美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

転た身震ひせずには居られない(友近美晴)

2012年12月30日 | 瓶詰の古本

将も兵も自我自慾の凝り固りとなり芥川の言ひ分ぢやないが全く「人間獣の一疋」に帰つてしまつてゐるぢやないか。見給へ、平常なら統帥権と云ふお陰で漸く部下を統御して来てゐた将軍が統帥権の効き目が薄くなつて来ると彼自身の劣等人格を暴露して真先きに獣心を発揮するものだから一朝にして部下に見はなされてしまつて居る。これと云ふのも明治維新の志士はただ単に血気のあまり国事に奔走してゐたのではなくて松蔭にしろ西郷にしろ皆、聖学を深く修めて居たればこそ、あの尊敬すべき行動に出でられたのだと云ふことに気付かないでゐるのだ。皆、明治以来の国民教育が方向を踏み違へて来た結果であり吾々個人がそう云ふ修養を怠つて来たからではないか。僕自身少尉任官以来何をやつて来たかを省みると実に冷汗三斗の思ひがある。又科学方面のことにしてもどうだ、日露戦争以来「大和魂のある日本人」の強さを伝説的に、教へられて来たが其の神秘的強さも手榴弾一ツで大砲や戦車に向つて行つては一溜りもなく負けてしもふ事実に就いてはヒタ隠しに隠して教へられなかつた。此の日本人の非科学性はレイテでもダバオでも到る所で敗け戦として現はれてゐるぢやないか。あれを想ひこれを想ふと転た身震ひせずには居られない。よくもあれで太平洋戦争など出来たものだと思ふ、みんな吾々日本人の徳器の成就が足らず智能の啓発が足らないのに気付かなかつた罪だよ。

(「軍参謀長の手記」 友近美晴)

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2012年12月28日 | 瓶詰の古本

   「平和の発見」(花山信勝 昭和24年)
   「昭和の激流」(島田俊彦 昭和50年)
   「昭和史探索・2」(半藤一利 平成19年)

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偽書物の話(二十六)

2012年12月25日 | 偽書物の話

   門扉を開け玄関まで四、五段の石段を上り、ドア脇の呼び鈴を押す。まもなく、人の気配がして、内側からドアが開かれた。三十半ばと見える女である。髪は断髪に近く短く整えているが、あくまで細身の女性らしい体形で、背はさほど高くはないのに、すらっとした印象を与える。目が下がり気味になっているのが、表情に愛嬌を敷き均してくれている。
   「はい。」
   「あ。藻潮です。お約束した時刻にまだ早かったですが、水鶏先生はおいででしょうか。」
   「ええ。お待ちしてました。どうぞ、お入りになって。」
   玄関を入ると、沓脱がある。廊下の両側に部屋があり、突き当たりからTの字に両方向に廊下が別れ、内庭を囲むようにして対称的に部屋がある。内庭を左に回り込むようにして廊下づたいに歩いて行くと、黒い大きなドアの前に着いた。女は立ち止まり、ノックをすると、中からは「お入り。」という太い声がする。

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2012年12月21日 | 瓶詰の古本

   「昭和政治史」(中村菊男 昭和37年)
   「泡沫の三十五年」(来栖三郎 昭和61年)
   「ニーチェ」(村井則夫 平成20年)

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本土決戦(若槻禮次郎)

2012年12月19日 | 瓶詰の古本

   国家百年のために、われわれは一日も早く平和を招来しなければならぬ。戦局が錯綜していて、多少有利な局面でも展開されれば、その機会に和を講ずることは最も望ましいことであるが、制海権も制空権もことごとく喪つた以上は、それも絶望である。沖縄が落ちる。今度は内地で本土決戦をするという。本土決戦というのは、内地を焦土とするだけの話で、そんな馬鹿なことはないのである。私は東京から伊東へ帰る途中、神奈川県の巡査が護衛だといつてついてくるが、その巡査の話に、神奈川県で猟銃を集めたが、何処かの警察が焼けて、折角集めた三百挺の猟銃が焼けて困つていると、その巡査が笑つて話した。伊東へ帰つて、床屋を呼んで髪を刈らせながら、近頃どうだというと、その床屋が、毎日朝早く起きて、あそこの広場で、竹槍の稽古をしているという。そしてそれは『本土決戦ですから、敵がきたら竹槍をもつて戦うのです』というのである。まことに正気の沙汰とは思えない。大砲や、機関銃や、戦車や、飛行機に向つて、猟銃や竹槍で対抗しようとするのは、いわゆる蟷螂の龍車に向うの類である。休戦は最早焦眉の急といわなければ「ならない。

(「古風庵回顧録」 若槻禮次郎)

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我のみ生き伸んとする(佐藤尚武)

2012年12月15日 | 瓶詰の古本

   要スルニ大東亜戦モ大国同志ノ角逐ナル以上我モ亦大国トシテ終リヲ全フスベシ 南方地方ヲ戦禍ノ巷トシ我ハ蘇聯ニ対シ見苦シキ譲歩ヲ敢テシ我ノミ生キ伸ントスル如キ態度ハ大国トシテ恥ザルヲ得ズ 緬旬「タイ」等ヨリモ失望ト嘲リヲ以テ迎ヘラルルハ到底忍ビ得ザル所ナリ

(重光外務大臣宛 佐藤尚武打電)

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2012年12月14日 | 瓶詰の古本

   「証言記録太平洋戦争 Ⅰ」(米国戦略爆撃調査団 大井篤・冨永謙吾訳編 昭和29年)
   「靖国街道」(中野信夫 昭和52年)
   「三国志物語」(野村愛正 平成5年)

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偽書物の話(二十五)

2012年12月12日 | 偽書物の話

   訪ねる先の家は、小高い丘の上に広がる住宅群の一角にあり、私鉄駅前のこじんまりとした商店街を抜けたあと、更に長い坂を上らなければ行き着くことができなかった。右に緩やかに大きくうねった登り坂は、平坦になりそうな兆しをなかなか見せなかったが、それでも、前のめりになった胸と大きく開いた口で窮屈な息の出し入れを続けているうちに、やがて、段丘の表層に到着した。
   平場となって前方へ広々と延びて行く幹線道路は、横から延びて来るいくつもの枝道と交差を繰り返して数多くの区画を形成し、それら区画の中に色、形、大きさの異なる様々な住戸が相応な広さの庭を備えて、風景のなかに上手におさまっている。
   目指す家は、幹線道路を進んで、七つ目の四つ角を右に折れ、左側3番目の区画に鎮座していた。表札を確認すると、見晴が丘第8街区2-3 水鶏荘八郎とあった。今日訪ねるべき相手はこの家の主人である。鋳鉄製の門扉と胸の高さの生け垣に周囲を囲まれ、道路側からは陰になってよく見えないが、庭を抱え込むように二階造りの建家がL字形に造作されているようだ。

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相より相たすけて(高宮太平)

2012年12月06日 | 瓶詰の古本

   さて、ここで思うのは昭和日本の没落-滅亡といってもよかろう-の経緯である。敗戦直後においては日本人はみな昂奮して常軌を逸していたので、その頃のことはあえてとがめないとする。しかし戦後幾多の年月を経過した今日ですらなお多くの残滓がのこっている。そして歳月を経るにしたがい、底にたまったかすがいつのまにやら既成事実を構成し、次第に凝結しているのを見る。これはこの時代に生きて、目で見、耳で聞き、空気を呼吸してきた者としては我慢のできない不快事である。今にして心ある者は、後世史家の正しき評価を求めるために、いつわりのない事実をのこしておくべきだと思う。
   例えば戦争責任者の第一号として刑死した東条英機であるが、確かに責任者という点では一点の争いもない。けれども、東条をして戦争決意をさせたものは誰であるか。軍閥と称する一連の軍人である。それだけか、いや、軍閥をして軍事以外の政治の覇権を握らせたものがある。政治家と称するこれまたひとにぎりの連中である。軍閥、政治家を培養したのは経済人である。迎合し、便乗し、ひたすら自己の利益追求に狂奔したのが彼らである。政治、経済の腐敗堕落を猛攻し、軍閥の進出に直接間接に声援したのが言論人、文化人である。
   これらの勢力が相より相たすけて、東条をして戦争に踏みきらせたのだ。したがって責任の軽重には差等があるにしてもことごとく同罪である。共犯者といわれるのがいやなら従犯者である。だが、軍閥といわれる集団に属する者はせいぜい数十名、これを数百名と見てもよい。政治家、経済人、言論人、文化人、これらを合わせても数千名にはなるまい。そうすると、結局戦争責任者、昭和日本を滅した者は全日本人から見れば、正しく九牛の一毛程度である。
   この少数の者に引きずられた絶対多数の日本人は全く無力であったのか、無論権力はない、財力もない。とはいえ数千名と全国民である。万人に対する一人である。万人の力をもって一人の力に振りまわされたことになる。もし本気でたちあがれば万人の力をもって一人の力を制しえないはずはない。それができなかったとすれば、万人もまた不作為による共犯者たるの罪はまぬがれないはずである。
   ここにおいてか、筆者は是のごとく観ずる。戦争責任の有無を論ずるとなれば、日本国民全部が罪なしとは言えないであろう。かく言えばとて責任の所在を不明ならしめ、焦点をボカそうというのではない。戦争は軍閥がやったんだ。われわれには責任はないとすずしい顔をしている者を憎むのである。

(「昭和の将帥」 高宮太平)

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2012年12月03日 | 瓶詰の古本

   「昭和軍閥」(黒田秀俊 昭和54年)
   「川島芳子」(渡辺龍策 昭和60年)
   「天皇と戦争責任」(児島襄 平成3年)
   「後藤新平」(北岡伸一 平成19年)

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時勢遅れかは知らぬが(小山完吾)

2012年12月01日 | 瓶詰の古本

   昭和十年一月十七日
  ◎西園寺公を訪問-町田民政党総裁就任問題、岡田内閣等について
   ……………               
   なほ老公には、近来の我国政治状態に関して、すこぶる飽きたらぬ感を持たれ居るがごとく、いづれの国にありても、所詮、その国相当以上のことを期待する能はず。万事は、国民の智力に照応するだけのものにて、それ以上を望み難しといへども、ただ同じ事を実現するにつきても、そこに到る巧拙と、途中の無駄を避けるといふ点が、政治の要諦なり。然るに我国は、近来大いに損をしたと思ふ。自分の無力もあれども、近時の日本は、列国の中にありて、非常に失ふところ大なるを遺憾とす、と嘆息され、「且つ自分のごときは、時勢遅れかは知らぬが、あの日本精神をどうとかやらして、世界に云々などいふ議論は、あれは一体なんだ。日本が世界をどうするといふのか」と激語され、余、あれは結局、日本が武力をもつて、世界を征服するといふやうなことに落ちつく意味なるがごとし。つまり戦前、ドイツに流行したるトライチェッケ一流の議論ならん、と答へたるところ、ビスマークは、あれで非常に思慮周密にて、深くドイツの前途を心配したるものなるが、カイザー以下、その後、国運の指導を誤り、つひに国を破滅に導きたり、云々と語られたり。
   ……………                    

(「小山完吾日記」 小山完吾) 

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