美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

書物愛と恋愛は同根に咲く異花

2021年09月30日 | 瓶詰の古本

 書物に関する様々な含蓄を織り込みつつ古書蒐集の苦労話を語ってくれる著述家があるが、書物本体の来歴、内容、外貌、体型、匂い、肌触り等々は無論のこと、書物の蒐集譚、踪跡談自体がまた非常な興味を焚き付ける訳で、古本にまつわる愉しみは無限に深まる。さらに、書物の魔魅はあらゆるとき、ところに潜んでいるから、古本病者は絶えず書物の誘惑に曝され、必ずその誘惑に負ける運命にある。
 これに匹敵するものと言ったら、正常・異常、無垢・汚濁の差違を根こそぎ無化して来た、あの愛欲のほかには見当たらないのではないか。実になんでもアリの火勢によって御都合主義の聖域を焼き潰して歴史をここまで導いた、ある種至高の輝きを妖しく放つ欲動の双璧ではないかとさえ思われる。
 古本は愉しみの糧になるためだけに本棚に佇立しているのではない。古本は人に与えられた有限の時間を蕩尽するものである。人の生のなりゆきを左右する岐路に舞う砂埃、後悔の傷みを刻んで疼きの燠火を遺すつまずきの石、黒雲から飛来して日常の覆いを破砕しつくす雹であり、あるいは一転して、情深く添い寝もしてくれれば、寝首を掻くことも冷然とやらかす化生のものである。
 飽くことなく取っ替え引っ替え古本を追い求める古本病者は、美しい獲物を目にするたびに、これぞ最後の恋であると誓言を呟いては、タガの外れた破廉恥を繰返す漁色家と血を同じくする、永劫回帰の体現者である。

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学閥同窓にいたく執着する上層部の御意のままに記事が作られる週刊誌

2021年09月20日 | 瓶詰の古本

 学閥同窓にいたく執着する上層部の御意のままに(宣揚)記事が作られる週刊誌があるとすれば、そこでは所謂「取材者」「編集人」などは無用(死語)の存在と化しているに違いない。

がくばつ【学閥】(体)同じ学校の出身者、または同じ学派の学者によってつくられる排他的な党派。「――ほどいやなものはない」
(「例解国語辞典」)

 

がくばつ【学閥】(名) 同じ学校を出たものが利益(り-えき)を自分たちだけでとろうとする集まり。
(「講談社国語辞典ジュニア版」)

 

がくばつ〔学閥〕同じ学校を出た人のなかま。[用例]学閥のあらそいをなくす。
(「プリンス国語辞典」)

 

がくばつ0【学閥】(名)①学問上の党派。②出身学校による党派。
(「明解国語辞典 改訂版」)

 

がくばつ0【学閥】同じ学校の出身者によって作られた、排他的な党派。「――の弊を除く」
(「新明解国語辞典」)

 

がくばつ【学閥】〈名〉同じ学校を卒業した者や同じ学派によってつくられる集まり。S 派閥はばつ
(「学習百科大事典[アカデミア]国語辞典」)

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昭和十一年初頭における(石川六郎)

2021年09月18日 | 瓶詰の古本

   「政変は近いぞ!」敢て売卜先生の口吻を真似るのではないが、以上述べた政情の表裏から見て、かうした推定を下すことを自分は躊躇しないのである。併しながら最近数年間の政局の変動は、常に、然り常に予期せざる不祥事、突発事件によつて醸し出されるといふ悪例を踏襲してゐるのである。何時何事が起るか? これがいはゆる非常時の人心不安である。併しそんな事は勿論予定し得る事でないから、ここでは単に政変が近いといふ前提の下に、次の総理大臣級の人物を物色する事とする。
 後任総理を奏薦するのは、元老西園寺公の下に重臣会議を開く前例が開かれ、大体そこで決定する訳であるから、首相級人物中の誰が元老重臣のお眼鏡に叶ふかゞ問題である。而してこの元老重臣中に在つて、新内大臣齋藤實子がより多く発言の衝に立つであらうことが予期されてゐる。齋藤はタヌキ親父である。或人はこのタヌキの意味を「腹の黒い」といふ悪い意味に使用してゐるが、こゝではもつと軽い意味で、単に「喰へない人物」といふ程度に使用したのである。而して彼には相当愛憎心はあるが、比較的公平である。この元老重臣会議を外にして、後任首相の決定に対する重要なる要素は軍部即ち陸軍方面の意向である。軍部即ち陸軍方面の意向などゝいふ言葉は捕捉し難いのであるが、軍部を解剖することは本篇の目的でないから、姑らくこの儘にして置く。兎に角軍部の勢力は、絶対とは云はぬが絶大である。元老重臣と雖、この方面を顧慮せずしては後任首相を物色し得ない現状にある。現に五・一五事件の直後、齋藤内閣の出生以前、軍部は西園寺元老に対して或種の意志表示をしたと伝へられてゐる。これには肯定説もあり、否定説もあるが、兎に角西園寺が東上の車中、秦憲兵司令官が会見した事実があり、政友会の森恪が陸相官邸に詰め切つて、荒木陸相と謀議を凝らした事実があり、而して後荒木が西園寺を訪問した事実は蔽ふ事が出来ない。直接西園寺に対して「再び政友会に政権を踏襲させては陸軍が納まらない」と進言しなかつたとしても、西園寺がその空気を感得しなかつたとは断言出来ないであらう。今度の場合も、陸軍が直接意志表示をするとは考へられないが、元老重臣が軍部の空気に対して敏感であるべきことは、到底無視することが出来ない。

(『政局S・O・S』 石川六郎)

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次の総理大臣級人物(石川六郎)

2021年09月18日 | 瓶詰の古本

 然らば陸軍の巨頭中に有力な首相の候補者があるかといふに、遺憾ながら現役軍人はすべて問題にならないのである。新男爵の軍事参議官荒木貞夫は世間から最も属望される一人であつて、彼は弁舌も達者であり、教育や内部の事情にまで心を配つてゐる点では他に及ぶ者が少ないのであるが、何分彼の地位は現在の陸軍の中心勢力と逆行してゐるといふ事が公知の事実であるから、平地に波瀾を起すことの嫌ひな元老重臣に採用される気違ひママは、先づないと見なければならない。併し現在は駄目として、彼は将来首相候補者たるべき可能性を多分に有つてゐるのである。而してそれは恐らくは彼が現役を退いた後の事であらう。次に関東軍司令官南次郎も下馬評中の一人であるが、これは単なる下馬評であつて、恐らくは元老重臣の問題にも上らないであらう。南は前に陸軍大臣として軍政を担当したが、その成績は芳ばしかつたとは云はれない。現に駐満大使を兼任して文武の両権を握つてゐる訳であつて、その成績は甲か乙か丙か、当路者でなければ判らないが、要するに彼はいはゆる当選圏内に達しない。それからこれは現役ではないが、前の参謀総長、現枢密顧問官の河合操の首相説が、さきに国体明徴問題が逼迫して内閣の危機が伝へられた際に、或る一部から舁ぎ出された事がある。これは単なる陰謀の道具に使はれたゞけで、忽ち煙の如く消えて了つた。従つて彼れの問題が再燃する筈は絶対にないと見てよい。
 現役以外の軍人では、朝鮮総督宇垣一成が可能性のある唯一の存在であらう。彼は随分久しい万年候補者である。彼が現役を退いて以来、彼に対する陸軍部内の空気は頗る悪かつた。彼が陸軍大臣に在りながら政治に野心を抱き、政党員に金を蒔いたなどゝいふ事が、当時の清軍運動の第一の槍玉に上つたのである。それが宇垣をして万年候補者たらしめた大なる理由の一つであつた。が併し現在の宇垣の立場は頗る条件が好い。それは彼れが現在の陸軍の中心勢力と相当緊密な関係を有つた事である。彼に取つては文字通り「今度こそは」である。今度若し落第するやうな事があつたら、彼は政党の首領にでも乗り込んで、憲政常道論の先駆者となり、力づくで内閣を乗取る工夫をする外に、彼れの活きる道はないであらう。たゞ玆に懸念に堪へない道途の風説は、彼と齋藤新内大臣と仲が悪いといふ事である。昨年朝鮮で始政二十五年の記念祭を行つた際、齋藤は長い間の前総督であり、且つ朝鮮統治の功労者として堂々と乗込んだのであるが、宇垣はその式辞に於て一向齋藤の功労を表彰しなかつたので、齋藤は非常に不満を抱いて帰京したといふ事が伝へられてゐる。何処までが真か偽か判らないが、仮りに此事ありとしても、私憤と公事の差別位は、酸いも甘いも知り切つて居る齋藤の事だから、これを誤るやうな事は勿論ないであらう。も一つ宇垣の事に就ては、彼は近頃頗る景気が好いといふ事が伝へられてゐる。景気が好いといふのは新たに或成金実業家を金穴としたといふのである。定めし総選挙を控へて各派四苦八苦の折柄、金貰ひのワイワイ連が押すな押すなの奇観を呈するのであらう。

(『政局S・O・S』 石川六郎)

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栄誉を求めるのは、おそらく自分を完全に失うことである(フロベール)

2021年09月09日 | 瓶詰の古本

           17
 ひとがある価値を持つてゐる時、成功を求めるのは快楽のために自分を滅茶々々にすることであり、栄誉を求めるのは、おそらく自分を完全に失ふことである。

         19
 芸術は星と同じく、己れの碧空にきらめきながら、身動ろぎもせずに回転する地球を見てゐる。――美は天空からはなれることがない。

         57
 この事を認めやう、――どのやうな美しいものも知られないまゝではゐないのだとしても、醜行が喝采され、馬鹿者が大人物として通り、大人物が白痴に比較されたといふことがありえなくはないのだ。

         74
 才能のない芸術家、そこに上陸もせず又そこに自分の旗を打樹てることもなく、一生の間美に沿うて進む乞食ほど、地上において無価値なものはない。

         75
 金儲けのために芸術を造り、大衆に阿ねり、名声や金銭のために陽気な或ひは哀れな諧謔と切売りしてゐる。……芸術家は人間の中の第一等の人間だと私には思へるといふ同じ理由から、職業の中で最も賤しいものがそこにある。

         81
 作家の書架は、毎日読返さねばならぬ典籍五冊乃至六冊で出来てゐるべきである。その他の書物に関しては、それらを識つてゐるだけでよい、そしてそれ丈けで十分だ。けれども読むのには色々な読み方がある、そしてよく読むのにはそれだけの精神が必要だ!

        267
 されば、もう愛すまいと思つてゐる人々をさへも、ひとはなほ愛するのである。――如何なるものも完全に消滅するものではない。火のあとの煙は、火よりも永く続くのだ。

        324
 絶望の時にはいつも希望することが必要だ、そして希望の時には疑ふことが。


(「随想録」 フロオベエル 向田悌介譯)

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