美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

友人の晃から聞いたという、文字にまつわる不思議な話(小泉八雲)

2024年07月10日 | 瓶詰の古本

 その頃、弘法大師は独り河畔で冥想をするのが常であつた。ある日、かように冥想の際、ふと気がついて見れば、彼の前に一人の童子が立つて、物珍らしげに大師を凝視してゐた。童子の衣服は貧乏人の着るものであつたが、顔は立派であつた。大師が怪んでゐると、童子が『貴僧は同時に五本の筆もて、字を書く五筆和尚なるか』と尋ねた。『我はその者なり』と大師が答へた。すると、童子は『貴僧はもし、その人ならんには、願くは天に字を書き玉はんことを』と云つた。そこで、大師は立上つて、筆を取り、天に向つて字を書くやうな挙動をした。して、間もなく天空に極めて美しく、文字が現れた。それから、童子は『この度は我試みむ』と云つて、大師がしたやうに、天へ書いた。また童子は『願くは我がため、河の水面に書き玉はんことを』と云つた。大師は水をほめた〻へた歌を水面に書いた。暫らくは文字が、木の葉の降つたやうに、水面に美しく留まつてゐたが、やがて流と共に動いて、浮び去つた。『この度は、我試みむ』と童子が云つて、草書で龍といふ字を書いた。その字は流水の面に留まつて動かなかつた。が、大師は字傍にあるべき一つの小さな点が無いのを見て、『何故、点を打たざりしぞ』と尋ねた。『げに忘れて侍べり。我がため点を打ち玉へかし』と答へた。そこで大師が点を打つと、不思議!龍の字が一匹の龍となつて、水中で激動し、虚空は雷雲に暗く、電光燃え上がり、渦巻く嵐の中に龍は昇天して了つた。
 で、大師は『そなたは誰ぞ』と小童に聞いた。小童は『我は呉臺山に祀らるゝ智慧の主、文珠菩薩なるぞ』と答へた。斯く語つてゐる内に、小童は変形して、神仏の美にかゞやき、四肢から柔和な光を放つて、微笑み乍ら空へ登つて、雲の外へ消えた。

(『弘法大師の書』 小泉八雲 落合貞三郎譯)

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