美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

ことばのにほひ(大手拓次)

2013年04月29日 | 瓶詰の古本

   ことばは、空のなかをかけりゆく香料のひびきである。ゆめと生命とをあざなはせて、ゆるやかにけぶりながら、まつしろいほのほの肌をあらはに魂のうへにおほひかぶせるふしぎのいきものである。かはたれのうすやみにものの姿をおぼろめかす小鳥のあとのみをである。まぼろしは手に手をつないで河のながれをまきおこし、ものかげのさざめきを壺のなかに埋めていきづまらせ、あをじろいさかづきのなかに永遠の噴水をかたちづくる。
   ことばのにほひは、ねやのにほひ、沈黙のにほひ、まなざしのにほひ、かげのにほひ、消えうせし樂のにほひ、かたちなきくさむらのにほひ、ゆめをふみにじる髪ひとすじのにほひ、はるかなるうしろすがたのにほひ、あへども見知らずゆきすぎる戀人のうつりが、神のうへにむちうつ悪魔のにほひ、……

(『言葉の香気』 大手拓次)

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不完全性定理と無意識との相関

2013年04月26日 | 瓶詰の古本

   ゲーデルが数理・数式により導いたという不完全性定理とフロイトが心理学的確証として立言した無意識の実在とは、そもそも相補うものなのか、それとも相抗うものなのか。はたまた、はじめから袖擦り合わない独孤の真理としておのおの屹立しているものなのか。あるいは、そのような問いを投げる行為こそが、既に決着済みの物議を蒸し返す烏滸の沙汰ででもあるのだろうか。   
   ある特性を有する集合内において帰属集合自体の無謬性(実在性?)は数理・論理的に認識し得ぬとすることが、集合内論理にしたがって記述する天才の数式を経て証明されるという、その理路が根元から理解不能なことであり、一方、意識を意識するエンジンとしての普遍の自我や無意識領域に到達することが本当に可能か否かはまったく思慮の及ばぬことである。数学の支配下でとぐろを巻く無矛盾と掛け合うことすらできない華奢な直観は、気の利いた答一つ出せぬまま身にまとう浅はかな虚勢の中で息絶えるばかりだ。
   自己自身の姿かたちを含めた世界を視ることは絶対にできない(幽体離脱して自己自身の姿を視ていると仮説したとしても、幽体離脱して視ているものそのものを含めての世界を視ることはできない。)。自分の死後の世界を視ることもおそらくは(絶対に)できはしない。超自我の善悪美醜は捉えたくて捉えられない。ただ、影があるのみではないかとも人は言う。しかし、その影とやらを見た人は本当にいるのだろうか。その影だけでも見た人はいるのだろうか。

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均一本購入控

2013年04月24日 | 瓶詰の古本

   「奇談」(ハーン原作 北川悌二訳註 昭和29年)
   「日本のいちばん長い日」(大宅壮一編 昭和55年)
   「近世後期に於ける転換期人物の研究」(安藤英男 昭和59年)

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液体化した文学(萩原朔太郎)

2013年04月22日 | 瓶詰の古本

   詩作とは、詩人の経験内容にある対象や素材やを、韻律によつて液体化することの技術である。すべての物質は、液体化することによつて、その固体の時の形相を無くしてしまふ。詩の表現が、すべての生活経験をイメーヂ化することによつて、縹渺模糊たる風趣を帯びるのはこのためである。経験内容の素材が、その固体のままの原形で出るやうな文学は、未だ詩とは言へないのである。

(「港にて」 萩原朔太郎)

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地下鉄で見た夢(もうひとつ)

2013年04月19日 | 瓶詰の古本

   地下鉄の座席で睡り込んでいるうちに、こんな夢を見た。真っ直ぐに伸びる大道から枝分かれしたわき道のずっと先、霞のただよう彼方に行くべき目的の町がある。そこに至る道の途上に崩れかかった堂宇があり、内庭には悲喜という名の小さな古沼がある。堂宇は庭を見下ろす櫓の構えをしている。そして、白日の光を照り返す沼池を抱きかかえるようにして細い道は回り込んで更に遠くへと続いている。櫓は小高い丘に建てられている。目指す殷賑の町に至るには、大道からひっそりと隠れた道筋を探り当て、そこを倦まずに進んで丘の上まで何百段とある階段を登りつめ、櫓の袖、悲喜の沼に沿いながら求める前途を見出さなければならないらしい。
   長く難渋きわまる行路を歩んで思い知った我が身の宿命からはあり得ない僥倖に恵まれたのだろうか、大道を渡る風に舞い上がる土煙を傍らに避けた目の前に、見過ごされるべきわき道への入り口が開いている。なに考えることもなく足は小道に入り込んでとぼとぼと細い道に歩を運び、堅土の階の前に出る。いかつい階段を一段一段と踏みしめて長い時間の果てにようやく登り切る。やがて、櫓の影を抜け悲喜の沼が目に映ったとき、不意に、自分が至るべきことに至っていると知る。道は未だ前方へ導いている。ここは経由の場所の一つに過ぎないはずなのに、本当に自分が至るべきところとは、今このときのことだったという得心が前触れもなく落ちてくる。いつ行き着くとも知れない憧憬の町を遥かに望み、小道を悄然と辿りつつ朽ち果てた建物と古沼に差し掛かったとき、ほかでない、この場所を通るときを持つことこそが自分のなすべきことだったのだという全幅の得心が。

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均一本購入控

2013年04月16日 | 瓶詰の古本

   「全譯孟子詳解」(龍澤良芳 昭和4年)
   「皇軍の崩壊」(大谷敬二郎 昭和50年)
   「テレビは余命7年」(指南役 平成23年)

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地下鉄で見た夢

2013年04月14日 | 瓶詰の古本

  地下鉄の座席で睡り込んでいるうちに、こんな夢を見た。大道がある。それは、片田舎の土埃舞う大往還なのか、町々を結ぶ大街道なのか。とにかく、広々として真っ直ぐな道がある。そこに、人影を見ない。人語は聞こえず、ただ静かな広い道が陽の光を浴びている。そして、ふと気がつくと、わきへと逸れる枝道がある。油断すると見過ごしてしまうほどのひっそりとした小道がある。
  その幅狭い小道に足を踏み入れ、一歩、二歩と先へ進んで行くと、いつの間にか道の両側には色とりどりの品物を揃えた様々な商いの店が連綿として軒を連ね、人々がにぎやかに往来している。談じつつ笑いつつ、老いた人、若い者、男も女も伸びやかに楽しそうに行き交っている。さっきまで歩いて来た幹線の大道は整々としてひどく物寂しく、だからなおのこと、この小道の無限に続く雑踏は、生まれてこの方味わったことのない大きな幸福感を与えてくれるようだ。

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徒然草第二百十五段

2013年04月10日 | 瓶詰の古本

  平宣時朝臣の話に、急に宵のうちに召しだされて正装もせずに駈け付けて、さて台所をごそごそ不器用に探した末に小土器に味噌の付いたのを酒菜に、主従二人して心よく数献に及んだという話など、歳を重ねてから振り返ってみて解し得る交歓の味わいがあり、相識が差し向かいに酒を飲み交わすという、無上の喜びが心に静かに沁みてくる。年寄りになってから読む参考書も、これはこれで、お酒と同様に飽きることのない楽しみを与えてくれるのがありがたい。遠き世の文人の不朽の文章を、斯学の泰斗が篤実に解説してくれる、こんな贅沢をある世代や職域だけに独り占めさせておいてはいけない。と言うことで、次は、捨ててしまった学生社の『日本史』でも探しに行くか。それか、杯を傾けにでも。

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太平洋の幅という距離の問題

2013年04月08日 | 瓶詰の古本

   アメリカはいま盛んに日本を空襲するといつてゐる。彼等は日本の木造建築が空襲に甚だ脆弱であるの故を以て空襲に依り日本を参らせ得ると考へてゐるが、日本の木造建築、就中小なる個々の家屋こそは空爆に対する被害が小であり、また再建も極めて容易なのである。
   誰かゞ蜂の巣と皮肉つたあの米国の多数家族を抱擁せる「アパート」や、米人得意の摩天楼の如きこそ、空爆に対する被害が甚大なのである。特に米国の高層建築物は概して耐震性の顧慮が少ないから、或種の爆弾の集中的使用に対しては極めて危いものなのである。それは兎に角、私のいふ米本土への鉄槌とは、慢性的免疫性不徹底な空襲を報復的に交換するのでなく、航空作戦に加ふるにあらゆる強力な他の手段を以てし、一度これを開始せば一挙に敵国の戦意を破摧し得る如く、時日は多少かゝつても十分なる研究と準備とを整ふる必要がある。
   米本土に鉄槌を加へることの困難は、たゞ太平洋の幅といふ距離の問題だけである。而してこの距離の問題も今や偉大なる飛行機の進歩の前には最早問題ではなくなつた。わが国においては既にこの問題は技術的に解決し、独伊また米本土空襲の準備を整へつゝあり、日独伊相呼応して米本土空襲の日は必ずしもさう遠くはないのである。(昭和十八年四月十五日、陸軍技術者有功章授与式。 陸軍省軍務局長佐藤賢了少将口演)
(「戦争政話」 花見達二)

   そのころ岸田日出刀博士が、「空爆都市」という一文をよせて下さつたが、いまよんでも一々肯綮に当ることばかりで、若し政治家や軍人が、あゝした示唆に富んだ文章をよんでいたら、あゝまでひどい惨禍はなかつたのではないかと思う。文中「極端にいえば日本の都市は薪をつんで空襲を待つに等しく、欧米の都市では焼夷弾による災害は大したことにならぬだろうが、日本では焼夷弾による災害は測り知れぬものがあるであろう」といい、更に「日本に於ける都市建築物は空襲に対し、全く無抵抗主義に出来ている」といつている辺り、一々尤もなことであつたが、誰も顧りみなかつたということは如何にもナサケないことだつたと思う。
(「戦前戦後」 木舎幾三郎)

   どちらが正しい、正しくないという話ではない。日々の生活から焼け出される者のことなど誰も想像しようとはしないし、できもしないという話である。それまでの生活が全部なくなってしまうということ、一夜にしてなくなしてしまう人様の生活ということを想像できる甲斐性は誰も持とうとはしないという話である。
   精神の恐るべき欠落ではあるが、どんなに事実を堆積させても埋まらない根源的な欠落である。その欠落の果てにやって来る惨禍は、易々と用意される忘却に立て籠もる人間精神に対する、いくたびでも繰り返される歴史からの復讐なのかも知れない。

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秘魯国の結縄文字(堀誠之)

2013年04月05日 | 瓶詰の古本

南米秘魯(ぺりゆう)民族は近来著しく開明に進み其国王をインカスと称し政治文学等頗る長足の進歩を顕はしたる事能く人の知る所なるが此国の一奇事とも称さるべきは今に結縄の文字を用ふることこれなり其縄は「ラマ」或は「アルパカ」と称する秘魯に産する一種の羊の毛を組みて之れを造り且つ之を紅、黄、緑、白等種々の色に染め成して其色合と結び方とに依りて同国人の思想を自在に言ひ顕はすの法なす、此法たる固より困難にして縄の色合、結び目が応に代表すべき社会の事物と、社会の状態が応に代表せらるべき縄の色合、結び方を悉く心得ざるべからず故に国王たるインカスは民族中天性記臆力に富む人物を挙げて一国の記録を掌らしむ而して其の記録者平生の実務に由て得る所の熟練は甚だ驚くべきものにして人民より徴収すべき租税の納不納、属国より取り立つる貢物の多寡、或ひは他国よりの使節、戦争の布告或ひは條約の締結等一見して直ちに之を了解し得べく且つ時々の事変即はち地震、天災或ひは海賊の襲撃或ひは国王の薨去及び其の降誕等に至るまで細大漏さず悉く之を記録して以つて後世に伝ふといふ故に此帝国の書籍舘に到れば只種々様々の色を以つて染め作りたる毛縄が物の見事に結び付けあるを見るのみにして絶て他の文書を見ることなしと此の結縄の政を「キツプス」と称し此法尚ほ此外「アンデス」山の種族中にも常用さるヽと云へり

(「今古雅談」 堀誠之)

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均一本購入控

2013年04月02日 | 瓶詰の古本

   「戦争と人間 18」(五味川純平 昭和57年)
   「「繆斌工作」成ラズ」(横山銕三 平成4年)
   「東条英機と阿片の闇」(太田尚樹 平成24年)

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