「増訂世界人名小辞典」(京都大学新聞編集部編 昭和二十八年)
「ドストエウスキイ」(森田草平 倉田潮 大正十五年)
「恐慌前夜」(副島隆彦 平成二十年)
どんなに気高い精神であっても、ほんのわずかな人たちの間で嘆賞されたまま潰えてしまうならば、所属する社会にとって最初から何もなかったもの、行きずりの残り香か陽炎のようなものに過ぎなかろう。影響力という権力を持たない精神は、そもそも精神と呼ぶに値するものなのだろうか。気高さが極まって権力の色合いを帯びるに至ることがなかったならば、仲間内の誉め言葉の掛け合いと譏っても、あながち不当な扱いとは言えなかろう。
航跡がいずれ消えてなくなるように、爽やかな風が通りすぎるように美しいまま潰えるような気配・人性を気高い精神として称揚することなど最早できない。現実に実体世界を揺るがす権力にこそ、精神の領域にある気高さを誇称する資格がある。そして、逆もまた成り立たなければならない。つまり、精神は潰えてはならないのである。
引用書籍
編纂辞典為至難之事。此書雖為学習用之小辞典、以不足五年之短歳月中所以能完成者、全頼先輩編纂各辞典之恵。今対其恩恵、深表感謝之意、茲将編纂本辞典参考之各辞書摘要羅列於左但属於古典一類者従略。
日本語辞典
大槻文彦著 「言海」 「大言海」
落合直文著 「言泉」 「大言泉」
金澤庄三郎著 「辞林」 「小辞林」 「広辞林」
上田万年・松井簡治共著 「大日本国語辞典」
新村出編 「辞苑」
藤井乙男編 「諺語大辞典」
漢字辞典
服部宇之吉・小柳司氣太共著 「詳解漢和大字典」
簡野道明著 「字源」
上田万年・岡田正之・飯島忠夫・榮田猛猪・飯田傳一共編
「大字典」
商務印書館発行 「辞源」
華文日訳辞典
石山福治編著 「支那語大辞彙」
井上翠編著 「支那語辞典」
權寧世編著 「華語大辞典」
日文華訳辞典
難波常雄編 「漢訳日本語辞典」
石山福治編 「日支大辞彙」
井上翠編著 「日華新辞典」
服部操著 「日華大字典」
金秉藩・武田欣三共著 「日華辞典」
葛祖蘭著 「日本現代語辞典」
英文華訳辞典
商務印書館発行 「英華大辞典」
(「東亜日本語辞典」 東亜学校編纂)
新型インフルエンザについて、周りの人達は、兵庫、大阪に限らず感染の波は及んでいるはずと、淡々と当たり前に論じていた。海外経由ではあるらしいが、東京、神奈川で感染者が確認されたとの報道も、大半の人は驚きとは無縁の落ち着いた心持ちで聞いたのではなかろうか。これまで症状が重篤でないこともあり、いずれ時間の問題の結果として冷静に受け止めているようだ。ここでも、あそこでもという浮き足だった気持ちなど特になく、こうした拡がりを絶対的に防ぐことはできないのだから、既にそれと隣り合わせになっていることもあろうかと、こまめに手を洗い、うがいをするしかない。一昨日あたりは東京でもマスクが売り切れ状態だったとか。
ところで、新型インフルエンザの感染者がほとんど高校の生徒ら若年層に偏っているという現象は、僥倖ないしは今次ウイルスの特(殊)性によるのだと合点してもかまわないものだろうか。つまり、療治休みが連鎖して続いたとしても社会が機能する上で障碍が生じないような層に偏って感染者が確認されているという、ここまでの現象は。
凡ての事十分によからんことを求むれば、わが心のわずらひとなりて楽なし。禍も是よりおこる。又人の我に十分によからん事を求めて、人のたらざるをいかりとがむれば、心のわざわひとなる。又日用の飲食衣服器物家居草木の品々も、皆美を好むべからず。いささかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是皆わが気を養ふ工夫なり。
(「養生訓」 貝原益軒)
清潔を尊ぶあまりに、病者を忌む。表に顕れるを憚ってひそみ、かえって病者を増やすことのなからんことを。
兵庫、大阪の高校生等に新型インフルエンザの感染が広がっていると報じられている。海外からの空路入港者に対する検疫の具体的な作業内容はさっぱり判らないが、要は自己申告とサーモグラフィによるチェックということではないだろうか。マスコミは検疫の中身を報じることなく、盛んに水際云々と喧伝しているが、帰国、入国の時点で発症、発熱のない人達の中に潜伏するウイルスについては、こうした検疫のチェックではスルーされることになるのだから、いずれにしろ国内感染も時間の問題だった訳で、検疫によって国外からの伝播を防ぐことができないということは、厚生労働省等の専門家にとって既定の認識だったはずである。もし、そうであるならば、ウイルス侵入を水際で防いでいるといった意図不明な状況報道など尻目にして、国内感染の事態に即応した地域体制の構築や指導、広報については、おさおさ怠りなく準備万端整えられていると思いたい。
それと、昨日の新聞には、感染者が容疑者扱いされる日本の風潮の中では、それをそれとして申告しにくいこともあり、とっくに国内に入っていたのではという説も紹介されている。たしかに、短期留学の生徒が国外感染を空港で発見された件では、日頃の鬱憤晴らしからか情けない非難、誹謗が学校にあったとも聞くが、こんな時に乗じてでも他人を責め貶めることで自己愛を満足させようとするそんな心性もまた、新型インフルエンザ並みに身の毛がよだつ気味の悪さだ。またぞろ自業自得の罠にはまって行くのだろうか。
謎があるということは、考えてみると途轍もなく奇妙なことである。この世に謎があり、謎解きがあり、それをめぐって全ての人々、全ての事象を結び付ける言葉と象徴があり、肉体の動き、笑い、怒りに間違いなく力があるということは、自体不思議でなくてなんであろう。謎という次元の中で、精神が精神に訴えかける架橋を築き得る仕組み、引力と斥力のバランスは何者によって操られているものなのか。
謎は、自分が謎であると気取られたときはじめて謎となる。それ故に、世の書物には少なくとも二つの目次が必要である。「見出される謎」と「解きほぐされる謎」の二つが。謎を発見することと謎を解くことと、いずれが難しいのか謎である。
里仁 第四
十七
孔子がいふには
賢者を見ては、おのれも、あのやうにならうと思ひ、愚かなものを見ては、おのれもあのやうではないか、と、心に反省する。
二十二
孔子がいふには
古人が、言語を慎んで、かるがるしく云はなかったのは、実行がこれに伴はないことを、おそれたからである。
(「論語・大学・中庸」 田中貢太郎)