけでは、どれが一番好奇心を充たすに足るものか見当が付かない。もともと此の本は今迄完全な欧州語訳がなかつたと言はれる亜剌比亜の物語を、リチヤード・バアトンが始めて逐字的(ちくじてき)に英語に移して、バアトン倶楽部から会員組織で出版した限定版であつて、殆んど各ペーヂ毎に附いてゐる親切な脚注を拾ひ読みして行くと、彼には何の興味もない語学上の研究もあるけれども、中には亜剌比亜の風俗習慣に関する解説や、多少話の内容のうかがはれる記載がないこともない。たとへば「大きく空洞(うつろ)になつてゐる臍(へそ)は美しいものとされてゐるばかりでなく、幼児にあつては健やかに生ひ立つ兆(しるし)であると思はれてゐる」と云ふのがある。「二枚の門歯――但し上顎部に限る、――の間にほんのかすかな隙間のあるのを、亜剌比亜人は美しいと感ずるのである。どう云ふ訳か分らないが変化に対する此の種族特有の愛情であらう」と云ふのもある。――「王様お抱えへの理髪師は高位高官の人間であるのが普通であつて、それは主権者の生命を指の間に預かる者だからと云ふ至極尤(もつと)もな理由に依る。嘗て或る英国の淑女で、さう云ふ印度の貴族的フイガロの一人と結婚した者があつたが、彼女は夫の官職が何であるかを知るに及んで、がつかりして興がさめたと云ふ話がある。」
「東方の回教国では、既婚者と未婚者とを問はず若い婦人の一人歩きを禁じてゐて、犯す者があれば巡査はそれを捕縛(ほばく)していい権利がある。これは密通を防ぐのに有効な手段であつて、嘗てクリミア戦争の時分に、英吉利、仏蘭西、伊太利等の士官が数百人コンスタンチノープルに駐屯(ちうとん)してゐたことがあり、彼等のうちには土耳古の婦人を手に入れたと云つて得意になつた者も少くなかつたが、実はその中に一人の土耳古人もゐなかつたに違ひないと私(バアトン)は信じる。彼等に征服された女は悉(ことごと)くギリシア人か、ワラキア人か、アルメニア人か、さもなければ猶太人である。」
「此のところは此の美しく物語られた美しい物語中での唯一の汚点で、レーンが此処を訳したために擯斥(ひんせき)されたのは一応当然なことである。……」
 要ははつとして、とうとう見付けたなと思ひながら、急いでその註を読み下した。――
「……レーンが此処を訳したために……一応当然なことである。しかし此処でもその猥雑(わいざつ)さは、われわれの古い時代の舞台のために書かれた戯曲(たとへばシエークスピアのヘンリー五世の如き)に比べてみて大した相違はないであらう。まして此の夜話のやうな物語は、男女の席で朗読されたり暗誦(あんしよう)されたりするものではないのである。」
 要は此の註の附いてゐる「バクダツドの三人の貴婦人と門番の話」と云ふのを直ぐ読みかけたが、ものの五六行も進んだ時分に茶の間の方から足音が聞えて、そこへ高夏が這入つて来た。
「君、アラビアン・ナイトは後にしないか。」

(「蓼喰ふ蟲」 谷崎潤一郎)

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実在の可愛らしいマネキン・ガールに飽き足らず、銀座往来の男どもはステッキ・ガールなる珍職業の幻(であるがゆえ)に胸躍らされてしまう(古川緑波)

2022年11月16日 | 瓶詰の古本

『この間丸ビルの丸菱のシヨウ・ウインドーにね、とても綺麗なお人形が飾つてあるんでしよ、私、まあ何てよく出来てるんだらう、と思つて、見惚れてたの、さうしたら、まあ何うでせう、そのお人形が、眼ばたきをしたのよ! 吃驚して。よくよく見たら、お人形ぢやなくて、生きた女なんぢやないの!』
 と、最近のニユースを、鬼の首でも取つたやうに、彼女は放送する、と、お友達が、
『あら、そんなこと珍らしかないわ。マネキンでしよ?』と、あつさり片付けた。
 人形の代りに、流行の衣裳を着けて、シヨウ・ウインドに立つてゐると云ふ職業――マネキン、それも『珍らしくない』時代です。
『マネキンて、つまり招くからかしら?』なんて言つたら笑はれる。
 マネキンは即ち、 MANEQUIN そもそもの語源は、一寸法師のことださうです。
 マネキン、ガールの倶楽部があつて、そこへ申し込めば、何時でも、その可愛らしい美しい、そして大きな『一寸法師』が用意されてゐるのである。
 女優が新しかつた時代がある、いや、もつと昔は、看護婦が新しかつた。そして、それから女給、タイピスト、そしてマネキンと云ふ時代にまでなつた。が、もつと飛び切り新しい女の職業がある。
『君、知つてるかい。此の頃銀座に奇抜な女がゐるんだぜ。新橋の橋際にゐてね、其処から尾張町を通つて、京橋までの銀ブラを、お供をさせて下さいと言ふんだ。銀ブラ散歩の道連れさね、それでその同伴料が、新橋際から京橋まで五十銭。うん、断髪洋装のモダン物だぜ。ステツキ代りに君、そいつを連れて銀ブラなんか新しからう。つまりステツキ代用だから、ステツキガールつてんだね』
 この話をきいてから、数日の後――
『どうも此の間の話は怪しいぜ、僕は毎日銀座へ出るから、随分気をつけてゐるが、そんな女には、ちつとも出会さないよ。君、ほんとに、そのステツキ、ガールつて、見たことがあるのかい?』
『いや、実は僕自身見たことはないんだね、その――噂だけなんだそして、その噂によると、ステツキ、ガールは余り流行るもんだから、五十銭の同伴料を、最近三円五十銭に値上げしたさうだぜ』

(『當世流行もの總まくり』 古川緑波)

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他人の言葉ばかり引いて何してると自省自虐するなど無用、どだいそのような振りしてみせることが心内に隠れなく広がる空濠の埋め合わせとなるはずもない(高見順)

2022年11月13日 | 瓶詰の古本

「ニーチェのツアラトウストラにかういふ言葉があります。人は結局やはり自分自身を体験するに過ぎないものだ。……」
「自分から出られないといふ訳ですか。自分からは出られないにしても、しかし、自分の運命からは出られるかもしれません」
「自分の運命と、運命づけられた自分と違ふものでせうか」
「ゲーテにかういふ言葉があります。欺かるるにあらず、我自らを欺くなり。――運命づけられてゐるのではなく、自分で自分を運命づけてゐるのではないでせうか」
「さうかもしれませんね。しかし……」
「しかし?」
「あなたはゲーテの言葉、僕はニーチェの言葉、思へば常に、言葉、言葉……」
「なるほど。これが僕等の病なのですね。病人は薬が無いと不安なやうに、僕等も誰かの言葉を持つてこないことには安心ならないのですね」
「薬を捨てませうか」
「いや、――僕はずつと山のサナトリウムにゐたのですが、病気が癒るのは、薬がしてくれるのではなく、自分の力が病菌の力に打ち克つといふことでした。しかしその際、薬はやはり病人を力づけてくれるものです」
「言葉もさういふ意味で大切な訳ですね」
「僕等はしかし言葉だけに頼つてゐる」
「ひとの言葉だけでなく、自分の言葉でも……」

(「天の笛」 高見順)

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語学の秘儀を握れない者が蒐書のことなど口走るは烏滸の沙汰、まして均一本について喋々するは身の程知らずなニセモノの極みだが、それでも目にしたとたん均一台へ躍り込んでしまう因果を何としよう(イバニエス)

2022年11月09日 | 瓶詰の古本

 ――何処(どこ)の言葉だつて知つてゐますよ――彼はデスノイエルルにこの隣人のことをくはしく話した時に斯う云つた――新しい言語(ことば)は耳で聴くだけでそれで幾日も経(た)たぬうちにそれを所有(もの)にしてしまふんですぜ。現代や昔の幾つもの言語(ことば)の鍵を、秘密を握つてるんですね。吾々同様にイスパニヤ語が話せるんです、それでゐてイスパニヤ語を話す国へなんぞ一度だつて行つたことがないんですぜ。
 山と積まれてある書冊の多くの標題を読んでみるとアルヘンソーラは又もや神秘的な気分になつてしまつた。大抵古書ばかりで、それも多くはとても彼には読めさうもない言語(ことば)で書かれた本で、安本屋(やすほんや)とかセーヌ河岸に陣取つてゐる古本屋の函(はこ)から拾集されたものであつた。「語学の鍵」を握つてゐるこの男のみが斯うした書物を手に入れることが出来るのだ。かうして山と積んだ、埃だらけな、中には紙魚(しみ)に咬まれたものもある書冊からは、神秘主義や超人的な伝授や幾世紀以来そのままに保(たも)たれてゐた秘密の雰囲気が発散してゐるやうであつた。またこれらの古書に混(まじ)つてまだ他(ほか)に燃えるやうな赤い表紙の書物や社会主義宣伝の絵ビラやヨーロツパの各国語で書かれたパンフレツトや革命を想ひ起こさせる標題のある多くの新聞などが姿を見せてゐた。

(「默示錄の四騎士」 ブラスコ・イバニエス作 中山鏡夫譯)

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詩心にみちたヘッケルが科学者として自然の秘奥を探求するときは、どんな摩訶不思議の未開地であろうと真摯な合理性の力によって道を切り拓き歩んで行く(シュミット)

2022年11月06日 | 瓶詰の古本

 ヘッケルは、くりかへしくりかへし執拗に攻撃をうけて来たし、現在もうけつゝある。その理由といふのは、彼が、一切の宇宙の謎の徹底的全面的解明を自分の手で発見したと宣言したからだと云ふに在る。
 かういふ意見、かういふ主張が、いかに誤りであるかは、「宇宙の謎」の序言の言葉が示してゐるところである――なほこの言葉は、この書の全構造に対する縮図として評価されねばならぬ。左の如し。
「自分が本書で述べた宇宙の謎に関する研究は、理性的に云つて、この問題に完全な解決を与へたものだといふ風な要求を掲げることはできない――自分が本書で与へたこの大問題への回答は、云ふまでもなく主観的にのみ、そして部分的にのみ正しくあるだらう――自分がこの著述によつて目論んだことは、単に、これこそは真理に通ずるのだと自分で信じてゐる道を示すことだけである」
 彼は、一八九九年十月七日、ズビアコにあつた時にも、これと同じやうな主旨のことをフランスカ・フオン・アルテンハウゼン宛に書き送つてゐる。
「自分は、この書において、自然認識の絶頂を極めたなどとはみぢんも考へてゐません(尤も、大分確信的な表現を用ひた個所が多いため、さういふ風に見られるかも知れないが)。むしろ自分は、『世界秩序』の唯一の偉大な要素、発展の唯一の原因が、われわれには未だまだ明らかでないといふ不満の感情につきまとはれてゐる位です。と云つても、自然の統一性、一切の現象に対する機械的(自然的)因果律の価値を放棄することは、自分としてはどうしても不可能です」

(「ヘッケル傳」 ハインリヒ・シユミツト著 伊東鍈太郎・淺野耕基共譯)

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交霊、接神術など迷信を信じる著名な科学者が及ぼす少なからぬ影響に吼える人(ヘッケル)

2022年11月02日 | 瓶詰の古本

 今日尚ほ流行せる迷信の中特に注意すべきは精霊の信仰なり。 今日文明人の尚ほ之を信せるもの数百万人あるのみならず、著名の学者にして尚之を脱する能はざるものゝ存するは実に驚くべき事なり。 独逸に於てはツォェルネルフェヒネル、英国に於てはヲリスクルックスなどの物理学者、生物学者之を信せりといふ。 此れ一は其の想像の逞しくして、批判力の乏しきと、一は幼年無知の時、かゝる愚説の強き印象を与へられしに由れるなるべし。 ツォェルネルフェヒネルヱーベルなどは手品遣ひスラーデに騙されたるにて、スラーデも後には其の仮面を剥がれたり。 其他の場合に於ても、かゝる精霊説の怪事は之を研究すれば欺騙に外ならず。 所謂巫祝は狡猾なる詐偽師か、又は神経の非常に過敏なるものなり。 感応といひ、精霊の声といひ、幽霊のためいきといふが如きものは、決して存する事なし。

(「宇宙の謎」 ヘッケル博士原著 岡上梁、高橋正熊共譯)

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