「『精神の氷点』か。開けた途端にばらけそうだな。」
「せめて本の形だけは崩さないでよな。古本が本でなくなったら、古本屋は面倒みたくてもみられなくなるんだから。見捨てさせないでよ。」
帳場の隅に積んでおいた古本に値段を書き込み始めた古仙洞は、哀願するようにたしなめたが読むなとは言わなかった。
「この前だって齋藤秀三郎、あの英学の巨人の『携帯英和辭典』を繰ってたらさ、なにかでとがめた拍子に綴糸が切れちゃって、辞書の胴体が縦に割れて真っ二つ。情けなかったよ。」
「ああ、赤表紙の袖珍本ね。あれは、おれのせいじゃあないよ。」
「そうだ。やったのはおれ様です、まぎれもなく。自分で言ってて、また情けなくなる。掌の上で、西瓜みたいに二つに割れたんだぜ。」
「それを言うなら、おれも割れてしまったことがある。いつかの夏のことだ。海端で背中を甲羅干ししていて陽に焼き過ぎたことがある。その晩一晩中ひどい高熱にうなされたときに現われた世界では、自己の固有性なんてものは消し飛んでしまっていた。自我は割れて分裂し、何人もの分身としての自分が現われる。お互いに自分自身と向き合い、何人もの自分自身を見い出していると一つ一つ納得しないではおられない。自我は、すさまじい速さで転がり回る。あるいは、同じ顔をしている分身の間を、無限にめまぐるしく飛び跳ね、跳び移って行く。今起こっていることの訳を考え抜いて理路整然と得心しろとばかり、次から次に詰め寄って来る理不尽な自問と自答の終わりない繰り返しさ。夢魔のような問答に取り絡まれ、どうして息を継いだら良いのか分からない。摩天楼の高みから飛び降り、しかも、いつまで経っても地べたに足がつかぬまま窒息寸前の状態が永劫に続くような苦しさだ。その苦しさは、いま無造作に妄想と呼んだ世界でも味わうことはなかった。」
がたりと音がする。表のガラス戸を引いて女の子が顔を覗かせた。
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